第二十四話 人生のエンドロール
成と渚は予定通り朝八時頃に旅館を出て、河口湖まで歩いた。
早朝の河口湖は清らかで静謐な雰囲気を漂わせており、冷たく澄んだ空気が肌を撫でていくのが心地良かった。湖面に反射する朝日が、鏡の上にばら撒かれた光の粒のように煌めいている。渚はそんな風景を見て、「聖なる朝だ」と呟いた。二人で湖のほとりに座り、昨夜に売店で買っておいたおにぎりを食べた。
バスの始発の時間が近づくと、近くにあるバス停まで歩いた。渚は「朝の散歩は気持ちいいね」と微笑んでいた。
バス停で一人のお爺さんがバスを待っていた。その後ろに並んでしばらく待っているとバスが到着した。車内には既に何人かの乗客が乗っている。
町中と山道を数十分走ると、富岳風穴という洞窟の前にある停留所に着いた。成と渚がそこで降りる時、お爺さんが二人をじっと見ていた。
バス停前の売店の横に森の中へ続く道があり、そこを数分歩いた先が分かれ道となっている。一方は富岳風穴への入口であり、もう一方が樹海の遊歩道だ。青木ヶ原の樹海は富岳風穴の南に位置している。二人は遊歩道の方へと進んで行った。
樹海の中は静寂に包まれていた。それも、誰もいない部屋のような場所とは静寂の質が異なっている。真空空間のような無音の中に生き物や風の声がせせらぎのように微かに聴こえる、そんな静寂であった。それはまるで、真冬の夜明け前のような静けさだ。自分が鳴らす足音すらも独立して存在し、自分の足音として聞こえないような感覚に陥った。
周りには深遠な森がどこまでも広がっていたが、遊歩道として使われている道なので、まだ「樹海に入った」という気分にはならなかった。遊歩道は山道のように高低差があり、歩きづらいところもあった。
適当な所で渚が方位磁針を取り出し、「そろそろ奥に入りますか」と切り出した。
「樹海でも方位磁針が使えるのか?」
「成君、未だにそんな都市伝説を信じているのかい?」
渚が呆れた顔をした。
「確かに富士山の噴火によって堆積した溶岩には、磁性を持った鉱石が含まれているけど、樹海で方位磁針が狂うことはまずないよ」
「そうなのか」
「はい、これ。成君の分」
「なんで俺も持つんだよ」
「一個だと、万が一で狂ってるかどうかも分からないけど、二個なら安心でしょ」
「なんか言ってることさっきと違くないか? 二個が別々の方角を指し示したらどうするんだ?」
「その時は……ジャンケンで決めようか」
「はいはい」
そのまま歩いていると、木と木の間にロープが張られ立ち入り禁止の看板が吊るされている場所を見つけた。その先は地面が平坦で、比較的歩き易そうに見えた。
「成君よ、入るなと言われると入りたくなるのが人間の性じゃない?」
「珍しくお前と意見が一致したよ」
二人はどこまでも続く樹海の奥を見据えた。方位磁針を見ても、その先は南の方へと続いていた。
「いよいよだね」渚が成を見た。
「ああ」成も視線を返した。
そして二人は境界線を越え、生と死の狭間の領域へ足を踏み入れた。
樹海の中には何もなかった。巷では自殺遺体や遺留品が転がっているとよく聞くが、あるのは樹木と至る所に生えている苔だけだ。
生息している樹木はヒノキやツガやヒメコマツといった針葉樹の他に、ミズナラ、ミネバリ、ヤマザクラ、クリ、リョウブ、ソヨゴ、ムラサキシキブ、ヒトツバカエデ、ヒロハノツリバナなど、実にさまざまなラインナップではあるが、成は少々退屈に感じた。
樹海は土壌の厚みが十センチメートル程しかないため、木の根っこがむき出しになっていた。地面の上は落ち葉と枯れ枝で埋め尽くされ、空は高木の枝葉に覆われている。そんな、歩きづらくて薄暗い森の中を二人はゆっくりと進んで行った。
「樹海が自殺の名所になったのも、昭和のある有名な小説がきっかけだったんだよ」
渚が方位磁針を見ながら言った。
「そうなんだ」
「君がもう少し色んなことに興味を持って、長生きする人だったら、その本を貸してあげても良かったんだけど」
「興味はなくはないが、長生きはしないだろうな」
それを聞いた渚は「そうですよね」とでも言いたげな顔で笑った。
「その小説の主人公は一人で樹海の中に入ってしまったんだけど、成君には私がついているから良かったよね」
「何が良かったんだ?」
「ひとりぼっちじゃないから、寂しくないよね」
「……そうだな」
「それにしても、やっぱり廃車はないねぇ」
渚が周囲を見回しながら言った。成は一瞬何の話なのかと思ったが、渚のプランで「廃車の中で今までの人生を振り返る」という演出があったのを思い出した。
「しょうがないから、歩きながら成君の人生について聞かせて」
成は「面倒臭いな」と思ったが、他に話すこともないので自分の幼少期から思い出すことにした。
「私、奥中成は、どこの病院か忘れたけど、神奈川県で生まれました」
「うん」
「そして、同じく神奈川県の幼稚園に通いました。兄弟はいなくて、一人っ子でした」
「何か幼稚園の思い出とかはないの?」
「そうだな……。ある日、幼稚園児の俺が右手の親指を舐めていると先生に『何の味がするの?』と聞かれたので、『メロン味』と答えました。すると、先生は『そうなんだ、先生の指はイチゴ味がするよ』と言いました」
「何それ」
渚はケラケラと笑った。
「そんなこんなで、成少年は小学校へと上がりました。成少年には友達が沢山いて、テレビゲームばかりしていました。そして、中学校へ上がり……」
「ちょっと待って、小学校の話はそれだけ?」
「もっと何かあったと思うけど、パッとは思い出せない」
「指をペロペロしていたことは覚えているのに?」
渚は呆れていたが、すぐに思い出せるのは何人かの友達の顔とか、教室の黒板と机とか、校庭のサッカーゴールとか、体育館の檀上とか、裏庭の飼育小屋とか焼却炉とか、そういうありふれた情景だけであった。
「人間、どうでもいいことに限ってなかなか忘れないもんだ」
「まあいいや。続けて」
「中学校に上がった成少年には……そうだな、好きな人がいました」
「ほうほう」渚が食い付いた。
「でも告白はせずに、特に何も起こらないまま卒業しました」
「ああ、何かそんな感じがする……」渚が肩を落とした。
「そして、成少年は頭が良かったので、難なく家から一番近い高校に受かりました」
「志望理由はそこなんだ……」
「高校ではずっと冴えないグループに属していました。もっと明るくてイケてるグループに入ろうかとも思ったけど、大切なのは人からカッコイイと思われたり、楽しんでそうと思われることではないと気付いたのです」
「いや、適材適所だったと思うよ」
渚の心ない一言は無視した。
「大学に入ると、生まれて初めて彼女ができました。それは、バイト先で出会った子でした」
「おお!」
「でも、一年くらいで振られました。振られた理由はなんだかよく分かりませんでした」
「そこはちゃんと追求しないと」
「その時は理由なんて大した問題じゃなかったんだ。彼女がもう俺を好きじゃないのなら、付き合うことはないと思ったんだ」
「その人は今どうしているの?」
「さあ? 別れてから連絡取ってないからな」
そう答えながら、あの人は今どうしているんだろうと思った。
しかし彼女もまた、成にとってはただの物語の登場人物の一人であり、そのページを捲ってしまえば、二度と手の届かないところへ過ぎ去ってしまっていた。
「兎にも角にも、再びフリーとなった俺は大して苦労することもなく大手の企業に就職しました」
「へー、すごい」
「でも、そこからが大変でした。仕事はブラック企業のように忙しく、次第にやる気も失せていきました。そして、『もういいかな』って思うようになりました」
「もういいって、仕事が?」
「仕事だけじゃなくて、生きることが、かな」
成は枝葉に隠れた空を見上げた。渚は黙って続きを待った。
「もうやりたいこともやり終えて満足したし、これ以上頑張って生きる必要もないかなって思ったんだ。頑張った先に、それに見合う対価があるとも思えなかった」
「うん」
「そんな感じで、入社してからちょうど三年後の節目に、会社を辞めた」
「うん」
「自分では評価されていないと思ってたけど、そう思ってたのは俺だけみたいだった。俺の退職を惜しんでくれた人もいたし、評価されていたってことは辞めてみて初めて分かったな」
「それは良かったね」
そこで成のスマホが鳴った。画面を見ると、不要なメールマガジンが届いていた。
そういえば、このスマホにも仕事関係の連絡がうんざりするほど来ていたな。
成は働いていた時のことを思い出した。そして、少し迷った後、スマホを森の中へ投げ捨てた。
「いいの?」
「いいんだ」
どうせ、もう必要ない物だ。
「会社を辞めた後は、貯めたお金で遊んで暮らしてた。俺にはもう何もないと思ってた」
「うん」
渚は少し黙って何かを考えていた。
「ねえ、成君。今までの話を聞いて思ったんだけど」
「何だ?」
「君は、本当は何もかもを持っている。ただ、君が何もないと感じているだけなんじゃないのかな」
「……そうかもしれないな」
「満たされた者の自殺物語」
渚の言っていることは、自分でも薄々感じていた。本当に何も持っていない空っぽの人間なんて、この世にはいない。
「……そんで、その後私と出会ったんだよね。おっと」
渚が成の方を向いた時、剥き出しとなっている岩に躓いて転びそうになった。が、成が咄嗟に手を掴み、持ち堪えた。
「大丈夫か?」
「ありがとう」
渚は成の手を握ったまま歩き出した。少し驚いた成は、気を紛らわせるために再び喋り出した。
「それにしても、人生ってなんでこんなに長いんだろうな。六十年も七十年もいらないと思うんだけど」
渚はまた黙って適切な答えを探した。
「私さ、小説家になりたいって言ったじゃん?」
「ああ」
「私もね、なんで人間の寿命ってこんなに長いんだろうって思ってた。けど、小説家を目指そうって決めた時は、助かったって思った。こんだけ時間があるなら、何とかなりそうだって」
「そうか」
「成君にも、そういう夢があれば良かったのにね」
何かないか思い出そうとしたが、何もなかった。それに対して、渚は心が歪んでしまっているが、小説家になりたいという想いだけは純粋なものなのかもしれない。成は渚のことが羨ましくなった。
「一つお願いがあるんだけど」渚が訊いた。
「何だ?」
「私、成君のことを小説に書いてもいいかな?」
「いいけど、面白くないぞ」
「うん。成君の人生って、本当に平凡でつまらないよね」
「そう言われると腹が立つな」
「ハハハ。でもね、その『平凡でつまらない人生』を、どれだけ多くの人が欲しがっていたことか」
「例えば誰が?」
「例えば重い病気を患っている人とか、借金まみれで生活が苦しい人とか、事故や災害で死んじゃった人とか」
それを聞いて、成はキオとミチコの顔を思い浮かべた。彼らには、そんな平凡な人生すら与えられなかったのだ。
「そんな人達がいるのに、平凡でつまらない人生を捨ててしまう成君はなんて贅沢なんでしょう」
「俺の命と引き換えにそういう奴らを助けられれば良いんだけどな。残念ながら、そんなことはできないんだ」
「そりゃそうだけどさ」
「それに、これは俺個人の問題なんだ。世界でどれだけ多くの人達が頑張っていようが、苦しい人生を送っていようが、結局のところ俺には関係ないんだと思う」
「そっか」
渚は何かを諦めたような表情で相槌を打った。
「なあ、一つ聞いていいか?」
「何?」
「お前が書いている小説はノンフィクションじゃないよな?」
「もちろん。
「……そうか」
それから成と渚は少し黙った。目の前を遮る枝を、繋いでいない方の手で避けながら歩いていた。
「なあ」
「ん?」
「本当に俺なんかが、小説の題材で良いのか?」
「うん、本当に平凡でつまらないけど……」
渚は成の顔を見た。
「素敵な物語をありがとう」
そう言って渚は微笑んだ。そして、成の手を握る力を少し強めた。
「なあ」
「何だい?」
「なんだか、歩き疲れたな」
「うん。もう結構、樹海の真ん中らへんに来たと思う」
「本当かよ」
方位磁針を見る渚を、成は疑いの眼差しで見た。遊歩道を外れてから三十分程が経過していた。
「それに、今まで歩いて来た道のりは、成君の人生の道のりでもあったんだよ」
「そうか、道理で疲れたはずだ」
俺は本当に疲れたよ。
「それじゃあ」
渚はそう言って立ち止まった。成の手を離した。
「そろそろ、始めますか」
成の目を真っ直ぐに見る。
成は自分の心臓が大きく鼓動するのを感じた。
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