第二十九話 眠れる樹海の美女
持ってきていた食糧にはまだ手を付けていないが、それも大した量ではない。このまま脱出できなければいつかは餓死してしまう。夜明けまで眠って、朝から移動を再開、それでも無理なら警察に連絡してみようか。そうすれば、成君のことも同時に捜索してもらえるかもしれない。だけどもし警察に頼る場合、事の顛末を説明することになる。私はどこまで話せるだろうか、どこまで話すべきだろうか。
もしかしたらこれは私に対する罰なのかもしれない、やなはるはそう思った。
私のこれまでの行い。お母さんを自殺させようと思ったこと。自殺旅行を計画し、成君とキオ君の自殺に関わったこと。渓人とミチコちゃんも巻き込んだこと。そして、お父さんの首を絞めようとしたこと……。こんな暗い森の中を歩いていると、あの時のことを思い出す。この暗闇の奥から誰かの手が伸びてきて、体のどこかを掴んできそうな気がする。あるいは、この暗闇はお父さんの病室と繋がっていて、お父さんが今にも私の首根っこを絞めるのではないのだろうか。
そんな恐怖に支配されながらも、やなはるは「いや、そんなはずはない」という風に首を振った。
お父さんはあの時、確かに眠っていた。私が首を絞めようとしたことなんて、気が付いていないはずだ。
いや待てよ、とやなはるは思った。
頭では有り得ないと解っていても、正体不明の恐怖がやなはるを襲った。急に息苦しくなり、遂にその場でへたりこんでしまった。
だが、なんとか木にもたれかかり、今日はもうここで休むことに決めた。
暗闇の中一人で座っていると、水のない深海の底に沈んでいるような気分になる。体と頭は疲れ切っているはずなのに、しばらく眠れそうにないので、とりとめもなく昔のことを思い出してみた。
渓人の部屋で首を吊ってから、私の中に得体の知れない力のようなものが湧き上がってきた。それは私の行動を変え、髪の色を変え、あるいは職業を変えた。そして私は「渚」となり、自分の小説を完成させることだけを目的として生きた。しかし、それはさっき感じたような言い知れぬ不安に抗うために生まれたものなのかもしれない。「渚」になってからも、どうしようもない罪悪感と自分への恐怖に襲われることはあった。私はあの日にもそれを感じ取っていた……。
思い出に浸っていたやなはるはスマホを取り出し、成のスマホに電話を掛けた。どこからも着信音は聞こえてこない。でもそれで良かった。電話を切らずにそのままにしておいた。
私は風俗を辞めたあの日、駅のホームの外側へゆっくりと近づいていった。夕日がとても綺麗だった。電車の音が聞こえても構わずに進んだ。このまま生きていれば、また自分の障害となる人を殺そうとしてしまうかもしれない。それは良くないことだと思った。だから、気が付いた時にはホームの外側に向かって歩いていた。でも、その時だった。
やなはるはそこで、成に掛けている電話の発信音が切れたことに気付いた。何回も電話したから、あちらのバッテリーが切れてしまったのだろうか。
少しの間があった。
「もしもし」
電話口の向こうで誰かが答えた。いや、これは
「成君!」
やなはるは叫んだ。この声を聞き間違えるわけがない。やなはるがどれだけこの声を聞くことを強く望んでいたことか。
「どうした?」
やなはるの想いに対し、成は能天気な口調で答えた。
「今どこにいるの?」
「……死後の世界だ」
やなはるは少し黙ってしまった。
「いや、そういうのいいから」
「つれねぇな」
成は残念そうに言った。
「ちょっと近くを散歩してたらスマホが鳴ってるのが聞こえて、拾ったんだ」
「成君も樹海から出れなくなったんだ?」
「別に出ようとしていたわけじゃないけど、お前まだ樹海にいるのか?」
「一回家に帰ったけど、また来ちゃった」
「なんで?」
「成君から扇子を取り返そうと思って」
今度は成が黙った。そして、また口を開いた。
「お前はひょっとしてアホなのか?」
「うるさいな」
やなはるはムッとした。
「なんで扇子にあの言葉を書いたのか説明してくれる?」
「ああ、あのクソポエムのことか」
「おい」
やなはるの怒りに油が注がれた。成はケラケラと笑った。
「ケイトから色々聞いた。あれが何なのかは知らないけどさ、お前があれ書いた時、すごく辛いことがあったんだろ?」
「そうだよ! それも話したかったんだよ!」
やなはるは声を荒げた。スマホを持つ手は震えている。
「お父さんは脳梗塞になっちゃうし、お母さんは認知症になりそうだし、辛かったんだよ」
一旦喋り出すと、言葉が次々に溢れ出す。
「お金だって私しか稼げないし。風俗嬢なんて好きでやってたと思う?」
「…………」
「でも、そんな理由でお母さんを自殺させようと思ってたなんて異常だよね」
成は黙っていた。やなはるはため息をついた。
「ねぇ、成君」
「なんだ」
「嫌なことがあるたびに体がだんだん薄くなって、気が付いたら消えてしまっていたらいいのにね」
ちょうど、この目の前に広がる闇に溶けるように。
「そうだな」
成は優しい口調で答えた。
「渚」
「何?」
「俺、思うんだけど」
少しの沈黙があった。
「お前は普通の女の子だよ。普通じゃないって自分で思い込んでるだけで」
それを聞いて、やなはるは息が止まった。
今までの話を聞いて、それでも尚、私のことを普通の女の子だと言ってくれるのだろうか。こんな私のことを許してくれるのだろうか。
やなはるは自分の胸が熱くなるのを感じた。たとえ成の言葉が気遣いの嘘だとしても、嬉しく思った。
私がこんな気持ちになるなんて。
「とりあえず、扇子の話に戻っていいか? 実はさっきからスマホの充電が切れそうなんだ」
「うん」
取り乱していたことが気恥ずかしくなった。
「これから先、もし俺に会いたくなったら、あの言葉を見ろ」
「……それだけ?」
やなはるはキョトンとしてしまった。
「そうだ」
「はーっ」
さっきより深いため息をついた。
「そんなことなら、わざわざ来なくても電話するだけでよかったな」
「なんだと」
でもまあいいか、とやなはるは思った。
この暗がりのどこかに成君がいる。私達はこの暗闇を共有している。それだけで心が温かくなるような気がする。
「でも嬉しいよ、成君」
「なあ」
「なあに?」
やなはるは目を閉じて成の声に耳を澄ます。
「これからのことなんだけど」
「成君はどうするの?」
「もう少し考えてみようと思う、生きるのか死ぬのか。でも、あと三十分しかない。もし、二十六歳の誕生日に自殺をするのなら」
「二十六歳の誕生日に自殺をするのなら」
やなはるは成の言葉を繰り返した。それはなんだか不思議な響きだと思った。
「助けを呼ぼうか?」
やはなるは期待を込めて訊いた。
「いや、それはいい」
「そっか」
残念そうに顔を伏せる。
「君がどんな結論を出すのかは分からない……。でも、これだけは言わせて」
やなはるは成の顔を思い浮かべた。そして、ここまで歩んできた旅路を思い返した。
「ありがとう、成君」
「ああ」
いつもの短い返事だった。
少しの間があった後、再び口を開いた。
「俺も訊きたいことがあるんだけど」
「うん」
「お前は」
無音。
通話が途絶えた。成のスマホの充電が切れたようだ。
あーあ、折角良いところだったのにな。
やなはるは樹海の地面に倒れた。
そして、成と話ができて安心した途端、疲労と眠気が洪水のように押し寄せてきた。
これから考えなきゃいけないことが山ほどある。でも、今は寝よう。自殺志願者にも明日は来る。新しい朝が来るんだ。
やなはるは森の城で眠る童話の姫のように、深い眠りに落ちた。
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