第8話 姉
僕は部屋の中でスマートフォンをいじっていた。外は雨が降っていて、部屋の中は涼しい。
リビングに降りていくと、姉のさおりがいた。さおりは最近疲れているみたいでソファにもたれかかっていた。テレビは消えたままで、さおりはソファから動かなかった。
僕はすることなく、リビングのテーブルの上でペンをいじっていた。さおりは僕のことをちらっと一瞥した。
僕らが話をすることはなかった。
次の日もさおりと会話することはなかった。
さらに次の日、さおりはソファの上で寝ていた。僕はブランケットをかけた。
「ありがとう」
さおりは言った。
「別に。お姉ちゃんはどうして休んでばかりいるの?」
「知らないわよ。第一あんたに関係あるの?」
「別にないけどさ。そうやって休んでいるばかりいるから」
「うるさいわね。あっち行ってよ」
姉は僕にブランケットを投げつけた。
別に悪気があったわけではない。気になったから聞いただけだ。
姉はそれからソファの上で眠ることはなくなった。
僕は母親と二人で夕食を食べた。
「この間お姉ちゃんを怒らせたんだ」
「なんで?」
「なんで眠ってばかりいるのか聞いたんだ」
「あんたには関係のないことよ」
僕は気になって、姉の部屋の前に行った。
「お姉ちゃん。この間は悪かった」
返事はなかった。僕はドアを開ける。
姉はベッドの端でうずくまっていた。姉の涙をこらえる吐息が聴こえる。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。あんたには知られたくないのよ」
「何かできることがあったらするよ」
「何もないわ」
「いったいどうして泣いてるのさ? 僕に理由を聞かせてくれよ」
「いろいろな人の声が聴こえるのよ。そういうときはね、静かにじっとしているしかないの」
「いろいろな人の声?」
「あなたには知られたくないこともあるのよ。ありがとね。私はあんたがそんなこと知らずに生きていてほしいの。ねえ、知ったところで私が虚しくなるだけよ。あなたは自分の人生を生きてほしいのよ」
「わかったよ。お姉ちゃん。でも何かできることがあるなら教えてね」
僕はそう言って、ドアを閉めた。
四月になり僕は大学へ行く準備をしていた。
姉はどこかの療養所へ行ってしまった。僕は姉の消えた世界を眺めていた。父も母も数か月に一回新幹線に乗って姉に会いにいくだけだ。もちろん僕も行く。
姉は療養所では元気に過ごしていた。一日をスタッフと一緒に過ごし、その日の日記もつけているらしい。
「ここではいろいろな人と出会うわ。皆精神的な問題を抱えているけれどね。でもね、そういう人たちはどことなく長所も秘めている気がするのよ。これは私の主観だからなんとも言えないけど」
姉と二人でベンチに座りながら話をした。
「長所?」と僕は聞いた。
「そうよ。あんたみたいに普通に生きてる人間にわかるはずないわね」
姉はそう言って笑った。
療養所を離れて新幹線に乗って家に帰る。窓の外に広がるのは山々で、オレンジ色に照らされていた。
僕はその時こう思っていた。姉は人生の橋から落ちたのだと。もうそこから帰ってくることはできないと。そして心に誓った。姉のような人は助けてあげなければならないと。
僕は大学に通い友達とごく普通の生活を送っていた。日々は楽しく瞬く間にすぎていく。
そんな僕に異変が起こったのは大学三年生の夏休みだった。僕はバイト先でミスをし、ひどく叱られた。そんなに叱られたのは人生初めてで僕は震えを覚えた。その日から僕は家を出ることができなかった。
一年後、姉が帰ってきた。姉は大学を休学していたが、復学の手続きをしていた。僕が部屋に引きこもっている間、姉は毎日ご飯を持ってきてくれた。
「ねえ、何があったの?」
僕は黙っていた。
「ドアを開けなさいよ」
姉は怒鳴る。
僕はしぶしぶドアを開ける。
「何があったかしらないけれど、あんた全然降りてこないじゃない」
「人が怖くて仕方ないんだ」
「大丈夫よ」
姉は深夜まで側にいてくれた。久しぶりに人と話した。姉は療養所のことから子供時代のことまで語った。
僕は姉の目を見た。彼女は泣いていた。
信じられなかった。姉は僕のために泣いていた。だから僕は、涙を流した。部屋に引き込もっていた僕は姉がどんなに惨めな気持ちで大学を休学し、療養所にいたのか少しだけわかった気がした。
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