第二十三話 歪んだ歪み

 ケイトは渚と出会ってからこの旅に出るまでの経緯をかいつまんで話した。その話は物語みたいでどこか現実味に欠けているように思えた。それに、ケイトと渚が元恋人同士だったと分かり、成は複雑な気持ちになった。

「それで、川に飛び込んだっていうのは?」

 宇治神社に行った時、ケイトは川に飛び込んで自殺したと渚は言った。

「それがね、酷いんですよ。やなはるは、僕に旅から離脱して帰るように指示したんです」

 離脱して帰る?  成には話が見えてこなかった。

「なんで?」

「やなはるはあの旅で誰も自殺者が出ないことを危惧したんです。他の人はともかく、成さんが自殺しないのはまずかった」

「それで?」

「やなはるは、誰か一人が自殺すれば他の者が連鎖的に自殺したり、成さんも自殺を完遂できると考えたんです」

 無茶苦茶ではあるが、渚の考えは分からなくもない。

「それで、自殺に見せかけて帰らせたというわけか」

「まあ、本当に殺されなかっただけでも、まだマシですけどね」

 成は心臓が強く脈打つのを感じた。

「まさかだろ」

「ええ、あや姫は東尋坊を突き落としたりはしません。暴れん坊の東尋坊はやっぱり真柄覚念に成敗されたんですよ」

「いきなり、東尋坊がどうしたって?」

「そういえば、あや姫は東尋坊と真柄覚念のどっちが好きだったんでしょうか。ミチコちゃんに聞いとけば良かったな」

「お前、何言ってるんだ?」

「なんでもないです」

 ポカンとしてしまった。わけが分からなかったので、他のことを訊くことにした。

「あの時、靴を残したのはなんでだ?」

 渚は「ケイトが靴を脱いだ」と言い、実際にその靴を持っていた。

「あれはただリアリティを出すためです。いきなりいなくなって『もう死にました』って言われても、実感が湧かないでしょ? テレビドラマでもよくある手法です。僕はやなはるが用意していたスニーカーに履き替えて帰らされたんですよ」

「とんでもねえ女だな」

「ハハハ、同意です」

 成はソファーに寄り掛かって深呼吸をし、考えを整理しようとした。

「どうして渚は、俺が自殺するという提案に乗っかったんだろう」

 そこだけがどうにもはっきりしない。渚は他の誰でもなく、成の自殺に立ち会うことにこだわっていた。

「そこは僕も不思議だったんですが、明日が成さんの二十六歳の誕生日だと聞いて一つ思い当りました。……去年の夏、僕とやなはるが合コンで知り合った時、やなはるは二十五歳でした。つまり、去年の夏から今年の夏までのどこかに、やなはるの二十六歳の誕生日があったんです」

 確かにそういうことになる、成は頷いた。

「それでもしかしたら、やなはるが首を吊ったのが二十六歳の誕生日で、そのことが成さんの自殺にこだわっていることと関係しているのではないのでしょうか」

 渚が俺の自殺に立ち会いたかった理由は、渚自身もまた二十六歳の時に自殺しようとしていたから?

 成はその可能性について考えを巡らせてみた。今年の三月、二十六歳の誕生日にアパートのベランダで首を吊っている渚の姿を思い浮かべると、どうしようもなく悲しくなった。しかし、いくら考えたところで全ては推測の域を出ない。

「あいつは二十四歳だと聞いていたんだがな」

「成さん、風俗嬢の言う年齢なんて信じちゃ駄目ですよ」

 成は新宿の小汚い雑居ビルにある風俗店で渚と出会った時のことを思い出した。

 そういえばあの時、俺は自分がもうすぐ二十六歳になることを渚に教えたんだ。せいぜい一ヶ月前の出来事なのに、とても遠い過去のように思える。何もかもが懐かしい。

「やれやれ、二十六歳か」成は頭を掻いた。

「僕の推測が正しければ、早生まれで成さんより学年は一つ上ですけどね」

「それにしては言動が痛々しいな」

「確かに」ケイトは笑った。

「それにしても、お前は恋人の誕生日がいつなのかも知らなかったのか」

「今まで付き合ってきた子は、自分からしつこいくらいにアピールしてきたんですけどねぇ」

 今度はケイトが頭を掻いた。

「それはそうと、成さん。キオさんが自殺した時はどんな風だったんですかい?」

 少し迷ったが、ケイトにキオの過去の話と車に飛び込んだ時の様子を簡単に聞かせた。ケイトは成の話を真剣に聞いていた。

「あのおっさん、妙に絡んでくると思ったら、そういうことだったんですか」

 ケイトは沈痛な面持ちで言った。軽薄な賭けの対象にしていたことを後ろめたく思っているのだろうか。

 軽薄な賭け――。

 そう思ったところで、新たな疑問が湧いてきた。

「そういえば、お前は俺と渚が知り合いだったことを知っていたんだろ? 賭けに勝ったら何を聞こうとしてたんだ?」

 ケイトは何もかも知っていたのだから、こんな賭けをする必要はなかっただろう。

「ふふーん、それはですね」

 ケイトは意味深な口調で言った。

「やっぱり、成さんと再会してから聞くことにします」

「俺、明日自殺するんだけど」

 いざ言葉にしてみると、やはりどこか他人事のように響く。

「そうですね。でも、もしかしたら死ねないかもしれないですよ」

 成自身もその可能性は充分にありえると思った。

「成さん、僕思うんです」

「なんだ?」

「やなはるには元から歪みのようなものがあった。それも、普通の自殺志願者が抱えているような正当な歪みではなく、が」

「……」

「そして、両親の問題が持ち上がった時にその歪みは大きくなり、僕の部屋で首を吊った時に彼女の心を飲み込んでしまったんだと思います」

 成は額に指を当てて考えた。渚に何が起きていたのかがようやく理解できたような気がした。

「でも、成さんならその歪みをどうにかできるかもしれません」

「そんなこと……無理だ」

「少なくとも僕にはできないことです。だから、あなたにやなはるのことを託したいんです。もし僕にできることがあれば協力しますんで」

「……わかった」

 成は頷いた。でも、自分にだって何もできないだろうと思った。

「さて、電話が長くなってしまいました。成さん、通話料金たんまり取られますよ?」

「もう、いくらでもくれてやるよ」

 ロビーの時計に目をやると、午後十一時五十分になっていた。もう五十分近く電話で話していたことになる。

「生きて帰ってきたら、連絡を下さい。賭けの件、忘れないでくださいよ」

 ケイトは心の中で成に語りかけた。

 成さん、あなたとまた会う日が来たら聞かせてもらいます。あなたは、ということを。だから、こんなところで死なずに帰ってきてください。

「ああ、元気でな。お前は死ぬなよ」

「死にませんよ。僕だって早く二十六歳になりたいんですから」

「……そうだな」

 成はケイトと別れの挨拶を交わして電話を切った。長い通話を終え、ゆっくりと深呼吸をした。

 早く二十六歳になりたい、ケイトが最後にそう言ったのが不思議だった。

 大人になりたい、年を重ねたい、二十六歳になりたい。そんな風に思ったことは一度もなかったな。何もかもがただ面倒なだけだ。

 静かなロビーのソファーに身を沈めて目を閉じると、寂しさが早朝の雪のようにしんと降り積もった。それは心の内側の深いところまで冷たく染み込んでいった。


 宿泊部屋に戻り、渚を起こさないようにそうっと襖を開ける。室内はやはり暗いままだ。スマホの画面の光で部屋の中を微かに照らすと、渚が先ほどと同じ姿勢で寝ているのが見えた。

 渚はとてもとても静かに眠っている。そこにいるのが目で見えるのに、気配すら感じられない。あまりにも存在感が希薄なので、死んでいるようにさえ見える。

 まさか本当に死んでるんじゃないだろうな?

 一瞬そう思ったが、馬鹿な考えはすぐに打ち消した。

 眠っている渚を見て、ケイトの話を思い出した。渚とケイトが恋人同士だったこと。渚がケイトの部屋のベランダで首を吊ったこと。その日以来、渚の人格が変わってしまったこと。そして、認知症の母親を自殺させる小説を書こうとしていること。

 自殺をテーマにした小説っていうのはこれのことだったのか。

 いろいろなことを思い出して、成は呆然と立ち尽くしてしまった。これからどうすればいいのか分からなくなった。

 ケイトが生きていることが分かった時、成は渚が殺人者じゃなかったことを喜んだ。しかし今ではどうだろう。渚は母親を自殺させようとしていることが分かった。たとえその方法が不可能に近いことであっても、そうしようとしていること自体が異常なのだ。

 どうしてこんなことになっているんだ、と眩暈がしそうになった。成には渚のことが解らなかった。キオも秋穂の気持ちを知ることができなかったと言っていたが、そんなレベルを遥かに超えている。

 しかし、そんな風に思い悩んでいると、なぜか渚に触れたいという衝動に駆られた。渚の心を理解できなければ理解できないほど、その存在が危うければ危ういほど、その衝動は逆に強まるように思えた。

 渚と初めて出会ったのは風俗店だ。成と渚がキスをしてお互いの体に触れ合ったのは、後にも先にもあの時だけだった。できればもっと早く渚と出会っていたかったと改めて思った。

 成は立ち尽くしながら、夜目に浮かぶ渚をしばらく眺めていた。渚の苦悩を理解しようとした。そして、ある仕掛けを思いついた。渚を変えることは自分にはできないかもしれない。それなら、せめて少しでも生きる力を与えられるようにと。

 その仕掛けを終えた後は、もういい加減に眠ることにした。

 渚の隣の布団で横になりながら、あの日抱いた渚の体を頭に浮かべた。それは、自分とは解り合うことのできない女の子の、本当の姿であった。

 そんな成の想いを知ってか知らずか、渚は昼間に飛行機の中で見た夢の続きの中にいた。


     ◇◇◇◇


 それはまだ誰にも話していない彼女の悪意。

 彼女の二十六歳の誕生日の一週間前。

 脳梗塞の父が入院している病室。

 室内の蛍光灯は消えていて、カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいる。

 父は寝息も立てずに眠っている。

 彼女は父のベッドの横に立ち、ただ獣のような目つきで父を見下ろしていた。

 やがて前屈みになり、父に近づく。

 長い黒髪がゆらりと垂れる。

 そして、父の首を両手で優しく掴み、絞め殺そうとした。

 だが、結局殺さなかった。

 急に心変わりしたわけではない。

 冷静になろう、今やるのはまずい、ただそう思っただけだ。

 病室を出た後だ、自分のことが恐ろしくなったのは。

 裏返しにされていたカードがいきなり表に戻された。

 彼女は足早にその場を去った。


     ◇◇◇◇


 八月十四日日曜日、旅の最終日。成と渚は朝七時にスマホのアラーム音で目覚めた。

 渚は起き上がるとテキパキと動き出し、成の見ている前で何でもないことのように浴衣を脱いで、白の下着姿になった。カーテン越しの朝の光に浮かぶその姿は、性的な魅力というより神秘的な儚さを身に纏っているかのようだ。それからTシャツと七分丈のジーンズに着替え、「死ぬ前に良いもん見れたね」と言って成の頭を叩いた。成は寝ぼけ眼だったので何も返事をしなかった。

 渚は洗面所で化粧を済ませ、部屋のカーテンを全開にした。

「さあ、旅立ちの朝だよ!」

 ミチコの話によると渚は寝起きが悪いはずだがなんで今日はあんなに元気なんだ、と成は着替えながら渚を一瞥した。渚は窓の外の景色を眺めていた。

 成も着替えて布団を畳んだ後、二人で並んで洗面所の前に立ち、歯を磨いた。

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