第15話 星が降る夜
僕はベッドの中で寝ようとしている。考えることなどは意味もないことばかりだ。神経は衰弱し果て、隣で眠る玲奈を起こしてコーヒーでも淹れてもらおうかと思うくらいだ。
眠れない夜が続く。どうしたって人間の中には僕なんかよりひどく夜を呪う人間がいるらしいが、僕にも玲奈にも検討もつかないほどの苦痛がこの世界には存在しているのだろう。
玲奈はすうすうと寝息を立てていた。僕の過敏になった神経は彼女のすうすうという寝息を僕への不平だと勘違いする。どうやら脳の神経細胞が常人とは異なって働いているらしい。普通の人間はいともたやすく、自分と危険な存在というものを知覚するが、僕にはすべての刺激が危険である。
眠れないので、むき出しの神経をなだめるためにベランダに出て煙草を吸う。夜空は馬鹿みたいに広大で、星々が瞬いている。本当に瞬いているのだ。星の銀色が僕には点滅して見える。また巨大な雲が空を覆い横断していた。なんたってこの巨大な雲には僕自身も感動してしまう。この地球の巨大さというものを認識するのだ。僕は煙草に火をつけてベランダに煙を吐く。いかに自分自身が小さいことか。巨大な雲の下で僕はこの雲のように偉大な権力を手に入れようと渇望していたのだ。
結局朝方まで眠れず、僕と付き合っている玲奈が部屋を出て行った後に、僕は目覚めた。僕は塾で働いていた。作家を目指すという名目でアルバイトとして午後から夜までだった。朝食を作るため、起き上がろうとすると頭が痺れていることを実感する。僕は一度ベッドに横になる。頭痛はすぐに消えた。これは誰にも言っていないことだが、僕の体は勝手に動き、そして頭の中でつぶやくと、性格が変わった。こんな人間は常識の中でいないことになっているだろう。僕はそんな性質を自覚するたびにこの世は実に不思議に満ちていると思うのだ。もう一度起き上がろうと試みる。突如僕は不安に襲われる。不安の原因はわからないが、僕は作家になるのは到底無理なことで、このままアルバイトとして不安定に働かなきゃ、それも生活のための支出を玲奈の給料に頼らなきゃならないということを自覚し、その劣等感に苛まれてもいたのだ。僕はなんとか起き上がり、そこから先はシャワーを浴び、歯を磨き、服に着替えて、朝食のパンを食べた。
そこまで終えた僕は電車に乗って塾まで行くのだが、これは非常に気のまぎれることで、今日の授業で何を話そうとか同僚と何を話そうとか、どうでもいいことに気がそれる。僕はそんな生活自体には満足していた。
塾につき、職員に挨拶し、与えられたデスクで授業のノートを作り、生徒を出迎え、雑務を行い、授業時間になると講義をして、それでその日誰ともしゃべらないまま塾から帰った。大学生も混在するアルバイトで彼らは楽しそうに僕には思える会話をしていた。
家に帰る頃には時計の針が十時を回っていた。
「おかえりなさい」と玲奈が僕に告げる。
玲奈は仕事の他に僕が満足に動けないために家事のもろもろをしてくれていた。僕はただ玲奈に対して深い劣等感を抱いていたのだ。人間は自分より下の人間に接するときはひどく優しくなるものなのだろうか。僕は玲奈の言動すら信じられなくなっていた。人間が理解できない。僕は玲奈と話しているとまるで自分を守ってくれる箱の中にいるんじゃないかと思ったが、それくらい玲奈の優しさというものは秀でていた。
「ただいま」と僕は告げる。
「今日はカレーよ。一緒に食べましょ」
僕はビールの缶を開け二人分注いだ。僕は酔って疲れていたため、これまで口にしなかったことを言った。
「なあ。玲奈。聞いてくれ。僕は特殊で病的な人間なんだ。僕が正社員として働くこともできないことは知っているだろ。僕は確か君より優秀な成績で大学を出たし、僕は塾の講師としては優秀なほうだと思うんだ」
「そうなんだ」
玲奈はまるで興味がないみたいに僕に問いかけた。
「それで僕としてはね。作家になって君のことを喜ばせたいんだよ。僕は僕自身を描くことで常識の外側におっぽりだされた人間に向けてメッセージを送りたいんだ」
「ねえ。あなたの話を聞いて思い出したの。あなたは本を読まないでしょう? 出会った頃から作家になりたいとは言っていたけど」
「あいにく僕には文章を理解する力が不足しているんだよ。駄目だね。理解が及ばないのさ」
「違うわ。まだ読む力が足りていないのよ。なんでもいいから読み始めてみなさいよ。きっと今のあなたに適正な小説があるはずだから」
「適正?」
「そう適正」
「もう少し詳しく聞きたいな」と僕は言った。
「駄目よ」と玲奈は言った。
「どうして?」
「だってあなたはまだ人生の途中に生きているのよ。これからどうなるかわからないじゃない。私があれこれ本を解説するのは構わないけれど、あなた、作家を目指しているのなら、自分で読み解いて、本に感動するべきよ」
僕はカレーを食べ終え、そして、本を開いた。頭の中に無理やりにでも詰め込もうとした。そうすることで理解できる気がしたからだ。何度も同じところを読み返した。そして気づいたとき、僕は玲奈が僕のことを眺めているのを見た。
「玲奈」と僕は言った。
「何よ?」
「難しい」
「頑張りなさい」
「うん」
僕はその日から読書を始めたのだが、ようやく自分に適正な小説というものを見つけ、自分を癒す作品を愛読し続けた。
星が降っているほど、綺麗な空を眺めながら、ベランダで煙草を吸った。権威を渇望した日々を思い出す。
玲奈。君はつくづく不思議な人だよ。どうして僕と一緒にいようと思ったのかな。僕にはわからないことばかりだね。
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