第十三話 清水の舞台より
ミチコは新幹線の窓に滴る雨を眺めながら、両親のことを思い出していた。
勝手に家を出てしまったが大丈夫だろうか。厄介者がいなくなってせいせいしているだろうか。それとも稼ぎ頭がいなくなって焦り、血眼になって探しているのだろうか。いずれにせよ、私の身を案じていないことだけは確かだ。
福井駅を出発してから一時間半程経ったところで京都駅に着いた。ミチコは誰よりも早く駅のホームへ降りた。ホームにある「京都」の駅名標を見つけると、ただそれだけで胸が熱くなった。
私はあの地獄のような世界から抜け出し、遂にここまで辿り着いたのだ。
オレンジ色のリュックサックに付けられた舞妓さんのキーホルダーも嬉しそうに微笑んでいる。その様子を見ていた渚が安堵の息をついた。
成達は駅から出ると近くのビジネスホテルにチェックインした。「毎日旅館だと飽きるから、今回はホテルがいい」という渚の鶴の一声で決まったのだ。今回は二泊三日で、渚とミチコはツインの部屋を借り、男衆は人数が半端だったのでシングルの部屋を一人一部屋ずつ借りた。
ホテルに荷物を預けた後、駅前にある湯豆腐の店で明日の作戦会議をすることにした。
「成君。この豆腐、味が薄いんですけど」
渚はお椀にポン酢醤油を湯水のように注いでいた。
「そういうもんなんだから、感謝して食え」
「それで、明日はどこに行く?」キオが皆に問い掛ける。
「それなら! 私考えてきたんですけど」ミチコが小さく手を上げた。
「うむ、申してみよ」渚が偉そうに言う。
「まず、地下鉄とバスで一気に銀閣寺まで行きます」
「ほう」
「それで清水寺方面まで歩きながら、いろいろな所を見て行くんです。途中に南禅寺や八坂神社、哲学の道なんてのもあるんですよ」
これは修学旅行の自由行動を決める時にミチコが提案したルートでもあった。
「金閣寺には行かないの?」ケイトが口を挟んだ。
「フッ、そうやってピカピカしたものに飛び付くのは子供なのよ。大人になったら銀閣よ、銀閣。ねっ、ミチコちゃん」渚がミチコの肩を叩く。
「いえ、そんなつもりじゃないです! 頑張って金閣寺の方にも行きますか?」
「いや、別にどっちでも良いんで、銀閣でいいです……」ケイトが折れた。
「最後に、かつての自殺の名所である清水寺を持ってくるところもポイント高いわ」
「宇治川にも名所のダムがあるらしいぞ」キオが渚の方を見て言った。
「ダムー? もう崖を見たしなぁ。それに、ダムなんかで自殺したらダムの人に迷惑が掛かるから駄目だよ」
じゃあ東尋坊と清水寺も駄目だろ、と成は心の中で指摘した。
「それじゃあ、その近くにある平等院鳳凰堂に行きませんか?」
「あー、十円玉の」
ミチコが提案すると、ケイトが財布から十円玉を取り出した。
「建物も庭園もとても綺麗で風情があるんですよ。それに、平安時代の武将である源頼政が自害した場所でもあるんです。明後日はホテルをチェックアウトしたら、そちらの方へ行きませんか?」
「よし、じゃあリーダー権限でそこに決まり! ねえ、成君」
「何だ?」
「ポン酢かけ過ぎちゃった」
「帰れ」
渚リーダーは新しいお椀で湯豆腐を味わい、作戦会議は終了した。
八月十日水曜日。成達は午前九時にホテルのロビーに集合した。昨日は酒を飲まなかったので、渚もすんなり起きることができたようだ。
京都駅から地下鉄で今出川駅まで行き、そこからバスで最初の目的地である慈照寺、通称銀閣寺へ向かった。著名な観光地であるので、東尋坊と同様に平日にも関わらず多くの観光客が訪れていた。
バスを降り狭い路地を歩いて行くと、所々に京都ならではの土産屋や飲食店が並んでいた。それらの店を眺めながらぶらぶらと歩いていると、ミチコは見覚えのある物を発見した。
ある土産屋の店先に、自分が持っている物と同じ舞妓さんのキーホルダーが売られていた。きっと皆はここでキーホルダーを買ってくれたんだ、とミチコは嬉しくなった。舞妓さんの隣には、対となって売られている忍者のキーホルダーが置いてあった。ミチコは迷わずにそれを購入した。
この忍者君もどことなく水瀬君に似ていないこともない。今日一日はこれを水瀬君だと思って一緒に京都を回ろう。
そう思い舞妓さんと一緒にリュックサックに付けた。
「成君、これ可愛くない?」
渚はお土産屋に並んでいる扇子の一つを指差した。それは白い花が描かれた淡い桃色の扇子だった。
「あー、いいんじゃないか? どうでも」
「私はこれ買うから、成君はこっちだね」
今度は墨画風の竹が描かれた白い扇子を指差す。
「なんで俺まで買わなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん。暑いんだし」
「成さん、渚さん」ミチコが会話に加わった。
「扇子は元々、メモ帳として使われたのが始まりなんですよ」
ミチコは得意気にそう言った。
「だってさ! この扇子、余白が多いしメモ帳にぴったりじゃない?」
「つっても、一体何をメモするんだ?」
「さあ? 遺言とか、莫大な遺産の相続相手とか?」
「あっそ」
成はなんだか面倒臭くなり、その扇子を買った。金はどうせ余るから別にいいだろうと思った。
渚は他にもピンク色の蝶々をあしらった簪を買って、店員に髪を束ねて挿してもらった。Tシャツに七分丈のジーンズという出で立ちで明るい茶髪に簪を付けた渚は、浮かれた外国人観光客のように見えた。
路地の突き当たりの開けた場所に人だかりができていて、そこが銀閣寺の入口であった。その門をくぐる前からミチコの胸は高鳴っていた。
総門と呼ばれる門の前で入場券も兼ねたお札を買い、門をくぐった。中門までの白砂の参道には、銀閣寺垣という竹垣が美しく立ち並ぶ。前庭を通り宝処関をくぐると、右手側に銀閣と呼ばれる観音殿があった。
「これが慈照寺の観音殿……」
ミチコは吸い込まれるように見入った。
「銀箔も貼ってないのに、銀閣寺なんだよな」
成が銀閣を見上げて言った。
「金閣寺を模して作ったのでそれに対して銀閣寺と呼ばれるようになったという説や、財政難で貼れなくなったという説などがありますよ」
「なるほど」
「本当は銀箔を貼る予定だったのか、貼るつもりはなかったのか、今ではもう推測することしかできません。もし記録が残されていたとしても、その記録が本当かどうかを知ることもできません。この寺院を建てた足利義政に直接訊いたわけではありませんから」
ミチコは目を閉じた。その瞳は遠い室町時代の風景を見ていた。
「目に見える物、目に見える記録だけが全てではありません。私達が本当だと思っていることは、実は本当じゃないかもしれないんです。
その後も、私達は京都の町をゆっくりと歩きました。
哲学の道で猫と遊んで、
永観堂で青紅葉の木漏れ日に目を細めました。
南禅寺の水路閣は、不思議の国へ掛かる橋みたい。
青蓮院の高台から、平安時代と同じ空を眺めました。
知恩院の三門の前で写真を撮ると、私達はまるで小人のよう。
そして、八坂神社であなたの幸せを祈りました。
午後五時を過ぎ、日が沈みかけて京都の町がノスタルジックに照らされる頃、成達は清水寺に着いた。清水寺も銀閣寺に負けず劣らずの人だかりであった。
まず正面に仁王門、西門、三重塔が見える。その先にある轟門を通ると、本堂の出世大黒天像が立ちはだかる。黒光りした男の像に人々がお賽銭を納め、金運向上を願っていた。
出世大黒天像を横目に右手側へ歩くと、目的である清水の舞台があった。清水寺の中で最も有名なスポットということもあり、観光客でごった返していた。木製のそれほど高くない柵に寄り掛かって景色を眺めると、遠くに京都の空と夕景を一望できた。
「実際に上から見てみると、思ったより高くないな」成は舞台下を見下ろして言った。
「確かにここから落ちても、死ねるかは微妙なところですね」とケイト。
「江戸時代では自殺ではなく、観音様に願いを叶えて頂くために飛び降りたんですよ」ミチコが解説した。
「あの下の行列は何だ?」キオが指さした。
「あれは音羽の滝ですね。清水寺の名前の由来となった水で、飲むと願いが叶うんですよ」
「高いところから飛び降りたり、湧水を飲むために行列に並んだり。その努力を願いを叶えるための行動に費やせばいいのに」渚が行列を見下ろしながら言った。
「そういえば、渚さんは今日お寺では参拝とかしていませんでしたね」ミチコは心配そうに尋ねた。
「私は自分しか信じていないから」
渚がそう言うと、ミチコは少し寂しそうな顔をした。
奥の院を通ってから迂回し、音羽の滝まで下りた。三つの滝が流れており、飲むとそれぞれ別の効果があると巷では言われているが、張り紙には三つ共ご利益は同じであるという風に書かれていた。まだ二十メートル程の行列が並んでいるので、音羽の滝の水を飲むのは諦めた。
その後清水寺の入口まで戻って来た時には、もう拝観終了時間の十分前になっていた。そろそろ帰ろうかという空気になった時、ミチコは妙な焦燥感に駆られた。
もう二度と清水寺に来ることも、清水の舞台から京都を見渡すこともできなくなる。もう一度だけ清水の舞台に立ちたい。
ミチコは他のメンバーに寺の前の商店街で待っていてもらい、一人で清水の舞台へ向かった。
「まだ見飽きないなんて、よっぽど寺が好きなんだな」
キオが石の階段に腰掛けてぼやいた。
「成さん、成さん」
ケイトが成に耳打ちした。
「今回の賭けは成さんの勝ちかもしれませんね」
成は何も答えなかった。まさかだろ、そう思いながらミチコの背中を見送った。
寺内では拝観終了を告げるアナウンスが鳴り響いていた。清水の舞台にも、もうほとんど観光客はいなかった。
ミチコは清水の舞台から眺める夕陽に見惚れた。それはまるで世界の終わりの日のように赤く燃えていた。
今日は夢のような一日だった。ずっと憧れていた京都を回ることができたのだ。忍者君のキーホルダーと一緒に。これで私の最期の望みは叶った。
清水の舞台から見下ろすと、仄暗い闇の中に小さな明かりが灯っていた。音羽の滝にはまだ何人かの観光客が並んでいた。
ここから飛び降りれば、観音様は私の願いを叶えてくれるのだろうか。こんな低い柵なら簡単に乗り越えられる。いや、こんな所から飛び降りてはいけない。
そう思いつつも、眼下の淡い闇から目を反らすことができない。
そこで不意に背後から足音が聞こえた。
「大丈夫?」
振り向くと渚がいた。
「君、自殺でもしようとしてるの?」
その言葉を聞いてミチコは、初めて渚と会った日のことを思い出した。あの時は雨が止んだあとのくすんだ空だったが、今は美しい夕陽がミチコと渚を照らしている。
「渚さん……」
渚は淡い微笑みを浮かべている。
あの日もこんな風に渚さんが声を掛けてくれたんだっけ……。公園で一人、死ぬことを考えていた私に……。
ミチコの心の奥から何かがじんわりとこみ上げてきた。
続けて渚が何かを言おうと口を開きかけたが、それを遮るようにミチコが詰め寄った。
「渚さん、ありがとうございました! 私、人生の最後にこんなに嬉しいことがあって、幸せです」
「ん。それは良かった」
「皆さんと一緒で楽しかったです! 銀閣寺にも行ったし、八ツ橋も食べたし、写真もいっぱい撮ってもらったし、それから、それから……」
ミチコはそう言ってハッとした。自分の目から涙が零れていることに気が付いた。
「あれ、おかしいな……こんなに幸せなのに、どうして涙が出てくるのかな……」
渚は黙ってミチコを抱き締めた。
「ううん、辛かったよね」
そう優しく囁かれると、ミチコは堪え切れなくなり、涙が次から次へと溢れ出した。
「ごめんなさいっ」
ミチコは渚にしがみ付いた。渚の胸がミチコの涙で温かく濡れた。
「本当は私、皆と、クラスの皆と行きたかったんです」
「うん」
「水瀬君と、水瀬君と京都に行きたかったんです。なのに、どうしてっ……」
「うん、うん」
「水瀬君、水瀬君! う、うぅ……」
ミチコは声を上げて泣いた。あの日必死に抑えようとしていた感情が堰を切って溢れ出した。
水瀬君と京都に行く。もしその願いを観音様が叶えてくれるとしても、ミチコは清水の舞台から飛ぶことができなかった。
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