第十話 ひとつの終わり
ファバ・ミナが家から飛び出したのは、もう夜も遅い時間帯だった。
空の月は雲に隠れていたが、大通りには、ところどころに街灯――魔法灯――も設置されている。薄暗いながらも、全くの暗闇というわけではなかった。
「絶対に、家から引き離してやる!」
あらためて決意する意味で、声に出すファバ。
家に現れた『悪霊』を、父レグのいる家から遠ざけるために、ファバは走り出したのだが……。
「ひっ!」
ファバの口から、恐怖の叫びが飛び出してしまう。
いつのまにか、問題の『悪霊』が、ファバの前方に移動していたのだ。
それも、一人ではない。今や『悪霊』の姿は、複数に増えていた。
夜遅くとはいえ、まだ起きて遊んでいる者もいる時間帯だ。ざっと大通りを見渡すだけでも、二、三人くらいは出歩いているのが目に入るだろう。
だが、今のファバは、自分の父親でさえ『魔女』の幽霊に見えてしまうような状態だ。通りを歩く見知らぬ人たちも全て、ぼうっとした白い人影、つまり『悪霊』に見えるのだった。
「ぶ、分裂した……?」
先回りされたことよりも、まず、その数が増えたことに驚くファバ。
理解を超えた恐怖から、思わず立ち止まってしまったが、勇気を奮い起こして、ファバは再び走り出す。その足は自然と、視界に入る全ての『悪霊』から遠ざかる方角へ向かっていた。
「逃げてどうする……!」
そう思いながらも、本能的な恐怖を感じる。どうしても『逃げる』という選択肢を体が選んでしまう。自分を情けない、と思うと同時に、
「いや、これでいい」
ファバは、考え直した。
この『悪霊』を全て、自分が引き受けるのだ。自分の家から、父レグから、引き離すのだ。そのためには、一見『逃げる』ような形であっても、この近辺から遠ざかるという行動は、間違ってはいない……。
自分は正しいと信じて、ファバは、ひたすら走るのだった。
ファバは『悪霊』たちを引き連れて逃げ回っているつもりなのに、いつも前の方の遠くに、また別の『悪霊』の姿が――あやふやな白い人影が――見えてくる。その度に彼は、進路を変えざるを得なかった。
そうこうしているうちに、もうファバ自身、どこをどう走っているのか、わからなくなってきた。
いくら『悪霊』の数が増えても、わあっと彼らがファバに殺到して
「いや、これでいいはずだ。僕が走るのを止めたら、こいつらは皆、僕の家に向かうかもしれない……」
もはや理屈にもならぬ理屈で、ファバは自分を納得させようとする。
やがて。
前方に、大きな橋が見えてきた。
「あれは……」
彼は引き寄せられるように、その橋へと向かう。
欄干の、橋の入り口にあたる部分には、立派な青い龍の装飾が施されている。そこには『五号大橋』という表記も掲げられていた。
それを横目で見ながら、ファバは橋を渡り始める。そして橋の中ほどまで進んだところで、足を止めて、一息つく。
眼下に流れる川の表面は、きらきらと光っていた。夜空の雲間からこぼれる、わずかな月の光を、懸命に受け止めているかのようだった。
「ああ、カモン川だ。街を守る、東の青龍だ……。いつのまにか僕は、こんな東まで来ていたのか……」
カモン川。
地方都市サウザの東側を、北から南に向かって流れている。街を抜けた後は、南にある小さい山――『キャンプ場』と呼ばれる丘――を迂回するような形で、大きく東へ進路を変えてから、最後には南方の海へと流れ込むらしい。
その川の形を龍になぞらえて、カモン川は『青龍』と呼ばれることがある。つまり、街の守護神の一つとして扱われることがある。欄干にあった龍の彫刻も、そんな人々の思いを反映するものだった。
「さすがに、この時間は誰もいないのだな」
夜の川を眺めながら、ふと呟くファバ。
カモン川にかかる橋には、北から南の順に番号が振られている。ここ『五号大橋』は南側の区域にかかる橋なので、この辺りは、川幅もかなり広くなっていた。両岸ともに綺麗に舗装され、広々とした川辺では、寄り添うように座る恋人たちの姿が、数多く見られるという。
だが、それも昼間の話であり、こんな夜の川には当然、カップルなど見当たらない。視界に入る人影の全てが『悪霊』に見えてしまう今のファバには、愛に満ちた恋人たちですら恐ろしい幽霊に見えるはずだから、誰もいないのは幸いなのだろうが……。
「カモン川が街の守護神だというなら……。もしも、その神に僕の身を捧げたら、この『呪い』も終わりになるのだろうか。悪霊も鎮まるのだろうか」
ファバの口から、そんな言葉が漏れる。彼の頭の中では、先ほど部屋で聞いた『その命をもって責任を取れ』という声が、強くこびりついていたのかもしれない。
――――――――――――
同じ頃。
ピペタ・ピペトの部下である騎士タイガは、ぶらぶらと一人で、夜の街を歩いていた。
いつもならば騎士寮で夕食を済ませるのに、今夜は、外へ飲みに出かけていたのだ。
夕食の時間になった時、タイガは、次のように考えたのだった。
「今頃ピペタ隊長とラヴィは二人で、アリカム隊長の家で、ご馳走になってるのに……」
タイガは、特にラヴィに恋愛感情を
「……僕だけ、いつもの騎士寮の食事というのは、味気ないよなあ。ウイングが余計なこと言い出さなければ、僕も一緒に出かけて、美味しいもの食べさせてもらうはずだったのに……」
タイガとしては、何よりも「美味しいものを食べる機会を
その結果。
「へへへ……」
今のタイガは、十分に飲み食いした後であり、すっかり上機嫌になっていた。
適当に入った酒場だったが、店の女の子たちからは「若い騎士様!」ということで、ちやほやされた。料理も酒も悪くなかった。タイガが「また来よう」と思って、しっかりと店名を記憶に刻み込んだくらいだった。
店では女の子たちから、かなり酒を勧められたし、それなりに飲んでいる。だが、酔いつぶれるほどでもなく、記憶を失うほどでもない。ほろ酔い気分に
だから意識は今もしっかりしており、別に「酔っ払って、騎士寮に帰れなくなってしまった」というわけではない。ただ、気分が良いまま、夜の街を散歩しているだけだった。
酒で上気した頬には、夜風が心地いい。そんな気持ちから、特に意識することなく、タイガは川の近くを歩いていた。
ひんやりと湿った、川辺に特有の風が、タイガの頬を優しく撫でていく。
「さっきのお姉ちゃんたちも悪くなかったが……。こういう自然の感触も、なかなか
独り言を口にしながら、タイガが、カモン川の『五号大橋』近辺を通りかかった時。
「おや……?」
橋の真ん中あたりで佇む、一人の少年の姿が視界に入った。
今夜ピペタとラヴィがアリカムの屋敷に招かれたのは、アリカムの息子――騎士学院に通う息子――について話があるから、というのが理由の一つだったはず。そんなことをふと思い出しながら見れば、橋の上の少年も、ちょうど同じくらいの年齢だろう。しかし同じなのは年頃だけであり、騎士学院に通うような、前途洋々たる若者――未来の騎士――には、とても見えなかった。
この少年は、うなだれた姿勢で欄干にもたれかかり、夜の川の
勝手に少年の心情を推察して、心配になるタイガ。
「まさか……。自殺するつもりじゃあるまいな?」
そんなつもりなどなくても、あの姿勢では、何かの拍子に落ちてしまうかもしれない。この『五号大橋』の辺りは、それほど流れは激しくないが、水深は結構ある。昼間でも、溺れる人間がいるくらいだった。まして夜ならば、視界は悪いし、周りに助けてくれる人も少ない。だから、非常に危険だと思えた。
また、いくら北の大陸が、古くは『火の大陸』とも呼ばれていたくらいに暖かい土地であっても、もう霜の月。一年の中で十一番目の月になっている。暦の上では、初冬と言っても構わない時期であり、夜の川の水も、夏とは比べ物にならないくらいに冷たいはずだった。
「自殺にしろ、事故にしろ……。都市警備騎士である僕が、市民の命の危機を、黙って見過ごすわけにはいかない!」
使命感を持ってタイガは、とりあえず注意を促そうということで、少年に向かって大きく叫ぶ。
「おーい、君! こんなところで何してる? しっかりしろ! 大丈夫か?」
ビクッとしたような仕草と共に、橋の上の少年が、こちらに振り向くのが見えた。
いきなり大声で呼びかけたので、驚かせてしまったのかもしれない。ならば、近寄って優しく話をしよう。
そう考えたタイガは、自分も橋に入っていく。
ふと見れば、ちょうど川の対岸にも、一人の通行人がいた。少年とは無関係の市民のようだが、彼にも、少年を助けるのを手伝ってもらおう。
「おーい、そこの人! ちょっと来てくれないか?」
「何でしょうか、騎士様?」
騎士鎧を着たタイガに声をかけられて、その通行人が足を止める。
「よし、これで両側から挟み撃ちだ……」
通行人を手招きしながら、小さく呟くタイガ。
悪漢を
「私も、そちらへ行けばよろしいのでしょうか?」
タイガに呼ばれた通行人も、歩く向きを変えて、反対側から橋を渡り始める。
これでタイガの思惑通り、『両側から挟み撃ち』という形になった。
――――――――――――
『おーい、ファバ……。こんなところにいたのか……』
背筋がゾッとするような声だった。実際の声はともかく、ファバには、そう聞こえてしまったのだ。
ぼんやりとファバが川の水を眺めている間に、新しい『悪霊』が現れたらしい。ファバに向かって何やら叫びながら、白い人影が、西側から――ファバが来た方角から――橋を渡り始める。
「ひっ!」
自分に近寄ろうとする『悪霊』を見て、思わず後ずさりするファバ。
そんなファバの行動を意識したのか、あるいは気づかなかったのか。『悪霊』が、先ほどよりもはっきりとした声を発した。
『おーい、そこのやつ……。 ちょっと来い……』
ファバは一瞬、自分が呼ばれたのだと思った。だが、逃げたくなって反対側に目を向けた途端、誤解していたことに気づく。いつのまにか、橋の東側にも別の『悪霊』が出現しており、西の『悪霊』は、それに呼びかけていたのだ。
『私も、行くぞ……』
最初の『悪霊』に呼応して、東からも『悪霊』が橋に入ってきた。
「これじゃあ、挟み撃ちじゃないか……」
絶望で、ファバは頭の中が真っ白になった。
それでも懸命に考える。
ここにいたら、すぐに『悪霊』が来てしまう。でも、橋の出入り口には、東側も西側も『悪霊』が立ち塞がっている。その魔の手から逃げるためには……。
「もう、川に飛び込むしかないのか?」
少し前には「守護神『青龍』に自分の身を捧げる」なんてことを考えていたくせに、いざ『悪霊』に挟撃されると、ファバは「死にたくない!」と強く思ってしまう。
死の恐怖を感じながら、再びファバは、カモン川に視線を向ける。
月光を反射する川の
「そう、僕が助かる道は……。これしかない!」
決心したファバは、欄干を乗り越えて、カモン川に飛び込んだ。
飛び込んだ際に、右腕を打ち付けたらしい。
続いて、鼻から入ってきた川の水を、ファバは「痛い」と感じた。だが、それらの『痛み』を知覚する時間は、長くは続かなかった。
やがて、口から飲み込んでしまった川の水が、ファバの肺を満たし始める。ファバは息が苦しくなって、ついには意識も朦朧としてくる。そうなると、もはや痛みも苦しみも、何も感じなくなってくるのだった。
消えゆく意識の中。
最期の瞬間、ファバの頭に浮かんだのは……。
「万一、ここで僕が死んでも……。それで責任を取る形になって、今回の『魔女』の呪いに終止符を打つのであれば……。僕の死には、大きな意味があるから……」
自分の『死』を、肯定的に捉える感覚だった。
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