最終話 君の選んだ結末

 その日、やなはるは渓人と新宿駅東口で待ち合わせをしていた。やなはるが渓人にメッセージを送ってしばらく経ったあと、「会って話がしたい」という返信が来たからだ。いくつかのやり取りをして、あのいつもの喫茶店で話をすることに決まった。

 昔、渓人と二人で話をした場所。成と自殺の方法について相談した場所。みんなで集まって旅に出ることを決めた場所。

 そんな思い出深い場所で、渓人と改めて話をする。

 一体どんな話が持ち上がるのだろうと、やなはるは不安になった。ミチコやキオもいなく、渓人と二人きり。そのパターンも想定していなかったわけではないし、誘ったのもこちらの方だが、どうしようと悩み始めたのは段取りが決まったあとのことだ。

 全てが終わった今、どんな顔でどんな話をすればいいのか分からない。ここに渓人が来た時に、第一声はどんな言葉を掛ければいいのかすら分からない。頭の中はもう既に真っ白になっている。

 思い詰めても仕方がないので、とりあえず他のことを考えることにした。待ち合わせの時間まではあと十分ほどある。

 そういえば最後に成君と新宿に来たのは、富士の河口湖へバスで向かう時だったっけ。

 やなはるはふと成のこと思い出した。あの日は夕暮れ時だったが、今日は澄みきった青空が広がっている。

 やなはるは今でも時々、成のことを考える。君は今どこにいるんだろう、と。

 もし、君が死んでしまっていたら。君の両親はいつか連絡が取れないことに気付き、警察に届けるだろう。だけど、真相が明らかになることはない。君は何のヒントも残していないだろうし、樹海にいたことは私達しか知らない。そして、死亡認定された後になっても、君の両親は君と再会できる日を永遠に待ち続けるだろう。終わりのない悲しみに沈むだろう。死ぬまで苦しみ続けるだろう。それを止めることができるのは私達だけだ。でも、そうすることはできない。なぜなら、。二十六歳の誕生日に樹海で首を吊るというのは、こういうことだからだ。

 私には自殺幇助の罪がある。でも、それを告白することはできない。少なくとも今はまだ。私は、罪を抱えたまま両親を守る道を選ぶ。たとえそれが正しくないことだとしても。。法律だって犯すし、死を望むならどれだけ迷惑でも、どれだけ他人を悲しませても自殺する。それはキオ君とミチコちゃんも同じだ。その根源をなくすことはできないだろう。

 成君、私は君に会いたいのかもしれない。天国に行けば、会えるのかな? いや、私達が会うのはきっと地獄だろうな。

 やなはるはそこで我に返った。そして成が言っていたことを思い出した。

「これから先、もし俺に会いたくなったら、あの言葉を見ろ」

 それは樹海で成と電話した時に言われたことだ。成が扇子にやなはるの言葉を書いた理由。

 しかし、やなはるは今あの扇子を持っていないので、見たいと思っても見ることはできなかった。肌身離さず持ち歩くほど純情でもない。

 ふと成の言い回しに違和感を覚えた。

 あの言葉を見ろ、というのは表現として何かおかしくないか。私だったら「あの扇子を見ろ」って言うけどな。

 それは他の人だったら気にも留めない些細なことかもしれない。ただの考え過ぎなのかもしれない。でも、やなはるにはどうしても引っ掛かったので、「あの言葉を見ろ」という言葉についてしばらくの間考えてみた。

 そして、やなはるは閃いた。扇子がなくてもあの言葉を見る方法を思い付いた。

 自殺サイトだ。私が渓人の部屋で首を吊る前、あの言葉を自殺サイトに書き込んだんだ。そのサイトを開けば、「あの言葉を見る」ことができる。

 このことが何を意味するのかは分からない。しかし、やなはるは迷わずにそのサイトへアクセスし、かつての自分の書き込みを探した。


【やなはる】

 私が死んでも、空はいつまでも私たちの頭上にあり、

 花は新たな種を次の世界へ残していく。


 その書き込みは相変わらずそこにあった。その言葉自体が時間の干渉を受けず、虚無の空間を彷徨っているようにも見えた。今年の三月の書き込みで、それほど昔のことでもないのに懐かしい気持ちになった。

 しかし、そう思ったのも束の間だった。書き込みの下にあるを見て、目を見開いた。

 書き込みに対して返信コメントが付いていた。日時は八月十四日日曜日の午前零時過ぎ。河口湖付近の旅館に泊まった日の夜、日付が変わって成が二十六歳の誕生日を迎えた直後のことだ。やなはるはこの時、宿泊部屋で既に眠っていた。

 やなはるは高鳴る気持ちを抑えつつ、その返信コメントを読んだ。

 名前欄には「二十六歳になった君へ」と書かれている。きっと、タイトル的な意味合いだろう。

 本文の方は――。


「俺が自殺して見せるから、お前は走ってる電車に近づくとか、そんな危ないことは二度とやるなよ!」


 やなはるはそれを見て息を呑んだ。成が自分のことを心配してくれていて、たまらなく嬉しくなる。

 しかし、嬉しさと同時に笑いがじわじわとこみ上げてきた。仰々しいタイトルの割にはシンプルなメッセージだな、と。

 あの男、たったこれだけを伝えるためにこんな回りくどいことをしてたのか。

 そう思うと、人目のつく場所なのに堪えきれずクスクス笑ってしまう。なぜか目尻に液体が溜まってくる。

 慌ててそれを指で拭った。

 違う、違うよ? これは笑い泣きだからね? 成君がおかしなこと言うもんだから。

 しかし、感情の波が一気に押し寄せてきて、溢れそうになる。

 やなはるはなんとかしてそれを抑えようとした。もうすぐ待ち合わせ相手が来てしまうから。

 ダメ……渓人が来るんだから、しっかりしなきゃ……。

 やはなるは俯きながら小さく呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けた。

「やあ、やなはる、久しぶり」

 ようやく待ち合わせ相手が来たようだ。やなはるはホッとして顔を上げた。ギリギリのところで、泣きそうになっている顔を見られずに済んだ。

「あっ、渓人……」

 ホッとしたのも束の間、その次に続く言葉が出てこない。

「髪、黒に戻したんだ? やっぱりそっちの方が似合うと思うよ」

 せっかく褒めてもらっているのに、何も返事ができない。

「ていうことは、就職したのかな。それなら僕としても安心だ」

 やはり頭が真っ白になってしまった。

「どうかした? 僕の顔に何か付いてる?」

 話したいことが沢山あったはずなのに。

「あれ? あいつってこんなキャラじゃなかったっけ? お前といた時はどんな感じだったの?」

「成君……」

 そこには成がいた。樹海で別れて以来、一度も会えずにいた、ずっと会いたかった成がいた。

 やなはるがさっきまで必死に我慢していた涙が、一粒だけこぼれた。

「ていうか俺、渓人の声真似うまいな」

 成は能天気、かつ勝ち誇ったような顔でそう言った。

 やなはるは拳を固く握りしめる。

「てめぇっ! 騙しやがったなぁぁぁ!!」

 成の胸に飛び込んで泣き出す代わりに、腹に鉄拳を食らわせてやった。


 元々は新宿駅東口方面の喫茶店で話をする予定だったが、せっかく再会したので西口方面の公園まで歩くことにした。やなはるが成の自殺に立ち会うという契約を交わした公園だ。

 街中を歩いている間、お互いこの一ヶ月間は何をしていたのかという話をした。

 結論から言ってしまえば、二人とも主に就職活動をしていた。やなはるはすぐに就職先が決まり、成は先日採用試験を受けたところが好感触で結果待ちという状況だ。小さい会社だが、二人とも大企業には懲りていたのでそれで良いと思った。「まあ、生活は苦しいんだけどね」とやなはるは自虐的に笑った。

 公園に着くと、前に来た時と同じベンチに座った。公園の芝生が見渡せる場所だ。

 そこには今日も相変わらず幸せそうな光景があった。家族も犬も老人も、恋人達や外国人も、空と緑と風の中で笑っている。

「平和だねぇ」

 やなはるはそんな光景を見て目を細めた。

「そうだな」

「さー、何から話そうかな」

「そうだな」

「まずは、私は今日、渓人と会う約束をしていたはずだけど、どうして成君が来たのかな?」

「そうだな」

「ねぇ、ちょっと」

「わかったよ」

 ベンチにもたれかかっていた成が顔を上げた。

「いやーまったく、どこから話せばいいものか」

 成はわざとらしく腕組みをした。やなはるはそれを冷めた目で見ている。

「実は、俺と渓人はあの旅の間、ある賭けをしていたんだ」

「賭け? どんな賭けをしていたの?」

「あの旅で誰が最初に自殺するかを当てる。負けた方が質問に正直に答える」

「何それ、ひどっ」

「お前が言うか?」

「アハハー」

 やなはるは棒読みで笑った。

「それで、俺はミチコに賭け、渓人はキオに賭けた。だが、結果的には誰も死ななかった」

「まあ、そうだね」

「で、俺は樹海から脱出したあと、まず渓人に連絡をした。なんでだと思う?」

「知るか」

「樹海に行く前、電話で、もし生きて帰ったら連絡下さいって言われたから。俺はこう見えても約束は守る男だからな」

「え、そんなキャラだったっけ? むしろ逆なイメージだけど」

 やなはるは頬に手を当て、首を傾げる。だが、成は無視して続けた。

「しばらくしてから俺は渓人と再会したわけだが、渓人はキオが生きていたことをお前経由で知ってて、賭けは無効になった」

「ふんふん」

「まあ賭けは無しになったが、あいつは既に洗いざらい話してくれていたから、俺も一個だけ質問に答えてやることにしたんだ」

「なんか釣り合わなくない? ケチ臭い男だね」

「そして、あいつはあいつの訊きたいことを質問し、俺はそれに正直に答えた。そしたら、あいつがこのサプライズを考えて、今に至るってわけだ」

「ふーん」

「まあ、俺の方がビックリしたけど」

 成は鉄拳を食らったお腹をさすった。

「…………」

「なあ、訊かないのか? 渓人が何を質問したのか」

 やなはるは黙って目の前の景色を眺めていたが、やがて口を開いた。

「いや、いい。なんとなく分かるし」

 そう言って、挑発的な目で成を見た。成は冷静を装っているが内心ではドキドキしているということが手に取るように分かり、面白いなと思った。

「でも成君、約束は守るって言うけど、前ここで、成君が二十六歳の誕生日に自殺するって約束したよね? いや、守ってくれなくて良かったんだけどさ」

「その約束だってちゃんと守ったぞ」

「どうして? 未遂だったけど実行しようとはしてたから?」

「違う。考え方の問題なんだ」

 やなはるは「全然分からん」と顔で訴えた。

「つまり、俺らは毎日生きるたびに少しずつ寿命が減っていくだろ?」

「うん」

「ということは、生きることで毎日少しずつ死に近づいているというわけだ」

「はあ」

「それって、生きるということは毎日とてもゆっくり、目には見えない速さで自殺をしているって言い換えることもできるんじゃないのか? だって死に近づいてるんだから」

 それを聞いて、やなはるは絶句してしまった。屁理屈もここまで来れば芸術品だなと思った。

「まあ、成君の言いたいことは分かったよ」

「本当に?」

「つまり、成君は二十六歳の誕生日にも生きていた――」

「いや、俺は、じゃない。俺達は、だ」

「え?」

「俺達はそれぞれ二十六歳の誕生日を、結局死なずに生き抜いた。だから――」

「だから……」

「だから、俺達は二十六歳の誕生日にも、とても緩慢に自殺をすることができた。いつも通りに、死に近づくことができたんだよ」

「それで約束は守ったってこと?」

「そうだ」

 やなはるは自分が二十六歳の誕生日に首を吊ろうとしていたことを思い出し、胸が痛くなった。

「でも、成君は自殺することもできたんだよね? どうして、それでも生きようと思ったの?」

「ああ、それなんだけど……」

「うん」

「俺も二十六歳の誕生日に死のうとは思っていたんだけど、いろいろ考えてるうちに二十六歳の誕生日が終わっちゃったんだ。それで、どうしようかなと考えている時、思い出したんだ」

「……何を?」

「二十六歳の誕生日に自殺をするという約束をする前に、俺達は別の約束していたんだ」

「別の約束?」

 そんな約束していただろうか。やなはるは思い出せなかった。

「俺とお前が最初に会った時」

 私と成君が最初に会った時?

「風俗店の狭いシャワー室で」

 あの店のシャワー室で?

「俺は言ったんだ」

 成君は言った――

「お前の本が出版されたら買うって」

 …………。

「えっ」

 やなはるは仰天した。そんな話をしたことは今まで完全に忘れていたからだ。言われてみれば、そうだった気もするが、あんなのは約束というほどのものでもない。ただの雑談だ。

「今のところ特に目標もないし、それを見届けるまではのらりくらり生きてようかなーって」

 やなはるはそれを聞いてクスクス笑い始めた。扇子の件といい、どうしてこの男はなのかと。ヘタレのくせに変なところでカッコつけようとする。

 笑われるのは予想外だったらしく、成はバツが悪そうにそっぽを向く。

「ねえ、成君」

「なんだ?」

「ひょっとして、私が成君の生きる目的になっちゃったってことですかぁ?」

 やなはるはニヤニヤしていた。

「いや、そこまでは言ってない」

「またまたー」

「断じて決してそれはない」

「ねえねえ、成君」

「今度はなんだ?」

「成君が律儀に私との約束を守ろうとしてくれているから、私もそれに従うよ」

「と言うと?」

「ここで交わした当初の約束はこう。成君が自殺をして、と」

「そうだな」

「つまり」

 やなはるは成に思いっきり顔を近づけた。お互いの匂いや息遣いが感じ取れるほどに。

 あまりにも近いので、成は思わず目を逸らす。

「毎日ほんの少しずつ死に近づいていく成君の緩慢な自殺に、私が立ち会わなくちゃいけないわけだ。毎日、成君のそばで、未来永劫にわたって」

 そう、自殺未遂から自殺未来へ。

「いや、さすがに毎日はいらん」

「じゃあ、どのくらい?」

「月一とかでいいんじゃないか?」

「ふーん……」

 やなはるは立ち上がった。

「契約続行だねっ」

 やなはるはひまわりのような満面の笑みを浮かべた。それを見て、成も口元が緩んだ。

「なあ」

「何ー?」

「今度、渓人にも会ってほしい」

 やなはるは口をつぐんだ。二人の間に小さな沈黙が訪れる。

「……うん、それで渓人とちゃんと話をしたら、またみんなで会おう」

「そうだな」

 成もようやく立ち上がった。

「ありがとな、やなはる」

「うん」

 やなはるはコクリと頷き、上目遣いに成を見た。初めて本当の名前で呼ばれた嬉しさと気恥ずかしさが、胸の奥の方へ染み込んでいく。その瞳は何かを期待しているかのように煌めいている。

「……まあ、なんだ。急に喉が渇いたから、冷たくて美味しいコーヒーでも飲みにいくか」

「…………うんっ!」

 二人は肩を並べて、再び歩き出した。

 陽のあたる場所を目指すやなはるに導かれ、成の停滞の物語は終わりを迎える。

 これから先どこまで歩けるか分からないけれど、生きることや夢見ることだって、全ては無駄に終わってしまうのかもしれないけれど、いけるところまでいこうとやなはるは思った。

 たぶん、そんな風にして人生は続いていくのだろう。

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ふたりの自殺未来 広瀬翔之介 @Hiroseshonoske

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