第十七話 心

「秋穂さんは死んだのか?」

 壮絶な話の最後に成が問い掛けた。

「一命は取り留めた。もちろん恵人を生むことはできなくなったが。いや、どっちにしろ恵人が生まれることはなかったのか」

「そうか……」

「今は別の病院にいて、あの事故以来秋穂とは会っていない。俺も体調が落ち着くまでは安静にしていたしな」

 成は絶句した。何と言葉を掛けたらいいのか分からなかった。手当たり次第に掻き集められた色とりどりの不幸をギフトボックスに詰められて、「はいどうぞ」と渡されたような気分だった。

「今は一人旅をしていることになっている。親も相当心配していたがな」

 キオは苦笑いした。

 あるいは両親ももうキオの死を覚悟しているのだろう。それを承知した上で、キオの最期の望みを叶えるべく涙を飲んで送り出したのかもしれない。成はそう推測した。

「でも秋穂さんもさ、キオが癌になった途端離れていくなんて、ちょっと酷くないか?」

「さあ、俺には分からない。よくテレビとか映画とかで闘病生活を愛の力で乗り越えるっていうのがあるけど、現実はこんなもんだ」

「…………」

「他人の心の中なんて全く分からん。分かろうと努力することは大事だけど、結局自分にできるのは分かったつもりでいることだけなんだ」

 それを聞いて、成は渚と公園に行った時に言われた言葉をふと思い出した。


「まあ、もし君が自殺をしたら、誰かが『何も死ぬことはないじゃないか』とか、『相談してくれれば良かったのに』とか、思い思いに言ってくれるだろうね。でも、そんなのは結局他人の都合だよ」


「うん。だから、君は本当に自分が死ぬべきだと自分自身で判断したのなら……ね。君には君の都合があるんだから」


 成をはじめとする多くの他人は秋穂に対して「酷い」と思うかもしれない。でも、それもやはり他人から見た都合だ。秋穂は秋穂の都合でキオの元を去り、キオはキオの都合で自殺を考えている。愛の有無は関係ない。成にはそんな風に思えた。

 黙って考え込んでいる成のことは気にせずにキオは喋り続けた。そうすることによって気が楽になるのかもしれない。

「残るのは結果だけだ。結果だけが突きつけられる、理不尽な程までにな。秋穂の心の中で何が起こったのか、俺から離れ恵人を堕ろそうとしたのかは知らされない。問い掛けても答えは返ってこない。あるいは、もし話してくれたとしてもそれが本当かどうかは秋穂にしか分からないんだ」

 確かにそうかもしれないと成は思った。成にだって渚が何を考えているのかは分からない。キオは秋穂が何を考えているのかが分からない。似た者同士だ。

 渚のことが頭に浮かんだところで、キオに訊かなければならないことがあったことを思い出した。

「なあ、渚とはどこで知り合ったんだ?」

 今まで気になっていたが誰にも訊けなかったこと。訊くなら今しかないと思った。

「ああ、そのことか……」

 キオは壁をじっと見つめていたが、実際にはその先のもっと遠くの方を見ているような印象を受けた。成はキオの次の言葉を待った。

「あいつとは俺が入院していた病院で知り合ったんだ」

「病院?」

 成は眉をひそめた。渚と病院という二つの言葉に関連性が見出せない。

「渚の父親が脳梗塞らしくてな。俺と同じ病室だったんだ。こんな重病の患者達が相部屋というのも妙な話だが、俺は個室だといろいろ余計なこと考えちまって気が滅入りそうだったから相部屋にしてもらったんだ。金もあまり使いたくなかったしな。まあそれはともかく、病室が同じだったんだ。渚の父親以外の患者も何人かいた」

 渚の父親が脳梗塞。当然それは成が初めて知った情報であり、僅かな驚きと不安をもたらした。

「それで、渚が父親のお見舞いにその部屋に来ていたのか」

「ああ。もちろん初めのうちは話なんてしなかったけどな。やたら綺麗な女が病室に来るもんだから、顔を覚えていた程度だ。だけどある日、散歩がてら一階のロビーの自販機に飲み物を買いに行ったら、渚がいて目が合っちまったんだ。それで、あいつから話しかけてきた。『うちの父と同じ病室ですよね』って」

 渚の方から話かけてきたということが成にとっては意外だった。渚は社交的ではあるが友好的ではないと思っていたからだ。

「そこでちょっと雑談をして、それ以来病室でもちょくちょく話をするようになった。もちろん俺の家族がいない時にな。渚の父親はほとんど寝たきりだったし俺のベッドとは離れていたから、周囲の目というものは気にせずに話ができた」

「…………」

「それで、なんでか知らないが俺は自分が思っていることを全て曝け出してしまったんだ。秋穂と離ればなれになって寂しかったからかもしれないし、渚が自分とは無関係な人間だったからかもしれない」

 多分それだけが理由じゃない、と成は思った。

 水商売としてのスキルなのか、あるいは生まれ持った才能なのかどうかは分からないが、渚には人の心の奥底にあるものを引き出す力があるような気がする。渚を前にすると、心の外側に出てはいけない考えすら口に出してしまうのだ。ちょうど俺のように。

 成は何も言わなかったが、キオは気にせずに話を続けた。

「俺は自殺を考えていることも渚に話した」

「渚はなんて?」

「そのこと自体には大したリアクションはなかった。ただ、死ぬまでに何かやりたいことはないのかと訊かれた」

「……やりたいこと?」

 なんでそんなことを訊いたのか不思議だった。もしかしたら自分が「やりたいことがないから自殺する」と言ったことと関係しているのか、と成は推測した。

「急に言われたもんだから、俺は一つパッと思い浮かんだことだけ言ったんだ」

「それは何だ?」

「俺は、旅がしてみたいと言った」

「……おい、まさか」

「そのまさかだ。渚は『あー、良いですねぇ。旅なんて』とか言って、その話はそこで終わりだと思ってたら、数日後に自殺旅行に行こうって言い出したんだ」

 成は絶句した。冷や汗が一滴、頬に垂れた。だが、その話が本当ならばもう一つ訊かなければならないことがあった。

「その会話をしたのはいつ頃だ?」

「うーん、七月の中旬くらいだったな」

 やっぱりな、と成は思った。

 俺と渚が新宿の喫茶店で話をしたのが確か七月の最初の日曜日で、それから自殺の方法が決まらないまま二週間会わずにいた。キオが渚と最初に会ったのはいつか知らないが、旅の話が出たのはその二週間の間のことだったのだろう。

 なぜ渚が旅に出ようだなんて言い出したのか、謎が解けて成は脱力した。

「あとは知っての通りだ。成とミチコとケイトもどこかで声を掛けられたんだろ?」

「……あぁ。ミチコとケイトのことは知らないけど、俺はそんな感じだ」

「俺が旅をしたいなんて言わなければ、こんなことにならなかったのかな。ケイトも死ぬこともなかったんだろうか」

 もちろんキオだけの責任ではないことを成は理解していた。全ての始まりは成だ。成が自殺することを渚に提案していなければ、五人が自殺旅行へ行くことはなかったはずだ。それをキオに伝えられないことが成の心を少しばかり痛めた。

「渚には何も訊かなかったのか? つまり、渚の目的とか、そういうこと」

「あぁ。秋穂に何を訊いても駄目だったから、渚には何も訊かなかった。あいつが自分から話すこともなかった。まあ、ただの自殺志願者ではないんだろうがな」

 キオは再びベッドに倒れた。少し話し疲れたみたいだ。

「成ぅ、お前はなんで死にたいんだ?」

 急に自分の話を振られたので少し考えた。そして、ミチコに話したことと同じことを言った。

「俺にはもう生きる目的がないんだ。生きることは目的じゃなくてただの手段だと思っているから、目的がなければ生きる必要性はない」

「そうか……」

 キオは切なそうな表情で天井を見上げた。

「成には手段があるけど目的がない。俺には目的があるけど実行する手段がない。世の中上手くいかないもんだな」

「まだ癌で死ぬと決まったわけじゃないだろ」

「似たようなものだ。俺にも生きる気力はもうない。実を言うと、癌のことは今はどうでもいいんだ。ただ、秋穂と恵人をあんな目に合わせてしまったことがどうしようもなく辛いんだ。早くこの後悔から解放されたい」

「…………」

「この旅にお前達も巻き込んでしまって悪かったな。ケイトが死んだ時、渚にキレちまったのもほとんど八つ当たりみたいなもんなんだ。俺のせいでケイトが死んでしまったような気がしてな」

 違うんだ、巻き込んだのは俺の方なんだ、お前は悪くないんだ、全部俺のせいなんだ。成はそう言ってやりたかった。しかし、結局何も言えずに俯いていた。

 そのまま二人でしばらく黙っていたが、やがてキオが口を開いた。

「俺、この地で死のうと思う。実は秋穂の実家が四国でな。少しでもあいつの近くで眠りたいんだ」

「うん」

 キオがどこでどうやって死のうと成には口出しすることができなかった。それは成の哲学と思考能力の範疇を超えていた。

「そうだな」

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