第11話 その心、水面のように




「わあ、この森にこんな綺麗な所があるんですね」



 そこは、体を洗うためにやってきた森の中にある泉。


 吸血鬼が住まうと噂される森には似つかわしくないその光景にロキは感嘆の声を上げた。



「この森は水が豊富でな、このような泉がいくつかあるのだ」


「へぇ、凄いです!」



 ロキは泉を見つめて目を輝かせている。


 我にとっては何でもない景色であったが、奴隷をしていたロキには新鮮なのであろう。



「そんな事より早う体を洗うぞ。さっさとその腰に巻いているものを取らぬか」


「――あっ!」



 我は言いながらロキの腰巻きをスルリと奪い取った。



「――ん? なんだこの腰巻き、まだ水に浸かっておらぬのに濡れておるではないか?」


「あ、いやこれは、あの……何でもないんですっ!」



 ロキは顔を赤くし、慌てて我の手から腰巻を取り返す。



「ふむ? まあよい、早く水に浸かるぞ」



 我は纏っていた影を解いて水の中に入り、半身だけを浸からせる。



「ロキよ、こっちに来て我の体を流してくれぬか」



「…………………」



 返事の無いのを不思議に思いロキの方に振り返ってみると、火で燃え上がらせているかのように顔を真っ赤にさせていた。



「どうした、赤い顔をして? 早う我の体を流せ」


「っえ、あ、はいっ! すぐにっ!」




 ロキは我の後ろから丹念に背中を洗い流してくる。



 誰かに背中を流させるなど初めての事であったが、なんとも言えない心地の良さがあるものだ。


 ひょっとしたら、動物がやる毛繕いに似ておるやもしれぬな。



「……ロキは、年はいくつになる?」


「はい、十二歳になります」


「そうか、……若いのう……。お前は我の眷属となる道を選んだが、この先は永遠に年を取る事はない、ずっと十二歳のままだが後悔はないのか?」



 背中を流す水の音が心地好く耳朶を打つ。



「後悔なんてとんでもありません! 私はあのままでは死んでいました。それをエルレナ様に救って頂いたんです。エルレナ様にお仕え出来る事を光栄に思っていますっ」


「……そうか」



 ロキは我の肩から背に水を掛け、そこから背中をさするようにして我の体を洗った。



「エ、エルレナ様はおいくつなんですか?」


「ほう、女に年を訊ねるか?」


「あ、ご、ごめんなさい! そ、そういうつもりじゃ……」



 我はロキの慌てようが可笑しくて微笑を浮かべた。



「ふふ、構わぬよ。実は我は自分の年というものを知らぬのだ。気が付けばこの森にいて、それよりも前の記憶というのは朧気でな、あまりはっきりしないのだ」


「そうなんですか……。では、ずっとお一人で?」


「ああ、そうだな。我以外に我と同じ種族はおらぬし、人間は餌のようなものだしな」



「……寂しかったりは、しなかったですか?」



 ロキの声が少し調子を下げる。



「……寂しい? ふふっ、考えた事もなかったなそんなこと。そもそも、どういうものを寂しいと呼ぶのかすら判らぬ」


「そ、そうですか……」



 更に声の調子を落とすので、どうかしたのかと横目に後ろから背中を流すロキを見遣る。


 懸命に我の背を流すロキの表情には明らかに翳りがあった。



「背中ばかりでなく前も洗ってもらおうかの」



 そう言いながらロキの方へと振り返った。



「――!! え、あ、は、はいっ」



 するとロキはお湯にでも浸かったかのように顔を真っ赤にさせて目を逸らす。


 お互い一糸纏わぬ姿で向き合った事に、十二歳のロキには耐えられなかったようである。



「お、なんだロキ。お前、股に何か付いておるぞ?」


「えっ!? いや、これは、あの、私は男なので……その……」



 ロキは慌てて身を捩ってそれを隠す。



「ほう、これがそうなのか? ふむふむ、どれもっとよう見せてみよ」



 身を捩って隠そうとするロキの体を強引に此方に向けさせる。



「わっ! や、やめっ」


「おお、なんだ、さっきと形が違っておるぞ? どうしたことだこれは?」


「――!?」



 からかい過ぎたか、ロキは我に背を向けて水の中に体を隠してしまった。



「いや、あの、これは違うんですっ! エ、エルレナ様がお綺麗なので……その……」

 

「ほう、なんだ、我に欲情したのか? なんなら我を抱いてみるか?」



 そう言って乳房を軽く持ち上げてみる。



「おおお、おた、お戯れが、過ぎますよっ!」



 ロキは耳まで真っ赤にして水の中に潜ってしまった。



 ふむ、少しやり過ぎたかの。



「ふふ、冗談だ。どれ、今度は我がロキの背中を流してやろう」



「え、そんな、とんでもありません! 私は自分で――」


「よい、我に任せよ」



 泉の水を手に掬い、背を向けるロキの頭の上から浴びせかけた。


 ロキの髪はその水を吸ってくたりとし、髪に付着した泥の色と中に仄かに灰色を覗かせている。


 そのロキの濡れた髪を我の手で梳いてやると、それは綺麗な灰色へと変わっていく。



「綺麗な髪をしておるのう。肌の方も、水を掛けてやるだけで透き通るようではないか」


「いえっ、エルレナ様に比べれば私なんて……」


「ふふっ、それは世辞か?」


「い、いいえ、本心です!」



 ロキはまたもや耳まで赤くさせている。


 その姿を見ていると、なんとも心が穏やかになっていく。



 我はこの不思議な感覚に微笑を浮かべた。



 ロキの肩から水を掛けて、その背中を流していると随分と痩せて骨ばっている事に気が付いた。


 あばらや肩の骨が浮いていてまるで栄養が行き届いていないような体。


 それは、それまでの過酷な環境が容易に想像できるほどである。



「ロキは、生まれつき奴隷であったのか?」


「いえ、この国には奴隷はおりません。何年も前に奴隷は解放されましたので」


「ほう……、では何故ロキは?」



 ロキは少し返答に詰まった。


 

「……奴隷制は廃止されたのですが、犯罪を犯した者はその限りではないと……」


「捕まって奴隷にされたという事か」



 ロキの体に少し力が入るのがわかる。


 よほど悔しいのか、はたまた辛かったのかその体は若干の震えをみせていた。



「……ある日、私のポケットに身に覚えのない物が入っていたんです。ポケットからそれを取り出し、発見したと同時に腕を掴まれて連行されました。後はろくな取り調べもされずに奴隷商へと送られ、腕を切られ、カルメン……あの男の奴隷となったのです」



「嵌められた、というわけか」


「はい、私が住んでいた王都ではこの手の話が多くあるんです。周りに助けてくれる大人もいませんし」


「ふむ……、どんな動物でも同族の子を守るものだがな。人間というのは変わっておるのう」


「みんな貧し過ぎてそんな事に感けていられないって感じですね。子供が行方不明になるのは時々起こるのですが、大人達はすぐに忘れていってその話をしなくなるんです。そうなると注意も警戒もしなくなるので、いつまでもそういう事が無くならないんです」



 泉の上にロキの流した涙の一滴が波紋を作る。



「……辛かったか?」



 我は何故かそうしたいと思いロキの肩に触れた。



「いえ、私の事より妹の事が気がかりで……」


「妹がおるのか?」


「はい、兄妹二人で暮らしていました。私が下働きなどで稼いでなんとか暮らしていたんですが、急に私がいなくなってどうしているかと……」



 感傷というものか、我には解らぬ感覚である。


 だがロキは、眷属になったとはいっても人間であった部分がそのまま残っている。



 ひょっとすると、感傷するのに吸血鬼も人間もないのかもしれぬな。



「ロキ、こちらを向いて顔をよく見せてみよ」


「えっ、あ、わっ!?」



 ロキの体を強引に此方を向かせ、ロキの顔を両手で挟んだ。



 ロキの柔らかく澄んだ瑠璃色の瞳が我の顔を映し出す。


 驚いた顔を見せているが嫌がってはいない。繋がりを持つ眷属である故、警戒心もないのかもしれない。



 我はにやりと口角を上げる。



「ふむ、なかなかに綺麗な顔をしておるな。よし、このハンサムなロキの生まれ育った街を見とうなった。ロキにはその案内役を頼もうかの」


「えっ、エルレナ様、それって……」


「うむ、ついでにお前の妹の様子も見に行こうぞ」


「エ、エルレナ様……」



 その瞳に涙を溜めて喜ぶ顔を見せるロキ。



 そのロキの前で我は両手を広げた。



「ほれ、抱きついても構わぬぞ」


「か、からかわないでくださいよっ」


「なんだ、照れずともよいぞ。ふふふ」



 そう言って強引にロキの頭を抱きかかえて水の中に潜った。



 そして仰向けの姿勢で水面にぷかり浮きあがる。



 ロキはもっと嫌がるのかと思ったが、真っ赤な顔をしながら我に抱かれたままとなっている。



 なんとも心地よい、ふわふわとした気持ちが込み上げてくるのがわかった。



 ふむ、こういうのを何と言うのかの……。



 徐々に心が変化している、判る事といえばそれくらいであった。







「お? なんだ、やはり抱きたくなったか?」



「あ、いや、これは……」




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