第4話 女の決意とは
声を発する事が出来るようにはなったのだが、意外にもその声は割と高いものだった。
鳥がさえずるようにとはいかないが、我ながら張りのある綺麗な声である。
これで人間のように流暢に――
「……あ、……ああ、……うう……」
だめだ、これではまるで獣のようだ。
やはりまだ人間のように上手くは喋れぬか……。
こっちは追々訓練していくとして、問題はこの影のような躰である。
全身が黒一色という、随分と期待外れな姿ではないか。
もっと絢爛な姿の方が我に相応しいのだが、なんとも洗練さの乏しい見て呉になってしまった。
こればかりは我の自由にとはならない、儘ならぬこととは歯痒いものである。
ただ、この姿になったことで意外な力が顕現した。
我の躰が影だからなのか、自身の影を操る事ができるようになったのである。
例えば地面に出来た影、これを伸ばそうと思えばどこまでも伸びていく。
我自身の形は変えられないが、影だけは好きなように形を変えられる上に伸縮自在で物にも触れられる。
さらにこの影を使って物を掴むことも出来るので、地続きであれば木の上に生る果実も採る事が出来るのである。
ふむ、これはなかなかに便利であるな。
自身の影操作に感心をしながら、その採った果実を一齧りする。
その果実を噛み砕く度に果汁が噴き出し、酸味が舌の上を支配していく。
実は実体を得たおかげで味という物を認識できるようになったのだ。
そして、味を認識できるようになって初めて判った。
こんな果実も人間の女を喰らった時のあの甘美さには遠く及ばないということを。絶望と恐怖に感情を支配された人間の実に美味であったことを。
人を喰らった記憶が我の空腹感をさらに刺激する。
手にした果実を眺めながら、人を喰らう欲求が沸々と湧き上がってきた。
我の腹の虫はこんな物では満足はせぬか……。
そして、その腹の足しにもならない果実を握り潰し、人狩りへと赴くのだった。
☆
人間の血肉を求める日々。
これ自体は以前と変わりはないが、今は感情というスパイスが我を恍惚とさせる。
絶望や憤り、怒気に嘆き、あらゆる感情が人間を上質な肉へと変貌させるのである。
この一月余り、そんな滾るような感情を見せる人間を求めて彷徨い続けた。
ある時は、借金を苦に自殺という選択肢をとった者を喰らい、またある時は盗みを働き奴隷落ちし、首輪を付けられ腕を切り落とされた者を喰らった。
自身の人生を嘆き、運命を呪いながら森の木に縄を掛けていた者。生に絶望し、自身の姿に悲哀する者。人に騙され、親子で心中せざるを得なくなり、騙した相手に憎悪の念を燃やす者。
そのどれもが、舌鼓を打つほどの良質な感情であった。
酸っぱいだけの果実や、臭いだけの獣の肉などとは比べ物にならぬ程の美味。
やはり人間ほどのご馳走はこの世に存在せぬであろう。
それにしても、この一月ですっかり病み付きとなってしまった。
元より味は二の次で我の進化の贄であったはずなのだが、今は少し目的がズレてしまっている。
もちろん変化の方は今も続いてはいる。
しかしこの一月の変化は今までのような劇的なものではない。
というのも、影のような真黒な我の躰に色が付いたというものだったのだ。
まず最初は手に色が、そしてそこから腕に広がり胸から腹へと、まるで枯れ木に花が咲くように我の躰が色付いていく。
そして、足の爪先まで色が付いた後、金色の長い髪が頭に生えてくる。
躰は細く曲線を描くようになり、胸にはふくよかな乳房が出現した。
その姿はまるで人間の女そのものであった。
残念ながら顔はまだ黒い影のままだが、他の部分は完全な人間の女の姿へと変貌したのである。
姿形などはどうでも良いと思っているのでこの変化にはあまり驚いてはいないのだが、それよりも我に性別があり、それが女であったという事が一番の驚きである。
推し量って考えるに、女の方が感情が強かったためにそちらに寄ってしまったのではないだろうか。
この一月余り多くの人間を喰らったが、やはり感情の強い女の方が旨かった。それゆえ、選り好みできるなら女の方を喰らっていた。
そのために元々性別の無かったものに性別を作り、このような姿になったと思惟するのが妥当な所か……。
さて、そんな答えの出ない事を考えるよりも、人間を狩っていたほうが有益であるのだが。
躰に色が付き始めてから、我には一つの問題が生じ始めたのである。
我は自分の躰をチラリと見下ろした。
この一糸纏わぬ姿を何とかせぬとな……。
☆
あれからしばらく思案して、この一月我を悩ませた問題がひとまず解決をした。
影を操作している時に、一つの閃きがあったのだ。
この影を利用すれば服のような物をつくれるのではないかと。
そして、影の一部の形を変えてワンピースのような服を作り上げたのである。
やはり、この影を操る力は便利であるな。
黒一色で少々野暮ったい見た目ではあるが、裾と袖の先を少し広げてやれば何とか見れる格好となった。
とりあえず、まともな服が手に入るまではこれで凌ぐしかなさそうである。
「裸でいるよりはマシというものか……」
この一月で随分と言葉も操れるようになった。
最初こそ獣のような声しか上げられなかったが、要領を掴んでしまえば簡単なものである。
要は口や舌の形によって発音し、喉の開閉によって高低差をつける。
慣れれば音を操っているようでそれなりに楽しいものである。
さて、そのような事よりも此度の獲物であるが。
森の中には一部開けたところがあり、そこには泉が湧いている。
この森にはそういった泉が数か所存在しており、この森の獣たちはその泉で水分の補給を行っている。
そんな泉の畔に佇む女が一人。
この森の中で女が一人とは珍しい事もあるものだ。
兎角この森は吸血鬼の噂のせいであまり人が寄り付かぬ。そんなこの森に、護衛も何もない女が一人とは余程の訳ありと見える。
我は気取られぬように背後からその女に近づいた。
その女は何かに祈るように、目を閉じて両手を胸の所で軽く組んで俯いている。
それを見た瞬間、「これは外れだ」そう呟いてしまった。
我が求めているのはこれではない、もっと感情を剥き出しにしている人間なのだ。
そう、これは明らかな外れなのである。
それに落胆したためかは判らないが、思わず口から声が出ていたのだ。
女はその我の声にピクリと反応を見せる。
そして、期待外れに肩を落としてその場を離れようとしたそのとき、我に対してその女は声を掛けてきたのである。
「……吸血鬼さん……ですか?」
不意に掛けられたその声に少し面を喰らってしまった。
今まで我に話掛けようという人間など皆無であった、なのでそれが自分に掛けられたものであるというのが信じられなかったのである。
これは我に向けられた言葉だろうか?
そこから疑ってしまうほど、その声は意表を突くものだったのだ。
「……そのように、呼ばれているようだな」
我がそう返答すると、女の表情はやや明るくなった。
明るくなったとはいっても、恐らくそうであろうという予測である。
なにせこの女は、世辞にも見目が好いとは謂えない容姿をしていて、それが笑顔になると余計にその器量の不味さを引き立たせてしまっているのだ。
そのせいで明るい表情をしているのかどうか判別が難しくなっているのである。
なんとも難儀な娘である……。
そして、女は尚も我に言葉を投げかける。
「吸血鬼さんは、……人を食べるんですか?」
女は肩の所で結わえて前に垂らした栗色の髪を、両手でもじもじと弄りながらそう訊いてきた。
一見おどおどしているように見えるのだが、その双眸には硬い決意のようなものが窺える。
いかにも気の弱そうな女が何を覚悟をしたのか、少々気になる所ではあるがそれよりも……。
「お前は、我が不気味ではないのか?」
人間のような躰を得たとはいえ、その面は真黒な影のまま。
幾人もの人間がこの姿を見てその表情を恐怖に引き攣らせていた。
しかしながら、この女にはそのような様子は見受けられないのである。
「……不気味ですか? 確かに怖くはありますが、……吸血鬼さんは、とても綺麗なので……」
「我が、……綺麗?」
それは意外な答えが返ってきた。
自分が喰われるかもしれないという時に相手の容姿などに気を取られるものであろうか。
不思議なことにこの女に少し興味というものが湧いてきた。
「はい、とても綺麗です。身体なんて指の先まで細くて綺麗で羨ましいです。声も澄んでいて綺麗ですし、髪なんてこんな綺麗な金色は初めて見ました。……顔も、よく見れば凄く整った形をしています。……ほんとに羨ましいです」
自分の躰を見ながら、女の言葉にまんざらでもない気がしてくる。
「あまり意識した事は無かったが、……ふむ、そういうものか」
「はい……私なんて、この通り声もガラガラで髪の色もくすんでいます。おまけにこんな顔ですから……」
そう言いながら女は顔を俯かせ、そのまま黙ってしまった。
今一つ要領を得ない、一体この女は何が云いたいのか……。
「それで、お前はこのような所で何をしておったのだ?」
我のその言葉に、その女は俯いていた顔を上げ眉尻を上げてこう云った。
「吸血鬼さん、私を、……私を食べてくれませんか!?」
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