第5話 ニナの恋 前編
その女、名前はニナという。
ニナは食堂の家に生まれた一男三女の末の娘であった。
末っ子である事と体が弱かったという事で、小さい頃から大層可愛がられてきた彼女は人を疑うという事をまるで知らずに育っていった。
ニナが人の悪意に初めて触れたのは、彼女が14歳の時である。
触れたといってもニナ自身が直接触れたわけではない、むしろそれによって深く傷ついたのは両親の方であったろう。
それはニナの家が生業としている食堂での事。
ニナの家の食堂は昔から評判が良く、大いに繁盛している店だった。
ニナは小さい頃からその食堂が大好きで、子供の頃から兄姉たちと一緒に店の手伝いをする事が多かった。いつも喧噪に包まれる店の中、ニナにとってはその店の中こそが家族団欒の場所だったのである。
しかし、その幸せな時間は徐々に崩れていく。
国の政策による相次ぐ増税のせいで店の経営は一気に傾き始めたのである。
仕方が無く使用人に暇を出し、何とか家族だけで乗り切ろうと皆で一丸となるのだが赤字はさらに膨らむ一方であった。
経営は悪化の一途を辿り、家族の疲弊もどんどんと深刻なものになってきていた。
そんな折である。
「あんなのが居たんじゃ飯が不味くなる」
それは客の一人の心の無い一言が切っ掛けだった。
以前の父親ならその客をぶん殴って二度と来るなと怒鳴りつけていただろう。
しかし今は不景気で客足の減る中であり、家族を食わせるのにも精一杯の状況であったのだ。
その夜、父親はニナに――
「お前はもう店に出なくていい」
――涙を流しながらそう告げたのである。
その時のニナには父の云っている意味が理解できなかった。
何度も父にその理由を問いたかったが、その父の様子を目の前にしては何も訊くことができなかったのである。
それからしばらくして、その時の理由を兄の口から知ることとなった。
その時になって初めてニナは自分の容姿の不味さに気付かされたのである。
気付かされて理解した。
周囲の人間の自分を見る目が違っていたことを、周りの友人たちの自分に対する態度に感じる違和感を。
全てが腑に落ちたのである。
それからというもの、ニナは家の中に引き籠りがちになり人とも会わないようになっていく。
両親に対する申し訳なさと、自身の醜い姿を恥じる気持ちが余計に彼女の心に鍵を掛けたのである。
そこから五年間、ニナは家から出ない生活を続けた。
当初は兄姉たちもニナを心配して外に連れ出そうとはしていたが、頑ななニナの態度に次第に腫物を触るようになっていくのだった。
母はそんなニナを不憫に思い、ニナに出来る仕事はないか知人を当たって回る事にした。
知人の知人にまで頼み込んで、ようやく一軒の衣服店を紹介してもらえることになった。
ニナは母が苦労して見付けてきてくれた仕事を無碍にする事ができず、勇気を振り絞ってその店で働く事を決意する。
衣服店は女将さんとおばさん三人で切り盛りしていて、四人共とても優しい人たちだった。
ニナはその中のおばさん二人と縫製場で仕事をする事になる。
そして、ニナはその職場をすぐに気に入った。
手先の器用だったニナには縫製の仕事は楽しかったし、何より客前に出なくていいというのがニナにとっては一番の救いだった。
何せ引き籠って以来、誰とも会う事をせず殆ど人とも会話をしていない。そんな状態でお客さんの相手をするのはニナには困難な事であったのだ。
なので、黙々と仕事をこなしていられる縫製場はとても心地の良い場所だったのである
こうしてその仕事を続けていくことで、元々明るい性格だったニナの心は徐々に元に戻っていくことになる。
そしてその衣服店で働き始めてから一年が過ぎようとしていた。
そんな時、ニナは運命的な出会いを果たしてしまう。
仕事にも慣れて、ニナの心にも随分と余裕が出てきていた頃合いである。
心に余裕ができれば少し冒険もしたくなる、そんな軽い気持ちから毎日通いなれた道とは違う道を選ばせた。
それは雪のちらつく冬の帰り道、頬に刺さる冷たさをもっと感じていたいと回り道をした時の事である。
人通りの疎らな道のその脇に、自身が描いたであろう絵画を並べ座り込んでいる一人男に目が留まった。
男は厚手の外套を着て、寒そうに身を縮こまらせながら萎れた煙草を口に咥えている。
その男は通行人を呼び止めるでもなく、ただ黙ってそこに座っているだけ。
自分が描いた絵を売り込む気など微塵も無いと謂わんばかりに、外套のポケットに手を入れ目の前を通り過ぎる人をじっと眺めているだけなのである。
自分の家が食堂で、小さい頃から商売に関わってきたニナにはその男が凄く新鮮に見えた。
自分の家だけではない、今働いている衣服店でもあんな態度で物を売っている人はいない。
皆そうして物を売っている、皆そうやって食べていっているのだ。
しかし、目の前の男はそんな素振りは一切見せない。
今まで自分が見てきたものとはまるで違う、自分を縛ってきたものとは無縁のようなその男。
ニナは自分の心臓が高鳴るのも気付かず、その男からしばらく目が離せなかった。
それは、ニナが抱いた初めての感情だったろう。
頬を軽く上気させ、心地よく胸を絞めつける。
なんとも苦しくて、なんとも切ないような、それでいて愉しい気分にさせてくれる。
ニナはそんな不思議な気持ちを抱きながらその日の帰路に着くのだった。
それからというもの、ニナは毎日のようにその男のいる道を選んで帰るようになった。
一日の終わりにその男を遠くから眺めて帰る、そんな日課がニナの中に出来上がっていた。
もちろん話掛けるような勇気はニナには無い。
自分のような容姿の不味い女が話しかけても迷惑なだけと自分に言い訳をし、こうして眺めているだけで満足だと自分を納得させていた。
それでも、ほんの少しでもお近づきになりたい。
そんな事を思ったニナは毎日一歩ずつだけその男に近づいて、自分とその男との距離を縮めていくのだった。
そうこうしているうちに、日は経っていく。
二人の距離も随分と近くなっていく。
段々と一歩が重く感じるようになってきた頃、その距離は声の届きそうな程近づいていた。
そこまで近づけば男の方も気が付くというもの。
座っている状態から急に見上げてくる男、不意を突かれたニナは遂にその男と目が合ってしまった。
心臓が早鐘を打ち、体中が真っ赤になりそうなほど全身の脈が激しく動く。
しかし酷く動揺していながらも、何かを喋らなければという強迫観念がニナを襲ってくるのである。
早く喋らなきゃ不審に思われる、そうして出た言葉は「これは御幾らですか?」の一言だけ。
それに対して男の方の答えは、「値段はそっちで付けてくれ」とぶっきらぼうに返すだけだった。
それだけでニナの心臓は潰れそうになる。
ニナは飛び出しそうな心臓を飲み込むと、持っていたお金を全部出して小さな絵を一つ買い急いでその場を離れた。
その後どうやって帰ってきたかは判らないが、気が付いた時には自分の部屋にいて買ったその絵をずっと眺めていたのだった。
これがその男、ダレンとの出会いだった。
その後もニナは足繁くダレンの所へ通っていた。
最初は殆ど会話もなく、陳列されてある絵画を眺めているだけだった。
それがそのうち一言二言と言葉を交わすようになる。
そうしてダレンもニナの存在を認識するようになった。
その頃になるとニナも自分の気持ちを自覚するようになるのだった。
それが恋であると。
初めての恋に舞い上がるニナ、しかしニナの心にはいつも自分の容姿の事が引っ掛っていた。
自分に好かれても迷惑になるだけ。
この恋は絶対口にしてはいけない、口にすればもうダレンには会えなくなる。
そう自分に言い聞かせて気持ちに蓋をした。
それから何日も経ちダレンとも随分と打ち解けてきた頃、ダレンの口から耳を疑うようなな申し出が飛び出してきた。
それは自分をモデルに絵を描かせてほしいというもの。
ニナは聞き間違いかと思い何度も訊き返すが、どうやら聞き間違いではないらしい。
こんな醜い自分を描きたいとは物好きもいたもんだと、そう云ってお断りするのだがダレンの次の言葉にニナは何も云えなくなった。
「あんたは随分と辛い目にあってきたんだろ? そういう目をしてるよ。でも俺はそういう目に惹かれる、そういう目を形にしたいんだよ。だから描かせてくれないか?」
真剣な眼差しでそんな事を云われたものだから、ニナの思考は一気に吹き飛んでしまった。
そしてニナは、「……はい」と無意識に返事をしていたのである。
ニナにとっては少し遅めの春がやってきていた。
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