第20話 ゆかし記憶




 辺りに立ち込める毒の匂い。



 森にいる時によく嗅いだ毒の花の匂いである。



 何者かがその毒を撒いている、その事は間違いないであろう。


 最初は、こちらを見張っていた者かと思ったが、その者は今も遠くからこちらを窺っているだけで動きは無い。


 恐らく他の者がこれを仕掛けている。



 しかし、気配が無い……。



 あらゆる生き物は匂いだけは消せないものだが、その匂いすら感じないのである。


 まさか、毒を撒いただけで逃げたのか……?


 しかしこの程度の毒では……。



「……毒って、本当ですか?」



 クルフストスは口に手を当てて周囲を警戒している。



「うむ、人間には匂いわない程度に薄められておるが、我の鼻は誤魔化せぬでな」



 ここで妙な事に気が付いた。



 辺り一帯が静かすぎるのである。


 しかも、この周囲に人の気配が感じられぬ。


 ここは通りから外れているとはいえ、色々な建物の並ぶ区域である。この辺りに人の気配が感じられぬというのは、先ず以ってあり得ない。



 我らが、奴隷商館に入っている間に人払いをしたか、もしくは……。



 我らの衣擦れの音だけが煩く感じるほどの静寂。



 これだけ静まり返ってしまっては気配を殺しにくいだろうに、それでもこの毒を仕掛けた者の気配を感じる事ができぬ。


 ただ、何者かの意思のようなものがこちらに向いていると、我の直感がそう囁いていた。



「……全く気配がありませんね。どこかに、我々を狙ってる奴が潜んでるんでしょうか……?」


「恐らくな、確実に近くにいる……。気を付けろ、この毒は薄められているから吸い込んだくらいでは死にはしないだろうが、人間の動きを鈍らせるくらいはできるだろう。喋っていると、多く吸い込んでしまうぞ」


「……は、はい」



 それにしても、見えぬ相手か……。



 何かそういうスキルのようなものがあるのかのう……。



「いっそ、この辺りを焼き払ってやろうか……」


「エ、エルレナさん……!?」


「ふっ、冗談――」



 その時である。



 背後から微かな殺気を感じたかと思うや否や、背中に何かが当たるのを感じた。


 それを感じた刹那。


 その背中に感じた先にある殺気の元に我は手を伸ばして掴み取る。



「――うっ!!」



 横から聞こえるクルフストスの声。



 見ると、クルフストスの影の中から上半身だけ姿を現したフードを目深に被った男が、両手に短剣を持ち我とクルフストスの背中にその短剣を突き付けているのである。



 そして、我はその男の腕を掴んでいる。



「――なっ!?」



 男は自分の腕がいつ掴まれたのかもわからずに、間の抜けた声を上げる。



 我は男の腕を引っ張り上げ、クルフストスの傷の浅いうちにその男を影の中から引きずり出した。



「大丈夫か、クルフストス?」


「……つつ、……はい、深く刺さる前でしたので大した傷じゃありません」


「そうか、……さて、こいつをどうしたものか――」



 そう言って掴んでいた腕を持ちあげて男の面を拝んでやろうとしたそのとき。



 男は掴まれていない方の手で別の短剣に持ち替え、掴まれている自分の腕を躊躇なく切り落としたのである。



「ぐっ!!!」



 切った腕から大量の血を噴き出し、辺りに血しぶきを撒き散らす。


 しかし男は傷口を押さえる事も無く、次の動作に入る。


 

 男から素早い魔力の練り上げを感じたかと思うと。

 

 残った片手を我らに翳し、目が眩むほどの光を放って我らの視界を遮ったのである。



「くっ、光源魔術か!」



 目映い光に視界を奪われるクルフストス。



 あれほど魔術に明るいクルフストスでも、発動するまでは何の魔術かまではわからぬか。


 クルフストスは目を擦って回復を図るが、我の方は……。



 男が放った光が収まると、そこには男から噴き出した血だまりだけとなっていた。



 静寂が支配し気配も全く無い、もう既にこの場からいなくなってしまったように先程の男の存在を感じられなくなっている。



 ――しかし。



「ふっ、それで隠れたつもりか?」



 我はそこに目を向ける。


 建物と建物の間の影が出来ている場所。



 逃げると見せかけて、今もそこに潜んでいる。


 あれだけの負傷を負いながらまだこちらを狙っているとは、なかなかに見上げたものである。



 我はその影に向け歩を進めると、勢いよくその影の中に手を突っ込みそこにある物を掴み上げた。



「――なっ!?」



 男は自分で斬った腕をロープで縛り、まさに今血止めをしている真っ最中のその姿を現した。



「我から逃れられると思うたか?」



 そう言ってにやりと口角を上げる。


 その表情と、我が掴んでいるのが男の首であるということに、男は顔色を変えて戦慄する。



「ば、馬鹿な!? なぜ、場所が判った!?」


「ふっ、読みが甘かったようだのう。お前は、影の中を移動できるようだが、我は影を操ることができるのだ。お前が光を放つ前に、我の影をお前に絡ませておいたのだよ」



 我が少しでも力を入れれば死ぬという状況を理解しているのだろう、男は一切の抵抗をせずその身を委ねている。


 さすがに自分の首を斬って逃げるということも出来ぬであろうな。



「――さて、お前には何故我らを襲ったのかを訊かせてもらおうかの」



 男は首を掴まれているせいで苦しそうにはしているが、なんとか声を絞り出す。



「……くっ、そんな事を喋るくらいなら、……俺は死を選ぶ」



 なるほど、無抵抗なのは死にたくないからではなかったのか。


 ということは、今も我の隙を窺っているというわけか……。



「死ぬ前に口を割ってもらわんとのう。クルフストス、例の魔道具を」


「……え、は、はい」



 クルフストスは、歯切れの悪い返事を返してくる。



「どうかしたか?」


「いえ、何でもないですよ。魔道具ですね、すぐに」



 どうも、クルフストスの動きが鈍いように感じる。


 この男の事はさっさと済ませてしまったほうが良いかもしれぬな。



「クルフストス、異変があればすぐに言うのだぞ」


「ははは、大丈夫ですよ。それじゃ、始めますね」



 クルフストスは魔道具を取り出し、男の顔の前に持っていく。


 

 本来であればここで男の目は焦点を失い、自我を無くすところであるが……。



「おい、こちらの質問に答えるんだ」



 クルフストスの声に男は何も答えない。



 男の目を見ても、特に焦点を失っているようにも見えぬ。


 どうやら、初めての失敗か……。



 男は何も言わずに黙ってこちらを窺っている。


 その姿が我には妙に挑発的に見えた。



「……この男には効かぬようだな。どれ、我に任せてみよ。だいたいその魔道具の魔力の動きは理解したのでな」



 そう言って、男の顔のまえに我の手をかざす。



「え、エルレナさん、……魔道具無しでやるつもり……ですか!?」


「まあ、見ておれ」



 この魔道具の仕組み自体は実に簡単なものであるが、問題は人間の脳のどの部分に魔力的負荷をかけその機能を鈍らせるかということである。


 人間の脳というのはどうも複雑に出来ているようで、脳全体が連携するようにそれぞれの部分が繋がっている。


 なので、一部分だけに魔力的負荷をかけても効果を発揮しないというわけなのだ。



「人間よ、我の下僕となるのだ」



 翳した手に魔力を込めて男の脳に負荷を掛けていく。



 すると……。



「……あ、ああ、……ぺぺぺ……あぺぺぺぺぺぺ……あぺあぺぺぺぺぱあぱぱぱ……‥ぱぺぱぺぱぱぱぺぺぺぱぱぱぱ」



 男は眼球をぐるぐると回転させて、呂律の回らない言葉を発しはじめる。


 体がガタガタと痙攣を起こし、口からは泡が漏れはじめた。



「…………」


「エ、エルレナさん?」


「少々、魔力の加減を間違えたようだな……」



 どうやら、魔力が強すぎて脳を破壊してしまったようだ。


 瞬時に自分の腕を斬り落とすような判断力のある男であったが、今はもう見る影もない。



 こうなってしまっては、この男ももう役には立たぬな……。



「は、……はは、……エルレナさんらしいな……」


「ん? 大丈夫か、クルフストス――」



 我がそう声を掛けたときだった。


 クルフストスはその場にどさりと音を立てて地面に倒れこんだのである。



「クルフストス!?」



 我は急いで倒れたクルフストスを抱き起こす。



 クルフストスの顔からは血の気が失われ、大量の脂汗が噴き出ている。



 呼吸が荒く、意識も朦朧としているな……。



「これは、……毒か……?」



 これは間違いなくこの刺客の仕業だ。


 この辺りを漂っている毒ではこうはならぬ。



 となると、最初の一撃であった短剣に毒を仕込んでいたか……。



「毒を扱うなら解毒薬くらいは……」



 刺客の男は脳を破壊された為に、その場で座り込んでずっと何かしらを唱えるようにぶつぶつと喋っている。



「……あの様子では、持っていたとしても……」



 とりあえずクルフストスをこのままには出来ぬ。



 我はクルフストスを地面にうつ伏せに寝かせると、服を捲って男に刺された傷を確認した。


 その傷を見て我は確信した。


 背中の短剣で刺された傷を中心に、黒い痣のようなものが出来上がっているのである。



 やはり毒か……。


 早くせねば、毒が回ってしまうな。



 我はクルフストスの背中の傷に指を這わせ、傷口を確認すると。



「……少し痛いが我慢せよ」



 爪を立ててその傷口に指を当て、勢いよく突き刺しその傷口を広げた。



「ぐあぁっ……!!」



 クルフストスの体が一瞬硬直する。


 意識は朦朧としていても体は痛みを感じているのか……。



 背中からは血が噴き出し、毒のせいなのか痛みのせいなのかクルフストスは苦悶の表情を浮かべている。



 我はその苦悶の表情を見ながら、傷口にそっと口を着けた。


 次から次へと噴き出すクルフストスの血を吸い出すように口に含み、ごくりと喉を鳴らせながら嚥下していく。



 口の中に広がるクルフストスの血の味。

 

 それは、どこか我を落ち着かせるような心地の良い味だった。


 ずっとこの血を啜っていたいと、そう思わせるような何とも言えない懐かしさを覚えるのである。



 遠い、遠い記憶の中にあるような、さて、どこであったか……。



 我はこの者を知っているのか……?



「うぐぅっ……!」



 ――はっ!



 いかん、血を吸い過ぎたか?


 吸い出せる毒はもう殆ど取り除いたが、体内の奥に入ってしまったものは吸い出すのは無理だな……。



「クルフストス、直ぐに止血をしてこの場を離れるからな。もう暫く辛抱せよ」



 そう言って、我が服の端を破りそれをクルフストスの傷口に当てたその時である。



 刺客の男が急に立ち上がり物陰に移動し始めた。


 ふらふらと心細い足取りで、まるで何かに引っ張られるように。



 男はその物陰に手を突っ込んで妙な紐のようなものを取り出すと、それを勢いよく引っ張り上げる。



 ――すると。



 四方から無数の矢が、我やクルフストス、そしてこの刺客の男のいる周辺に降り注いだのである。



 まずい! これではクルフストスがっ。



 我は無意識で体が動いたように、クルフストスの体に覆いかぶさった。



 雨のように降り注ぐ矢が、我の背中や足、腕と、全身に突き立っていく。


 この程度の傷は我なら一瞬で再生できるが、人間であるクルフストスには一つ一つが致命傷になりかねない。



 しばらく続いた矢の雨も次第に収まりを見せる。



 かなりの量の矢を仕掛けていたらしく、周囲には地面を覆いつくすほどの矢が転がっていた。


 その転がる矢の中に、刺客の男も全身に矢を受けて倒れている。



 最後の自滅手段であったか……、思考力も失われていたはずであるのに見上げた男だ。



「う、うう……」


「クルフストス、無事か?」



 返事はないが、呻き声だけは上げている。


 見ると、クルフストスの体には腕に一本、足に二本の矢が刺さっていた。


 さすがに全部は防ぎきれなかったが、この程度では致命傷にはなるまい。

 


「もう少し耐えるのだぞ、クルフストス」



 そう言って、うつ伏せに寝転がるクルフストスの髪を一撫でする。



 そして、クルフストスの体を持ち上げ、肩に担いでこの場を離れようとしたそのとき、この刺客の男の攻撃はまだ終わっていないことに気が付かされる。



 すぐ近く、つまり刺客の男が倒れている方から、異様に魔力が高まるのを感じたのである。



 男は倒れたままピクリとも動かない。


 しかし、魔力だけはどんどんと膨れ上がっていく。



 こいつ、まだ死んでおらぬのか……!?



「……しかもこれは、……前にクルフストスが言っていた……」



 となると、このままここにいるのは拙い。



 クルフストスを担いだまま、地面を蹴りその場で大きく飛び上がって建物の屋根の上に上がると、さらにそこを足場に大きく飛び上がる。



 そうして飛び上がった上空で下方に視線をやった。



 ――そのときである。



 けたたましい爆音と共にびりびりと空気が振動し、周囲の建物の一部が破壊され、その崩落と共に砂煙を上げる。



 やはり、魔力を暴発させたか。


 事前にクルフストスに聴いておいて良かったな、あんなものを喰らってはクルフストスが一溜まりもなかった。



 それにしても、あの男は何者だったのか。


 本能で動いていたとしか思えぬが……、あんな人間もいるのか……。




 あの男をあそこまで突き動かすものは何であったのか……。



 そんな事を考えながら、我はこの場を後にするのだった。






   ☆






「……行ってしまったか。あれは、後を追えないな。向こうもこっちに気付いてたみたいだし」



 エルレナ達を見ていた遠くの気配。



「それにしてもキールのやつ、あっさりやられやがって……」



 それは、千の兇刃のダンである。



「もうちょっと粘ってくれないと参考にならねぇじゃねぇか……。まあ、フェリクスなら何か策を考えるか」



 ダンはのそっとその場で立ち上がる。



 そして、エルレナが去った方向に振り返り。




「……確かに、美女だったな……」




 ゆっくりとその場を後にした。





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