終章
第三十二話 紡ぐ想い
成達が旅を終えてから、約一ヶ月が経とうとしていた。
ミチコは学校帰りに、とある病院を訪れていた。都内では比較的規模の大きい病院だ。面会は今日が初めてではないのでいつものように手続きを済ませ、慣れた足取りで病室へ向かう。初めは病院特有の静かでどこか痛ましい雰囲気が苦手だったが、今ではもう平気になり、何人かの看護師と顔見知りになっていた。
病室に着くと扉をノックし、元気いっぱいに面会相手の名前を呼んでやった。
「こんにちは、キオさん!」
いつものように右腕にギブスを巻いたキオが、あまり嬉しくなさそうにミチコを見た。今は相部屋ではなく静かな個室に入院しているので、余計に声が響く。
「病院でデカい声出すなって、いつも言ってるだろ」
「すいませーん」
ミチコはあまり申し訳なくなさそうな返事をして、椅子に座った。
「唯でさえ事故の後、見知らぬ女子高生が来るようになって怪しまれてるんだからよ。お前、援交相手と思われてるかもしれんぞ」
「ふふっ、私は少々お高いですよ」
「お前は誰かさんみたいに、そういう下らない冗談は言わないと思ってたんだがな」
あながち冗談でもなかったんですけどね、とミチコは心の中で舌を出した。
◇◇◇◇
ミチコは成達と別れて警察へ出頭した後、直ちに保護されて東京へ連れて行かれた。両親は現在留置所で生活しており、ミチコは親戚からの援助と真っ当なアルバイトで稼いだ金で生計を立てている。
ミチコの両親が逮捕されたという報道は学校内にも広まっていた。売春は強要されていたということが同級生の同情を買い、新学期からはミチコを苛める者はいなくなった。
同級生達との友情が元通りに回復したわけではないが、水瀬とは仲直りすることができた。ミチコは水瀬に感謝しきれないほどに感謝し、お礼に忍者君のキーホルダーを贈った。水瀬はそれをとても喜んでくれた。
生活が落ち着いてからスマホを買い、念のためメモしておいた渚のアドレスにメールを送ってみた。
「渚さん、ひょっとして、まだ生きていますか?」
数日待っても返信は来なかった。今まで実感が湧かなかったが、本当に自殺してしまったのだと思うとどうしようもなく悲しくなった。
しかし、ある日思い出したように返信が届いた。
「やっほほい、生きてるよん」
それを見たミチコは飛び上がって喜んだ。ミチコは自分の近況を報告し、渚はケイトとの出会いから樹海脱出までの話を少しずつ書き連ねた。渚のメールは数日に一度送られてきて、その文章はまるで連載小説のようであった。
渚は、キオも生きていて連絡を取り合っていることを告げ、ミチコにキオの連絡先と入院している病院を教えた。だが、成とケイトは現在連絡がつかず、どうなっているのか分からないらしい。
キオは渚の過去を詳しく聞いていなかったので、その話を学校帰りに少しずつ聞かせるのがミチコの楽しみとなっていた。
◇◇◇◇
今日はキオに物語の最終章を聞かせてあげた。語り部のように心を込めて。
「そうか、成は死んだかもしれないのか」
キオの表情が沈んだ。
「でも! 首吊りは失敗したんだから、まだどこかで生きているのかもしれませんよ。渚さんがロープに切れ目を入れておいたおかげですね」
「分からんな。自殺を手伝っておきながら、なぜそんなことをするのか」
「またそんな野暮なこと言って。女心が分からないんですね」
「多分お前が期待しているような理由じゃないと思うぞ」
「それじゃあ、今度渚さんに聞いておきますね」
ミチコは窓の外に広がる秋の空を眺めた。昨日は土砂降りだったが、今日は気持ちの良い快晴だ。花瓶に飾られた黄色いハナビシソウが、太陽の光を浴びて輝いている。
「胃の調子はどうですか?」
「最近はそんなに痛まないよ。あの時も急に痛みが来なければ、ちゃんと車にぶつかってすんなり死ねたんだけどな」
「人様に迷惑掛けて、貯金もすっからかんになりそうなのに、まだそんなこと言ってるんですか? 第一、『お前らが人様に迷惑掛けないか心配なんだよ』とか言って旅に参加したくせに」
ミチコは眉を吊り上げた。今日こそは本格的に説教してやろうかと思った。
「どうせ、もうすぐ死ぬかもしれないんだから一緒じゃねえか」
キオがそう弱々しく答えると、怒る気も失せた。ミチコは表情を緩める。
「まあ、死ぬかもしれませんけど、死なないかもしれないじゃないですか」
それを聞いたキオは目を丸くした。
「お前な、他の癌患者にそんなこと言ったらグーで殴られるぞ」
「そんなこと言われても、癌患者の気持ちは癌患者にしか分かりませんよ」
「あのなあ」
「それじゃ、私バイトがあるんでそろそろ行きますね。キオさん、お大事に」
ミチコは立ち上がって、扉の方へ向かった。
「ミチコ」
キオが呼び掛けると、ミチコは振り返った。
「いつもありがとな」
「どういたしまして。いつか渚さんやケイトさんも連れて来ますね」
「楽しみにしてるよ」
ミチコは会釈をし、扉を開けようとした。
「あ、一つ言っておきたいんですけど」
「何だ?」
「私達は他人の気持ちを知ったり、お互いの心の中を覗いたりすることはできません。でも……」
「…………」
「それでも、私はもうキオさんのことを見捨てたりはしません。最期の時まで、こんな風に会いに来ます。それだけは信じて下さい」
「……わかった」
「あ、でも私、好きな人がいるんで、そういう期待はしちゃ駄目ですよ」
「そっちは期待してねえよ」
ミチコは返事をせず、笑って手を振った。
ミチコが病室から去ると、キオも窓の外の青空を眺めた。そして、病院のロビーで渚と初めて会った時のことを思い出した。
いろいろあったけど、結局またこの病院に戻って来ちまったな……。
渚と出会った時と比べても、キオの状況は何一つ好転していなかった。むしろ怪我をしたことを考えると悪化しているとも言えた。何か得られたものを強いて挙げるのならば、奇妙な女子高生の友人だけだ。
キオは先ほど彼女が言っていたことについて考えてみた。
ミチコの言う通り、俺だって自分以外の人間の気持ちは分からねぇ。婚約していた秋穂にも見捨てられた。でも、最後くらいはミチコのことを信じてみるのも悪くないか……。
キオはフッと笑った。
自分の残りの人生があとどれくらいあるのかは分からない。だが、それは誰だって同じだ。だから、これから考えなくちゃいけないこと、考えても分からないこと、いろいろあるけど、そんなことに頭を悩ませながら死ぬまで生きるしかない。人生ってのは結局、そうするしかないんだ。
今ならそんな風に思えた。その瞳には、諦めと覚悟が宿っていた。
ミチコはバイトが終わって帰宅すると、早速渚にメッセージを送った。
「こんばんは。今日もキオさんのところに行ってきました。キオさんに『なんでロープに切れ目を入れたんだ?』って聞かれましたよ」
◇◇◇◇
蒼井やなはるは、デスクの椅子に座ったまま大きく伸びをしていた。今日の執筆がひと段落ついたところだ。
九月になっても残暑が厳しい。鬱陶しい髪を簪で束ねて、成の扇子で体を扇いだ。
あの旅が終わってから、就職するために髪の色は黒に戻した。簪は京都で思わず一目惚れをして扇子と一緒に買ったものだ。やなはるの黒く艶やかな髪に留まったピンク色の蝶々が、静かにその羽根を休めている。
スマホを見てみると、ミチコからのメッセージが届いていた。
なになに、なんでロープに切れ目を入れたかだって?
やなはるはすぐに返信した。
「ふふん」
ミチコはやなはると会いたがっていたが、旅の途中で別れてからは一度も会っていなかった。
というのも、渓人の方が全く連絡が取れず、やなはるやキオからのメッセージや電話に一切応じないからだ。まず渓人のことについて何か分かるまでは、他のメンバーにも会う気になれなかった。
散々渓人のことを振り回してきた自分を許してくれとは言わない。だけど、それでも一言謝りたい。
やなはるはそう切に願っていた。
成にも試しに一度電話を掛けたことがあったが、「お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため掛かりません」というお決まりのメッセージが流れただけだった。
奥中成という男性が行方不明になったという報道も一切ない。成がどうなったのかは、もうやなはるには分からなかった。
「やなはる、お風呂が溜まったよ」
部屋の向こうから母の呼ぶ声が聞こえた。
「ありがとー」
最近は認知症のリハビリも兼ねて、簡単な家事はほとんど母に任せていた。
昨日は地獄のように熱い風呂だったけど、今日は大丈夫なのかな。
やなはるは湯船に浸かるのが恐ろしく、そして楽しみでもあった。
とりあえず今日書いた分の原稿をチェックしてみる。かつては母を自殺させるための小説であったが、その目的は様変わりしていた。
これは停滞の物語だ、やなはるはそう思った。成長でも喪失でもなく、停滞。
成君、もう私達が会えることはないのかもしれないけれど、もし君が生きることを選択して、あの森を抜け出すことができたのなら、いつかこの物語を読んでほしい。君のおかげで、心の在り処を知ることができた物語を――。
原稿のチェックを終え、風呂に入る前に、久しぶりに渓人にメッセージを送ってみることにした。ミチコとメッセージのやり取りをしているうちに、なんだか懐かしくなってきたのかもしれない。
変に考え過ぎず、パッと頭に浮かんだメッセージを画面に打ち込んでみる。
その文章はなぜか敬語で、文面から自信の無さから滲み出ている。しかも、ミチコとキオをダシに使うという姑息さ付きだ。
でも、自分のせいで渓人との関係が破綻してしまったのだから、仕方がない。やなはるはそう自分に言い聞かせた。
私は、昔は本当に渓人のことが好きだった。でもだからこそ、どんな形であれ、渓人のことにはけじめを付けなければならない。
やなはるはそれ以上うだうだ考えるのはやめ、そのメッセージを送信した。きっと、なるようにしかならないんだ。そう思うことにした。
◇◇◇◇
「久しぶりに会いませんか? ミチコちゃんとキオ君も会いたがっています」
川端渓人はそのメッセージが届いたとき、自宅にいた。夕飯を食べ終え、食器も洗い、なんとなく時間を持て余していたところだ。
自宅でやなはるのメッセージを眺めていると、どうしても半年前の出来事を思い出してしまう。やなはるがこの部屋のベランダで首を吊ろうとしたことを。
渓人はベランダに出てみた。当然のことだが、そこに首を吊ったやなはるはもういない。そのベランダには本当に何もなくなっていた。
月が綺麗な夜だ。やなはるのいないベランダで月を見ていると、迷っていた自分の心が光に晒されていくような気がした。
そろそろ、やなはると会ってもいい頃合いか……。
そう決心すると、ポケットからスマホを取り出し、メッセージを打ち始めた。
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