第十九話 こんな「生きててよかった」がいつまで続くかなぁ

 道路の方から凄まじい衝突音が聞こえ、成達は瞬時に「キオだ」と判断した。

「成君、ミチコちゃん、ここを離れるよ!」

 渚がホテルの方向へ向かった。

「でもキオさんが!」ミチコが泣きそうな声で訴えた。

「あいつはもう助からない」渚が即答した。

 ミチコはそんな渚を見て「信じられない」という顔をした。

 だが遠目から見てもキオの体は数メートル突き飛ばされていて、通行人達が大騒ぎしていた。自分達が行っても事態は余計にややこしくなるだけだろう。

「行こう、ミチコ」成もミチコを促した。

「そんなっ……」

 渚はミチコを引っ張り、成と共にホテルに向かって走った。


 昨日とは別のホテルにチェックインし、ほとぼりが冷めた頃にホテルを出てレストランへ晩御飯を食べに行った。

 渚の指示で、キオが車へ飛び込んだ道路の付近は通らないようにした。成達がキオと一緒にいたところを目撃している人がいるかもしれないからだ。別に何をしたというわけでもないが、キオとの繋がりを追及されると厄介なことになる。それに成としてもまだ事故の跡が残っている現場を見たくはなかった。

「渚さん、あんなこと言うなんて酷いです……」

 各々が注文したメニューが運ばれてきたところでミチコがそう言った。やはり表情は暗く食欲もなさそうだった。

 成はその言葉が自分にも向けられているような気がしたが、あの時成はキオを助ける気にはなれなかった。それにこれから自分も死のうとしているのに、他人の自殺は止めるというのも虫のいい話に思えた。

「申し訳ないとは思うけど、あの時はああするしかなかったの」

 渚がまるで成の気持ちを代弁するかのように言った。

「そうかもしれませんけど……」

 ミチコが言い淀んだ。

「私、キオさんがなんで自殺したのかとか、そういうこと何も知らないまま別れてしまいました。ケイトさんのことも。渚さんは知っているんですよね?」

「うん、そりゃあね……」

「別に話してくれとは言いませんし、彼らの意志を否定する気もありません。ただ……私も、キオさんとケイトさんともっと話がしたかった……」

 成も昨日、キオから過去の話を聞かされた。そのことを渚とミチコに話すべきか迷ったが、やめておくことにした。あの話は他人の口から語られるべきではないことだと思った。

 キオが車に飛び込んだ時、渚は「あいつはもう助からない」と言った。今になって思えば、あれはもしかしてキオの癌のことを言っていたのかもしれない。

 キオは死亡したと断定されたわけではない。しかし、キオがあの行動を選択した時点で、もう自分達との関係は断たれてしまったような気がした。

 その後の会話は続かなく、静かに食事を続けた。


 食事を済ませた後、レストランを出て夜道をゆっくりと歩いた。

「私、思うんだけど」

 渚が成とミチコに語りかけた。

「命っていうのはそれ自体に価値はなくて、私達はこの世界にただ『在る』だけなんだ。そして、私達が『在る』ことに意味なんて何もないんだよ」

 渚は夜空に浮かぶ月を指差した。

「それは、あの月や星や街や、宇宙にあるもの全部同じ」

 成とミチコは黙って聞いていた。

「でも、そんな存在に意味や価値のようなものを与えているのが人の心なんだ。人の心が誰かを大切に想うからこそ、命に価値が生まれるんだよ。もちろん自分自身の心も含めてね」

 そして、渚は「そんな心が、私にもあれば良かったんだけど」と小さく呟いた。それは成とミチコに聞こえないぐらい微かな声であった。

「命の価値というのは、絶対的ではなく付加価値的なんだ」

 なんで今そんな話をするのだろうと成は不思議に思った。だが渚はそれっきり何も語らなかった。三人は会話もせずにホテルまで帰った。


 その日の夜、ミチコはベッドに潜りながら考えた。自分はこれからどうするべきなのかということについて。

 ミチコは渚の話を思い出した。人の心が命に意味や価値を与えると渚は言っていた。しかし、ミチコの命に価値をもたらす人がいるのかどうかは分からなかった。両親はミチコを疎ましく思っているし、売春の噂が広まってから友達もいなくなってしまった。成と渚は普段は優しいが、まだ出会ってから一ヶ月も経っていないし、心の奥底までは見えない。結局、ミチコが生きることを望んでいる人は誰もいないように思えた。自分自身も含めて。ミチコは自分の命に意味や価値がないということを改めて思い知った。


 八月十三日土曜日。朝八時に目覚ましのアラームが鳴り、ミチコは目覚めた。

 アラームを止めてカーテンを開ける。同室に泊まっている渚はまだ寝ていたが、構うことなくテレビを付けた。

 今思えば、この旅の間渚は自力で目覚めることは一度もなく、毎朝ミチコが起こしていた。自分が起こさなかったらこの人は永遠に目覚めないのではないだろうか、そんな風にも思えた。

 ユニットバスの洗面所で顔を洗って用を足した後、しばらく朝のニュース番組を眺めていたが、キオの自殺の件は取り上げられなかった。しかし、そろそろ渚を起こそうかと思った時、ミチコのよく知っている人の写真が画面に映った。

「高校生である実の娘に幾度に渡って売春を強要した疑いで、東京都千代田区の吉高幸三容疑者と吉高絵里容疑者が逮捕されました」

 画面に映っていたのは、ミチコの自宅から警察に連行されていく両親であった。ミチコは鼓動が高鳴り、画面に釘付けになった。

「現在娘である美知子さんの居場所が分からなくなっており、警察が行方を追っています」

 アナウンサーがそう告げると美知子の顔写真が映された。いつの写真か覚えていないが、学校行事で撮られた時の写真だろう。

「今年の七月中旬頃、美知子さんと同じ高校に通う男子生徒が売春の現場を目撃。今週になって吉高家の自宅を訪れたところ、絵里容疑者が取り合わなかったことを不審に思い、警察に通報したとのことです」

「水瀬君だ……」

 ミチコは誰に言うわけでもなく、そう呟いていた。

 水瀬君が私を助けようとしてくれたんだ。もしかしたらラブホテルの前で「最低だ」って言ったのも、私に対しての言葉ではなかったのかも……。

 それは都合の良い解釈かもしれない。でもそう思うと、ミチコは涙を堪えることができなかった。あの日から何度泣いたのかも分からない。だけど、嬉しくて泣いたのはこれが初めてだった。

「警察の調べにより売春の証拠が見つかり――」

 アナウンサーが話し続けているが、もうミチコの頭の中には入っていなかった。

「あーあ、写真写り悪いの使われちゃったね」

 いつの間に起きていた渚がベッドに肩肘をついて寝転がりながら画面を見ていた。備え付けのフリーサイズの寝間着がはだけ、ピンク色の下着が見えていた。

「そんで、どうするよ?」渚が悪戯っぽい顔をして訊いた。

「私、水瀬君のいるところへ帰ります」

 涙を拭いたミチコが凛とした顔付きで言った。

 彼の心が私の命に価値を与えてくれるのなら、私はどんな世界でも生き抜いてやる。ミチコはそう心に決めた。

「そっか」

 渚が動物園にいるパンダのようにゆっくりと起き上がった。

「そんじゃあ、今顔がバレたら困るからね。渚ちゃん秘伝の小悪魔メイクを伝授してあげよう」

「えっ?」

 脅えるミチコに渚の魔の手が忍び寄った。


 成はチェックアウトする前に、渚とミチコがいる部屋に呼ばれた。ノックして入ると渚の隣にミチコのような女の子がいた。

「お前は誰だ」

「ミチコです……」

 ミチコは濃いメイクによって見違えるように変貌していた。アイラインは目尻が上がるように、眉毛はブラウン系の色で描かれ、マスカラも綺麗に塗られていた。唇はリップライナーで輪郭が描かれ、口紅の上に塗られたグロスがしっかり艶を出している。頬には淡いピンク色のチークが塗られていた。

「これなら、どこの店でも指名一位を取れるわ」渚が得意顔で言った。

「これはどういうことだ?」

 成が問い掛けると二人は事の顛末をかいつまんで説明した。

 成はミチコの事情には理解を示しつつも、渚ちゃん秘伝の小悪魔メイクに対しては少し呆れていた。

「なるほどな」 

「あとは私のキャップを被れば絶対にバレないわ」

 渚は黒いキャップ帽をミチコの頭の上に乗せた。

「これあげるから」

「そんな、悪いですよ」

「いーのいーの」

「オホン」

 成が咳払いした。二人は成の方を見た。

「ミチコは警察に出頭するとして、俺達はどうするんだ?」

「そりゃあ、最後はやっぱり富士の樹海でしょ。旅はあと二日しかないんだよ」

「ここからだと高知空港から飛行機で羽田まで行って、新宿からバスで河口湖まで行くのが一番早いな」

 成はスマホで乗換検索をしながら言った。その様子を見たミチコが寂しそうに言った。

「やはり、お二人もこれから自殺してしまうのですね」

「うん。ミチコちゃん、私達のこと忘れないでね」

「はい……」

 ミチコは目を反らさずに返事をした。今度は泣かなかった。


 渚はホテルのロビーでチェックアウトを済ませた。渚がどこまで計算していたのかは計り知れないが、今回の旅は全て代表者記名だけで泊まれる宿を選び、その全てにおいて渚が代表者となっていたので、警察がミチコから成達に辿り着く可能性は低いと渚は言った。

 成達はホテルの前で別れることにした。

「それじゃあ、渚さん、成さん、いろいろとありがとうございました。警察には一人で来たと言っておくので安心してください」

「ああ、気を付けろよ」

「元気でね、ミチコちゃん」

 ミチコは二人と握手をした。

「私、皆さんと出会ってなかったら、もっと早くに死んじゃってたかもしれません。だから、ケイトさんやキオさんの分も頑張って生きたいと思います」

 成と渚の顔を交互に見る。

「ケイトさんとキオさんは、これで良かったのでしょうか?」

 少し悲しい表情で問い掛けた。

「私が言うのも変だけど、ケイト君もキオ君も自分で望んでやったことなんだから、ミチコちゃんは何も気に病む必要はないよ」

 ミチコは目を閉じて何かを考えていた。成達の間を冷たい風が吹き抜けた。

「あと、何となく思うんですけど、もしこれからお二人が死ななかったとしても、渚さんと成さんとはもう二度と会えないような気がするんです。なぜかは上手く説明できないんですけど。だから、いずれにせよ今が私達の最後の時なんです」

 少しの間があった。だけど、それは親密で暖かな沈黙だった。

「うん、私達もミチコちゃんのこと忘れないよ」

「はい。じゃあ渚さん、成さん、私そろそろ行きますね」

 ミチコは背筋を伸ばした。

「それじゃあ、私、吉高美知子でした! さようなら!」

 そう言って微笑み、去って行った。ミチコが最後に見せた表情は雨上がりの虹のような笑顔だった。そして、彼女は姿が見えなくなるまで一度もこちらを振り返らなかった。

「良い子ね」

「そうだな」

「嫁に欲しいわ」

「そうか?」

「また二人になっちゃったね」

「ああ」

「それじゃあ、私達も行きますか」

「行くか」


 中村駅から高知駅までは特急電車で約二時間の道のりである。特急電車に揺られながら、先にスマホで飛行機と新宿からの高速バスのチケットを予約しておいた。

 昼食も車内で駅弁を食べることにした。渚は成の生姜焼き弁当の豚ロースを一枚奪い取り、代わりに自分のエビフライ弁当のエビフライを一尾置いた。成は特に何も言わなかった。

 高知駅からバスで三十分弱走ると高知空港に着いた。飛行機に搭乗し、渚が窓際の席に、成がその隣の席に座った。

「東京に戻るんだね」

 渚が滑走路の風景を眺めながら呟いた。そして成の顔を見て、これから遠足に出かける子供のように笑って言った。

「さあ、お待ち兼ね。

 自分でも分かっていたことだが、成にはなかなか実感が湧かなかった。

 飛行機が唸り音を上げ、やがて滑走路を走り出した。そして、その膨大な質量を翼が生み出す揚力に預け、東の空へ飛び立った。

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