ふたりの自殺未来

広瀬翔之介

第1章

第一話 約束

 奥中おくなかなるは停滞していた。

 それは、今乗っている京浜東北線の電車が人身事故の影響で止まっているという意味かもしれないし、あるいは彼が人生において目標を見出せずにあぐねているということなのかもしれない。とにもかくにも、あらゆる意味合いにおいて彼は停滞していた。

 大手メーカーに勤めていたが、ブラック企業に近いような勤務体制でやりがいが感じられず、三ヶ月程前に退職した。世間では「三年は辞めずに頑張れ。三年経っても辞めたかったら辞めろ」とよく言われるので、律儀にぴったり三年間働き、特に思い残すこともなく事務的に辞めた。

 他にやりたい仕事がなく、貯金額にもまだ余裕があるので、今はその貯えを食い潰しながら気ままに日々を過ごしている。

 そういう生き方が良いか悪いかは別として、奥中成とはそういう男だ。


 清々しい青空の下、人身事故が発生したのは成が乗っているこの電車ではなく、同じ路線内の少し離れた駅だ。この電車は駅と駅の間の中途半端な位置で停止していた。

 車内にいる他の乗客達も、うんざりした表情でしきりに時計やスマホを見ている。電車が止まってから結構な時間が経過していた。

 この事故で人の命が失われたかもしれないと心配したり、自殺ならどういう想いを胸に抱いて電車へ飛び込んだのだろうと考えるような人は一人もいないように見えた。誰もが自分の用事なり予定なりに影響が出ることに対して、心の中で舌打ちをしているのかもしれない。気の毒なことに、うんざりを通り越して、顔が青ざめている乗客もいた。

 こういう死に方だけはしたくないな、と成は思った。どうせ死ぬなら野良猫を助けようとして車に轢かれる方がまだマシだ。それも、できれば白黒のブチ猫がいい。

 そんなことを考えている内に電車が動きだし、目的地に向かって再び走り出した。他の乗客達も安堵の息を吐いていた。


 辿り着いたその街では、人々がそれぞれの目標に向かって歩き回っていた。彼らは皆、時計の盤上で針に追われながら、くるくる回っているように見える。七月の真昼間なので、街は炊飯器の中のように暑い。

 小汚い雑居ビルが立ち並ぶ通りを少し歩き、今日の目的である風俗店を見つけた。店内に入ると、風俗店特有の甘い石鹸のような匂いが鼻をついた。スーツ姿の店員に出迎えられ、今日のコース内容を注文する。

 時間は四十分で指名は渚ちゃん、指名料込みでちょうど一万円。女の子は初めて見る子だったが、童顔で明るい茶髪のセミロング、今日出勤している子の中で最も成の趣味嗜好に合う子だ。

 誰もいない待合室で十五分程待たされた後、店員に個室へ案内された。一人で個室に入り、奥にあるシャワー室で体を洗う。

 シャワー室から出ると、六畳程の室内のベッドの上に、女子高生の制服を着てアイマスクを付けた女が横たわっていた。

 成は体に付いた水滴をバスタオルで綺麗に拭き取ってから、女の上に覆いかぶさった。


 一通りの行為を終え、再びシャワー室で体を洗ってもらう時に女が尋ねてきた。

「お湯熱くない?」

「大丈夫だよ」

「ねぇ、お兄さんは何歳なの?」

「今二十五歳だよ。来月で二十六歳」

「えーっ、そうなんだ~」

 キャバクラとかでも繰り広げられる、この世で最も無意味な会話だ。だが、それでも女は興味深そうに相槌を打ってくれた。

「君は何歳なの?」

 さほど興味はないが、一応聞いてあげた。

「私は二十四歳」

「そう、年相応だね」

「そう? ありがとう」

 女はなぜか嬉しそうに微笑み、コップにうがい薬とシャワーのお湯を入れた。成がそれでうがいをすると、吐き出されたお湯がシャワー室の排水口へ流れていった。

「今日はお休み?」

「仕事はしてないよ。今年の四月に会社を辞めてからは自由気ままに暮らしている」

「ふうん、そりゃ良いね」

「この店以外で何か仕事してる?」

「私? 私はねぇ、小説家を目指してる」

「小説家?」

 意外だった。小説家と風俗嬢。対極とまではいかなくても、互いにとても遠く離れた存在のように思えたからだ。

「本が出版されたら買うよ」

 心にもない言葉だったが、女は「ありがとう」と言ってまた微笑んだ。

 体を洗って服を着た後、成はベッドに座って言った。

「ところで、アイマスク着けるのって怖くないか?」

「なんで?」

「俺が変質者か快楽殺人者か何かで、ナイフでも持っていたら一巻の終わりだ」

 これは以前から思っていたことだが、実際に訊いてみるのは初めてだった。

「そんなことは起こらないと思うけど、実際あったら困るなぁ。長生きしたいから……。お兄さんも長生きしたいでしょ」

「長生きはしなくてもいいかな。ていうか、別にいつ死んでもいいけどね」

「どうして? 何か嫌なことでもあったの?」

「別に。ただ、なんか自分の人生に満足しちゃったのかな。もうやり尽くしたというか……。少年漫画で、キリのいいところで終わっとけばいいのに、人気があるからってダラダラと続くやつがあるだろ? そんな感じ」

「ほうほう」

「人間、何が何でも生きなきゃいけないってわけでもないと思って」

「ふぅん……ところでお兄さん、物静かな人だと思ってたけど、意外と語るね」

 成の話を聞く女の態度は少し意外に思えた。この話をしたら、引かれるか、過剰に心配する演技をされるかのどちらかだと思っていたのだが、違った。だからといって、興味がないというわけでもなく、純粋に成の話に関心を持っているように見えた。

 残り時間が終わるまで、とりとめのない話をして過ごした。

「最後のお客さんが、お兄さんで良かったよ」

「最後?」

「私、今日でこの店辞めちゃうの。それで、この後上がりだからさ」

「そうなんだ」

 成は平静を装って答えたが、内心では落胆していた。次も絶対に指名しようと思っていたからだ。少なくとも、成の知る限りでは最高の風俗嬢だった。顔も腕前も。だから、十五分待つだけでこんな子と遊べたのはとてもラッキーだと思っていた。

 非常に名残惜しくはあったが、女と別れの挨拶を交わし、店の外まで出ると再び熱気に包みこまれた。体には先ほどの女との行為の感覚が残っている。

 仕方ないか、そう思って諦めることにした。


 その後、街中で適当な買い物をしている内に夕暮れ時になった。成は駅の改札を抜け、ホームへの階段を登った。

 電車が発車したばかりらしく、ホームにいる人はまばらだ。端の方まで歩き、空いている椅子に座って、薄暗くなった街並みを眺めた。

 ほとんど無駄だった一日の終わり、夕焼けのホームに一人で座っていると、よく知っている街並みも物寂しく思える。そんな景色を眺めながら、今日風俗店で話したことを思い出してみた。自分は別に生きなくてもいいということについて。

 橙色の光に照らされながら、今この瞬間も社会が廻り続けている。俺もその輪の中に含まれている。しかし、その輪の中で廻り続けることに少し疲れた。もちろん、その気になれば再就職することはできる。だけど、もういろいろなことに飽きていた。生活の中でそれなりに楽しいことはある。趣味もある。結婚はしていないが、女と付き合ったこともある。童貞も卒業した。少しばかりの友達もいる。だがもう充分じゃないのか。。今、日常生活の中で辿っているのは、ただの人生の残滓だ。そこに物語性はない。

 そんな、ほとんど無駄なこれからの人生に想いを巡らせながら景色をぼうっと眺めていると、一人の女が目の前を通り過ぎていった。

 その女はモノクロ柄のワンピースを着て、小さなブラウンのバッグを肩から掛けていた。髪型は明るい茶髪のセミロング。ただの通行人に見えたが、すぐにハッとした。彼女は今日風俗店で指名した女だった。

 通り過ぎた女を視線で追うと、彼女は成の数メートル先で立ち止まり、スマホをいじり始めた。どうやら、その位置で電車を待つようだ。成の存在には気付いていないように見える。

 そういえば、帰り際に彼女が「この後上がりだからさ」と言っていたな、と成は思い出した。

 大した偶然だが、こんなこともあるのだろう。成は彼女に声を掛けるべきかどうか一瞬悩んだが、すぐにその考えを打ち消した。彼女としても店の外で客に声を掛けられるのは嫌だろうと思った。それに、彼女は今日で風俗嬢を辞めた身なのだ。そっとしておいてあげた方がいいだろう。

 そう一人で納得し、椅子に座ったまま電車を待った。彼女も立ったまま電車を待っていた。夕日が逆光となり、彼女の影が伸びて成に寄り添う。彼女が佇むその光景は情景写真の作品のように見えた。夕焼けホームと元風俗嬢。成は自分がその写真の世界に迷いこんでしまったような気分になった。そして、じっとしながら作品の一部であり続けた。

 やがてアナウンスが流れ、遠くの方に電車が小さく見えた。さてどうしたものかと思ったが、彼女とは違う車両に乗ることにした。

 そろそろ立ち上がろうかと思った時、前方にいる彼女に違和感を覚えた。

 彼女は足元の点字ブロック、いわゆる黄色い線の外側へ向かって、摺り足でゆっくりと進んでいるように見えた。注意して目を凝らさなければ見逃してしまうような速さで。

 まさか、と思った。成は彼女に声を掛けるべきかどうか再び迷うことになった。一日に二度も人身事故に巻き込まれるのは嫌だったし、目の前で人間がバラバラになるのはもっと嫌だった。

 彼女は緩慢に、しかし確実にホームの外側へ近づいていく。ホームの端の方なので、周囲に他の人はいない。

 線路の先から、電車の走行音が聞こえてきた。彼女がこのまま飛び降りてしまえば、それだけで彼女の全ては終わる。その命は、橙色の光と風の中へと消えていく。

 自分の手を握りしめると、微かな痛みが伝わった。冷たい風が頬を撫でた。

 電車が迫る。彼女は進む。電車が迫る。勘違いだったら、どうしよう。電車が迫る。止められるのは、自分だけ。電車が迫る。時間はもうない。電車が迫る。彼女は外側へ、外側へ。電車が迫る。もし止めなかったら――。

 そこで成は気が付いた。風俗店を出る時、彼女が言った言葉を思い出した。


 最後のお客さんが、お兄さんで良かったよ――。


 その言葉を思い出した瞬間、立ち上がって彼女のいるところまで走り、肩を掴んだ。そして、そのまま引っ張ると彼女はよたよたと後退し、黄色い線の内側に入った。成は手を放した。

 数秒後、電車が何もかも捻り潰してしまうような質量と速さでもって、通り過ぎていった。成は勘違いしていたが、この駅で停まる電車ではなく、通過する回送電車だったようだ。もし彼女が本当にホームから飛び降りていたら、間違いなく死んでしまっていただろう。

 彼女は線路の方を向きながら、ただ立ち尽くしていた。今どんな表情をしているのかは分からない。彼女の後ろ姿は、再び写真の世界の被写体に戻っていた。

 しかし、急に何かを思い出したように成の方へ振り返った。

 彼女の表情は悲しんでいるわけでもなく、驚いているわけでもなく、喜んでいるわけでもなく、怒っているわけでもなかった。かと言って、全くの無表情というわけでもない。彼女は、を用意していたように見えた。

 彼女と目が合う。しかし、ホームから飛び降りようとしていたかもしれない人に対して、何と声を掛けたらいいのか分からなかった。

「やっ」

 何も言えずにいると、彼女は手を上げて挨拶をした。学校で友達に掛けるような能天気な声だった。とりあえず、成が今日来た客だということには気付いたみたいだ。

「おう……」

 あまりにも平凡に挨拶をされたので、間抜けな声で返答してしまう。

「君もこっち方面だったんだ?」

 彼女は先ほどの出来事など、まるでなかったかのように続けた。

「ああ」

「奇遇だね」

「そうだな」

 なんだか実りのない会話になりかけていたので、思い切って訊いてみることにした。

「なあ、さっき……線路に飛び降りようとしてなかったか?」

 少しだけ言葉を選んで、控えめな表現にした。なにしろ、相手のことは元風俗嬢ということ以外何も知らないのだ。いきなり自殺だの死ぬだのとは言わない方がいいと思った。

「ああ……ごめん」

 彼女はやはり、何でもないというような口調で答えた。何がごめんなのかは分からない。

「さっきのは自殺とか、そういうのじゃないんだ」

「じゃあ、どういうのなんだ?」

 更に訊いてみると、彼女は「うーん」と唸りながら、首を捻った。言いづらいことに深入りしすぎただろうか、と成が考えていると彼女は口を開いた。

「まあ、いいか。あのさ、私小説家目指してるって言ったじゃん?」

 成は頷いた。店で話した時にそんなことを言ってたな、と。

「それで今書いてる小説が、まあその、自殺をテーマにした小説なんだ」

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