第6話 ニナの恋 後編
恋は盲目。
誰かがそんな事を云ったらしいが、言い得て妙というやつである。
実際このときのニナには何も見えていなかっただろう。
それほどに、ニナにとっての初めての恋は強烈であり刺激的であったのだ。
ニナは毎日ダレンの所に通い、そして色々な話をした。
絵の事がよく解らないニナは、絵に関する様々な質問をして何とか理解しようとしたり、好きな絵の事や好きなお話、なるべく諄くならないようにいつも短い時間だけ話をする。
そうして話ていると、毎日色んな発見があった。
ダレンは割と冗談を言うのが好きだったり、親指で顎を触る癖があったり、その全てがニナをときめかせるのだ。
ダレンの少し長い黒髪も、こけた頬も、長いまつ毛も、全部がニナを夢中にさせる。
ダレンを知れば知るほど、その想いが募っていく。
ダレンも同じ気持ちならどんなに幸せだろうか。
こうして全く歯止めの利かない感情がどんどんと膨れ上がっていくのだった。
そしてそれは益々ニナを盲目とさせていくのである。
一方、家族にとってニナは一番の心配の種であった。
特に父親は、ニナが引き籠ってからずっと自分を責め続けていた。自分の言葉が切っ掛けとなってしまった事をずっと悔いていたのである。
だから、ニナを働きに出すときも慎重になっていた。
また同じ様な事があったらと、気が気ではなかったのだ。
ところが今の仕事を始めてからのニナは、徐々にではあるが以前のように明るさを取り戻してきていた。
まだオドオドした部分が残っているが、仕事を通して自信を付ければいずれそれも直っていくだろう。
父も母も、兄姉たちもそう考えるようになっていた。
ところが、ニナの明るさが以前のものとは少し違うのでは、と逸早く気付いたのは次女のアンナだった。
時おり呆けたようにしているニナの様子を見て、これは自分にも憶えのあるものではないかと考える。
ひょっとしてそうなのだとするとニナにもようやく春が来たのかと嬉しく思う反面、ニナの事を受け入れてくれる優しい相手なのだろうかと心配する気持ちも強くなる。
特に最近のニナは、自分の部屋に入られるのを物凄く嫌うようになった。
年頃の女ならそれくらいは当たり前の事と思うのだが、ニナに対する心配から次女アンナにとってはそれが違和感と映ったのである。
それに、出かける時は随分と楽し気に出かけていくのだが、帰ってきた時はぼおっとしていてすぐに自分の部屋へと閉じこもってしまうのだ。そんな不審な行動をとるニナにアンナは怪しさを感じざるを得なかった。
アンナの直感はこう云っている、恐らく部屋の中に何かを隠していると。
どうしても心配が先に立つアンナは、意を決してニナの部屋に入る事にした。
要は入った形跡を残さなければニナにはバレない訳で、何もなければそれに越したことはないとアンナは自分に云い聞かせる。
そして、ニナが仕事に出かけた隙をついてアンナはついにその部屋の扉を開けた。
そこでアンナが目にしたもの、その予想外な光景にアンナは言葉が出てこなかった。
その部屋の中には、大量の絵画が所狭しと飾られていたのである。
もちろんアンナには絵の価値はよく判らなかったが、それにしてもこの量は異常すぎた。
アンナの心配はすぐに嫌な予感へと変わっていく。
というのも、ニナの貰っている給金でこれ程多くの絵画が買えるわけがないからだ。
貰ったものだろうか?
お相手というのはどういう人間なのか?
色々な事がアンナの頭を過る。
しかしアンナは、一つの可能性にだけは目を逸らしていた。
一つの可能性、それは最近になって店の帳簿が合わなくなってきているという事である。
しかし、店の経営状態も芳しいとは言えないのが現状だった。
ジリ貧のように借金が膨らんでいく中、アンナもいつまでも目を逸らしてはいられない状態になっていく。
しばらくはアンナもこの事については黙っていたのだが、ついにそれも限界を迎え父と母に相談することにした。
父は黙ってアンナの話を聞き、最後に「わかった」と言い全て自分に任せるようにとアンナ伝えた。
その日の夜、父は帰ってきたニナを掴まえ問い質した。
あの部屋にある大量の絵はどうしたのかと、毎日帰りが遅いのは何故かと。
ニナはニナで、勝手に自分の部屋に入ったことに激しく怒りをぶつける。
激しい口論の末に、ニナは遂にある男から絵を買っている事を認めた。
買った事を認めたが、あの絵画の量はどう考えてもニナの給金で買える範囲を超えている。そうなると、その絵を買ったお金はどうしたという事になる。
父は暫く訊くことを躊躇っていたが、どうしても問い詰めざるを得なくなってしまった。
ニナはこの話になった途端口を閉ざしたが、良心の呵責もあって黙っている事に耐え切れなくなり店のお金に手を付けた事を認めた。
激しく怒った父はニナの頬を打ち、首根っこを掴まえニナの部屋に放り込むとそのまま部屋の中に閉じ込めたのである。
烈火のごとく怒る父は母たちの制止も振り切り、ニナの部屋の扉に釘を打ち付けたのである。
そして暫く出すなと母親に云い放った後、一人自室に籠り娘の頬を打った手を見つめて涙を流すのだった。
父があんなにも怒った所を初めて見たニナは酷く反省をした。
頬を擦りながら父の気持ちを考えると、自然と涙がこぼれた落ちた。
しかし、反省はしてもダレンへの想いは消えないのである。
父への罪悪感から暫くは大人しくしていたニナだったが、この彼への想いは募る一方なのである。
そして、ニナはこう考えるようになる。
会って話さなくても遠くから見るだけならと。
そう考えてしまったらもう思考はそちらへ流れてゆく。
すると、ニナは部屋の中のある一点を見つめだす。
実はニナは引き籠っていた時に部屋に抜け穴を作り、人知れず外出をしていたのである。
その抜け穴から誰にも会わないように深夜に家を抜け出していた。そうして外の空気を吸い、ストレスを発散させていたのだ。
ダレンを一目見たいと思い始めたニナは、部屋の隅にある抜け穴のある一点から目が離せない。
何度も何度も目を逸らすニナだったが、自然と体がその抜け穴の方に寄っていく。
遂に堪えきれなくなったニナは、最後にお父さんごめんと呟き外に飛び出したのである。
すぐに戻れば気付かれないだろうと、ダレンまでの道のりを全力で駆けた。
いつもと同じ道を走っているはずなのに、なかなか辿り着けない事がもどかしかった。
たった一日会っていないだけなのに、随分とダレンを焦がれていたんだとこの時になって初めて気が付いた。
そして、角を曲がったところにダレンが居るという所で足を止め、大きく息を吸い込んで切れる息を整える。
走ってきた事と、何故かずっと会ってなかったような感覚の為に心臓が高鳴った。両手で胸を抑え、深呼吸をし気持ちを落ち着かせる。
幾分落ち着いてきた所で、そっと角の陰から覗き込むとダレンはいつものように絵画を周り置いて座り込んでいた。
いつもと同じダレンの姿を確認したニナは、心が一気に満たされていく。
ずっとここで眺めていたいと、そう思えるくらいに幸せなひと時である。
しかし、その幸せも長続きはしない。
しばらくダレンを眺めていると、その彼に近づく一人の女性の姿があったのだ。
ニナの心臓は締め付けられ、不安で呼吸が苦しくなってくる。
今まで考えないようにしていたダレンの女性関係。ひょっとすると、あの女性はダレンと特別な関係にあるのかもしれない。
嫌な想像ばかりがニナの頭を支配する。
ダレンほどの男性なら女性の一人や二人居てもおかしくない。
ダレンも男性なのだから普通の事だ、そう云い聞かせるのだが不安な気持ちは収まらない。
もしあんな綺麗な女性と比べられてしまったら、そう考えるだけで足の震えが止まらなくなる。
ひょっとしたら、こんな見て呉の悪い自分の居場所なんて最初から存在していないのでは、と嫌な考えばかりが頭を過るのだった。
そうは言ってもまだあの女性とどういう関係か決まった訳ではない。単なる友人の可能性だってあるのだ。
などと考えているうちに、決定的な場面を見てしまう。
その女性はダレンに何かを渡したかと思うと、ダレンの顔に自身の顔を寄せて軽く唇を重ねたのである。
ニナの全身はがたがたと震えだした。
ひょっとしたらダレンにとって自分は迷惑な存在だったのでは、そう考えると怖くて仕方なかったのである。
そうして震えながら、その女性が立ち去るまでその様子をずっと眺めていた。
ダレンはその女性が去ってしばらくした後、絵画を片付けて何処かへ移動を始める。
これ以上何かを見るのも怖かったニナだが、それ以上にダレンの事を知りたいという気持ちが勝った。
ニナは震える足を何とか動かしてダレンの後をつけていく。
その道中、ダレンの背中がとても遠くに見えて涙が出そうになった。
それでもまだ、その背中に縋りつける可能性を信じたくて足を止める事はしなかった。
そうして暫く歩いた後、ダレンは人通りの少ない街はずれである一人の男と待ち合わせていた。
その男とダレンは何やらを話しているが、少し距離があって聞き取れない。
ニナは話を聞こうと、二人の声のする位置まで近づいていく。
幸いこの辺りは物陰の多い所だったので、見つかる事無くその距離を縮める事ができた。
そこで聞こえてきたのは、ダレンの借金の話だった。
どうやらダレンには多額の借金があるようで、この男は貸元から雇われた取り立て屋らしい。
その取り立て屋にダレンが渡しているものは先程の女性から受け取っていたもので、つまりはあの女性はダレンの借金を返すためのお金を貢いでいたという事だったのだ。
そして男は言い放つ、こんなものでは元金は減らないと、もっと金づるを増やせと。
☆
「――それからダレンにもどういう事か訊いたんですけどね、『聞いたとおりだ、もう俺には関わるな』って言うだけ言って姿を消しちゃったんです」
ニナはこれまでのいきさつを吐き出した。
溜まっていた鬱憤を晴らすように、次から次へと口から言葉がこぼれ落ちるのである。
自分の不遇を理解して欲しいのだろうが、残念ながら恋愛を理解できない我には共感する事も出来なかった。
唯そんな我にも、この娘の幼さだけは感じ取る事ができた。
「ふむ、随分と独りよがりのように感じるが、……それでその後は?」
「独りよがりですか、……そうかもしれませんね。……その後は、抜け出したことがバレて、おまけに衣服店のお金にまで手を付けた事がバレまして、それで家を追い出されちゃいました。はは……、ほんとどうしようもないですね、私……」
ニナは乾いた笑いを浮かべる。
何もかもを失い、行く当てもなく彷徨っているうちにこの森に足が向いていたというのだ。
そんなニナは自身の愚かしさにもう笑う事しかできなくなっていた。
「っで、我に喰われたいと……」
最初、感情の無いこの娘にさして食欲は湧かなかったのだが、話を聴いてみれば可成り失意の底にあるようではないか。
そうなると俄然この娘の味にも興味が出てくるというものではある。
あるのだが、それよりもこの娘を食べずに生かせて泳がせてみたらどうなるのか。
さらに旨そうな不幸を背負いこむのではないだろうか。
そんな興味を惹かれる考えが頭をもたげる。
「は、……はい。……私みたいな馬鹿は生きてちゃいけないんです」
「しかし、まだやり直す事はできるであろう? 早まってはおらぬか?」
我のその言葉にニナは大粒の涙を溢し始める。
「……ダメなんです。……私は、馬鹿で馬鹿で、本当にどうしようもないんです。……両親を裏切って、……お世話になった人も裏切って、……それで、大切な人に……騙されて……うぅっ……」
ニナは小さく呻きながら何とか言葉を絞り出した。
「敢えてお前たち人間風に言えば、そこで死ぬよりも生きて償う事のほうが良いのではないのか?」
人間が死のうと思う動機などはどうでもよいのだが、獲物を太らせてから喰うというのも悪くはない。
どうすれば美味く人間を食せるか、そんな考えから心にも無い言葉でニナを説き伏せようとするのだが、我の言葉はニナには届いていないようだ。
「ぐすっ、……私、本当に馬鹿で……。こんな……こんな事になっても、……彼の事が、好きで好きでしょうがないんです。……彼に突き放されたとき、……私が、もっとお金を用意できたらって。……どうやって用立てようかって。頭に浮かぶのはそんな事ばっかりで、……そのうち、とんでもない事をしでかすんじゃないかと、自分がよく解らなくて……」
これは面白い。
この娘、てっきり失意の中にあるのかと思えば、今も激しい恋慕の情に燃えているではないか。
太らせて喰おうかと思っていたが、これには気が変わってしまった。
恋愛感情という初めての食材が目の前に現れたことにより、我の食欲が止まらなくなる。
これは我慢するのは勿体ない、今すぐにでもこの娘を喰らいたくなったぞ。
「ふむ、では喰らってやろう。後悔はないか?」
ニナは俯きながら涙をごしごしと拭った。
「……後悔ですか。……正直、後悔だらけです。……こんな馬鹿だから死のうって思うんでしょうね。いや、……死んだら少しは馬鹿も治りますかね……」
これから死のうという人間にしては随分と呑気な事を云う。
「では我の糧と――」
「――あっ、その前に!」
「……なんだ?」
構わず喰らってやればいいのだが、どうもこの娘には調子が狂わされるようだ。
「吸血鬼さんのお名前を訊いてもいいですか? 最後に知っておきたくて……」
「名などというものは無い。そんなもの必要も無かったからな」
「そうなんですか……、じゃあ……私が名前を考えてもいいですか?」
「……好きにするがよい」
多少のおあずけは我慢しようと、ニナの話に乗ってやることにした。
「……じゃあ、エルレナっていうのはどうですか?」
「エルレナ……?」
「はい、神話に出てくる神様なんですけどね。天界に背いた唯一の神様で、叛逆の女神エルレナというんです。エルレナは天界の枠に納まりきれずに、主神イデアに反旗を翻すんです。どうですか、何にも縛られない吸血鬼さんにピッタリじゃないですか?」
ニナは話しているうちに少し表情に陰りを見せる。
我はそんな事を気にすることもなく、吸血鬼が神の名とは面白い事を云う娘だと思うだけだった。
「エルレナか、悪くはないな。では、その女神に成り代わり我が神を喰らってやろうかの」
くすりと微笑を浮かべてそう云った。
すると、ニナも少し微笑し――
「……きっとですよ」
――そう呟いた。
「もうよいな、お前を我の糧とするぞ」
「……はい」
ニナ、初めての恋に狂い人生を踏み外した女。
どこか変わった所のある不思議な雰囲気を持つ娘だったが、恐らくそれはこの女の周囲の人間もそう思っていただろう。
それは恐らく、その相手の男も……。
我はニナの首筋にそっと歯を当てた。
「……ああ、ダレン。……これで、ずっとあなたの……、……ぁぁぁああああああああああ!!!」
その断末の叫び声は、森の中にいつまでも木霊するのだった。
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