第3章
第九話 旅の始まり
八月八日月曜日。成は目覚まし時計が鳴る前に目覚めた。カーテンを開けると、眩しい光が部屋に射し込む。窓の外はお出掛け日和の良い天気だ。自殺日和なのかは分からないけれど。
早めに朝の身支度が終わり時間を持て余すと、ふと思った。
そういえば俺が死んだら、このアパートの賃貸や電気ガス水道、スマホにネット、NHKとかの解約は一体誰がやるんだろう……。まあ、親しかいないか。
気付くのが遅すぎた、と成は顔をしかめた。
今から解約している時間はない。しばらくの間、俺が死んだことに誰も気付かなかったら、俺の貯金が無駄に消費されてしまう。引き継げる金は多いに越したことはないし、何か策を打っておいた方がいいな。自分が死んだあとのことはどうでもいいと思ってはいるが、これくらいのことはやっておいても損はないだろう。
成はそう決めたが具体的な方法はすぐには思い浮かばなかったので、とりあえず旅をしながら考えることにした。
もう来ることのない部屋を改めて見渡すと、部屋に残してある物のことが急に気になり始めた。普段は滅多に開けない引き出しや段ボール箱の中を見てみる。
これといって捨てるべき物はないな。まあ、AVくらいは大目に見てくれるだろう。
他にも、今まで持っていたことすら忘れていた物がいろいろとあった。ペン型懐中電灯、就職する時に買ってもらった腕時計、絶縁テープ、取得に苦労した資格の認定証、ソーイングセット、メジャー、昔の写真……などなど。一つ一つの思い出を噛みしめながら、旅にも使えそうなものだけリュックサックに入れて他の物は戻した。
出発する時、最後にもう一度部屋を見渡し、心の中で「さようなら」と呟いた。
正午になり成達は東京駅の新幹線改札口に集合した。
集合時刻の十五分前に成が到着した時には既にキオとミチコが待っていて、三分前になると渚がやあやあ言いながらやって来た。ケイトは約束の時間より五分遅れたが特に悪びれた様子はなく、それを見兼ねたキオに叱られた。
一週間の旅行ということもあり、各々がそれなりに動きやすい服装で来ていた。渚も普段はワンピースやスカートを愛用していたが、今日は黒いキャップ帽、白地の柄物のTシャツに七分丈のジーンズ、スニーカー、赤いリュックサックという服装だ。
平日でも東京駅は混雑しており、新幹線口ではこれから出張に行くのだと思われるサラリーマン達がせわしなく歩いている。
メンバー全員が揃うと、渚が点呼を取りたいと言うので皆仕方なく付き合ってあげた。
「じゃあ、次は円陣組もう」渚が悪乗りし始めた。
「一人で円になってろ」成は渚を置いて切符を買いに行った。
「えー、折角の旅の始まりなのにー」
「ほら、渚さん、早くしないとお弁当買う時間なくなっちゃいますよ」ミチコが渚の背中を押した。
「お前ら、新幹線の中で騒ぐなよー」キオは修学旅行の引率の先生みたいだ。
「全く、良い歳して何やってんだか……」ケイトが後から付いて来た。
成達は福井までの切符と新幹線の中で食べる弁当を買った。それを持って新幹線に乗り込み、三人掛けの椅子を一組反転させて向い合わせに座った。
「いやー、旅行なんて学生の時以来だから、ワクワクしちゃうねー」
渚が早くも神戸牛タン弁当の包装紙を開けながら言った。キオも自分の昼食をビニール袋から出して、今日の予定を説明した。
「米原駅で乗り換えて、その後福井駅で新幹線を降りる。そしたら今日はローカル線で三国港駅まで行って、近くの温泉宿に泊まろう」
「分かりました、先生」渚が手を上げて答える。
「お前が言い出しっぺなんだから、人に任せるなよな」成は呆れた顔で言う。
「ちゃんと相談して安い宿探しましたー」
渚はそう言うと隣に座っている成の牛カルビ弁当のカルビを一枚奪い取り、代わりに自分の牛タンを成の弁当にヒョイと一枚置いた。成はいちいち怒るのも面倒なので無視することにした。そして、渚が神戸牛タン弁当にするか牛カルビ弁当にするかで随分迷っていたことを思い出した。
「キオさん、なんで昼飯にサラダなんか食ってるんです?」
ケイトが不思議そうな顔でキオに訊いた。確かにキオの昼食は申し訳程度の鶏肉と卵が添えられたパスタサラダであった。体の大きなキオが手に持つと、そのサラダは兎の餌のように可愛らしいものに見える。その姿に、成は心の中で「デカいペンギンがサラダ食ってる」というタイトルを付けた。
「最近、胃がもたれるんだよ」
「歳ですね」
ケイトは「こうはなりたくない」という目付きでキオを見た。
「うるせえな、お前ももっと食べないとデカくなれないぞ」
ケイトは鯖の押し寿司を食べていた。
「あっ、酷い。背低いの気にしてるのに」
「二人とも小学生みたいな喧嘩しないでよ」
渚はそう言って成のカルビを美味しそうに平らげる。
「ところで、ミチコちゃんはお金の方は大丈夫?」
「はい、一週間分くらいなら大丈夫です」
「それは良かった。お財布ピンチになってきたら、私が何か奢ってあげるから」
「え、そんなの悪いですよ」
「いいのいいの。あ、すみません、ビール一本下さい!」
渚は車内販売の売り子を呼びとめた。
「もう飲むんですかい?」ケイトが呆れていた。
「別に良いじゃない。キオ君もお酒は飲むでしょう?」
キオに酒を勧めるその語り口はさながらキャバクラ嬢であった。業種が異なるとはいえ流石はプロだ。
結局ビールを二本買い、渚とキオは嬉しそうにプルタブを開けた。キオは新幹線で酒を飲む機会など滅多になかったのだろう、実に美味そうに飲んでいた。
「成君とケイト君も飲めばいいのにー」
「夜まで取っておくよ」
成は特に酒が好きなわけではないので、渚嬢の誘いを断った。
「私なんかこの前、ラーメン屋で未成年と間違われちゃってさー。学生なら学割効きますよ、だって。ハハハハハ」
もはや会話になっていなかった。こいつ早くも酔ってるんじゃないだろうな、と先が思いやられた。
その後、琵琶湖の近くにある米原駅で乗り換え、そこから更に新幹線で五十分程走ると福井駅に到着した。
ローカル線に乗り換えるために駅を出た途端、渚が叫んだ。
「成君、恐竜だよ!」
「ああ、恐竜だな」
駅前に巨大な恐竜のモニュメントが三体並んでいて、器用に首を動かし唸り声まで上げていた。なかなか出来がいい。
モニュメントは、ローカル線のホームとは福井駅を境に反対側の出口にあったが、ケイトが「あっちの方に面白い物がありますぜ」というから見に来たのだ。
「福井は恐竜が名物だったんですねー」ミチコが感心していた。
「化石が多く発掘されるとは聞いていたが、駅前にこんな物を作るなんてな」キオは苦笑いしていた。
「成君、恐竜博物館があるんだって」渚が目を輝かせて言った。
「行かないからな。移動で疲れたから早く温泉に入りたい」
「そんなぁ。どんなことであっても、見聞を広めることに損はないよ。それが将来の君を形作るんだよ」
どうして今になって恐竜の知識を深めなければならないのかと成は首を捻った。
「それじゃあ、多数決を取ろう。恐竜博物館に行きたい人」
成が提案すると渚が勢い良く手を上げた。続いて、ミチコがおずおずと手を上げた。恐竜を見に行くのに女二人が賛成で男三人が反対という、珍しい結果となった。恐竜に興味がなさそうな女子高生のミチコは、きっと渚に気を遣って手を上げたのだろう。
「それじゃあ、この話はなかったということで」成はピシャリと言った。
「うぅ。さようなら、フクイサウルス……」
「いい加減、恐竜博物館の呪縛から解放されろ」
成に引っ張られ、渚は恐竜達とお別れをした。成達はローカル線のホームへ向かった。
ローカル線の窓口で三国港駅までの切符を買い、ホームで電車を待った。早朝や夜間を除けばきっかり三十分置きに電車が発車するダイヤとなっているが、運良く五分程待ったところで電車に乗れた。二両の車両であったが、成達の他にも学校帰りと思われる高校生達がそれなりに乗っていた。
電車が発車してからしばらく経つと、市街地を抜けて田園地帯へ入った。「問一、田園地帯を思い浮かべてください」と聞かれたら、十人中十人が思い描くような田園地帯であった。乗客の数ももうまばらになっている。
もうすぐ日が沈む時間で、空に浮かぶオレンジ色が今日という日に別れを告げていた。西日が窓から射し込み、車内に柔らかな陰影が造られる。そんな光景は、幼い頃に夕暮れ時まで外で遊んでいた時の情景を思い出させた。
自分にもそういう時代があったと思う、と成は久々に少年時代を思い出した。同時に、随分遠く離れたところまで来てしまったとも思った。距離としても、時間としても、人間としても。
長旅で疲れたのか、それともこの景色に何か想いを馳せているのか、一行は皆無言になっていた。
俺達はこれから自殺をしに行く。夕焼け空の下で無邪気に遊んでいた少年少女が自らの命を散らせるのだ。その先に何があるのかは分からないけれど。
その後、三国駅を過ぎると次の駅が終点の三国港駅であった。平日は無人駅で、駅舎が夏の夕闇の中で物寂しく佇んでいる。成達は添乗員に切符を手渡し、電車を降りた。
駅を出るとキオが予約した宿まで歩いて行った。その宿は見てくれはさほど綺麗とは言えないが、リーズナブルな価格で温泉と美味しい海鮮料理が楽しめるらしい。渚が代表者となり、男三人一部屋、女二人一部屋でチェックインし、部屋に各自の荷物を置いた。
「いやー、疲れましたねー」ケイトが畳の上に寝転がった。
「夕飯まで時間があるし、先に風呂に入りに行くか」
キオと連れ立って男衆は風呂へ繰り出した。
「よし、一番若いケイト、背中を流せ」
大浴場に入り風呂椅子に座ったキオが言った。キオが座ると、パスタサラダと同様に風呂椅子も小さく見えた。
「嫌ですよ、流すのは暗い過去だけにしてください」
ケイトは奥にある風呂椅子に座り、体を洗い始めた。ケイトが座ると風呂椅子は少し大きく見えた。
露天風呂はなかったが風呂は天然の三国温泉で、湯に浸かると自分の中で凝り固まっていたものが全て流れ出すような気分になった。
「温泉なんて久しぶりですよぉ」
肩まで湯に浸かりながらケイトが幸せそうに言った。
「ケイトは大学生だろ? サークルとかで旅行には行かないのか?」
顎まで湯に浸かった成が訊いた。
「そんな充実した人生だったら、こんなグループには参加しませんよ」
「そうなのか」
何と答えたら良いか分からず、成は適当に相槌を打った。ケイトとキオが渚と知り合った経緯が気になっていたが、話が長くなるかもしれないし、今はそういう気分でもない。
「成、お前は何かサークルとかやってたのか?」
キオが会話に入ってきた。
「大学の頃は卓球サークルに入ってましたけど」
「ああ、俺には敬語使わなくていいよ。さん付けもしなくていい。歳もそこまで違わないしな」
「そう……か?」成はおそるおそる訊いた。
「僕は敬語でいいですよ。僕はまだ、そちらのおっさんカテゴリーには分類されないんで」ケイトがニヤつきながら言った。
「好きにしろ。それにしても卓球かぁ、なんか地味だなぁ。彼女はいたのか?」
「彼女はバイト先でできた。一年くらいで別れたけど」
「ふーん、普通に青春を謳歌していたわけだ。ところで、渚かミチコだったらどっちが可愛いと思う?」
「へ?」
唐突に訊かれたのでまぬけな声を出してしまった。キオは真面目そう見えるのに意外と俗っぽい人なんだなと思った。
「そりゃあ、渚さんでしょ。あれはモテると思いますよ」成より先にケイトが答えた。
「いや、ミチコももう少し成長すれば結構いけるかもしれないぞ。ぐへへ」キオは真顔で下衆な台詞を言う。
「あーキオさん、ロリコンだったんですか。頼むから死んでください」
「ロリコンではないぞ、ロリコンでは。それで、成はどっちだ?」
成は言葉を詰まらせた。答えは渚に決まっていたが、それを口にするのは気恥ずかしかった。
「まあ、同じくらいじゃないか」
「同じくらいって何だよ」
自分でもそう思った。
「あぁ、女風呂も見たいなー」
キオがそう言うと、渚と風俗店で会った時のことを思い出した。渚の声と体を思い出した。渚も全裸になって成の体を洗っていた。キオとケイトはそんなこと予想だにしないだろうし、口が裂けても言えないのだけれど。
一風呂浴びた後、浴衣に着替えた成達一行は食事用の和室に案内された。
「それでは、私達の出会いを祝して乾杯!」
渚の音頭で乾杯をし、小宴が始まった。ミチコは烏龍茶を飲み、他の者はビールを飲んだ。
「渚さん、越前蟹の味はどうですか?」
蟹を頬張る渚にミチコが訊いた。
「まるで蟹の断末魔が口の中に広がるようだよ」
美味しいのか美味しくないのか、よく分からない感想だった。
一同は三国の郷土料理を堪能し、最後には渚がカラオケで男性ロックバンドの曲を歌って小宴は幕を閉じた。
夕食を済ませた後女性陣が男衆の部屋にやって来て、明日の予定を話したり適当な雑談をしたりしながら過ごした。女性陣が眠くなって自分達の部屋へ戻って行ったところでお開きとなり、男衆も眠ることにした。
成は横になりながらこの旅について考えてみた。今日は誰も自殺とか死ぬとか、そういうことは一切口に出していない。まるで普通の旅行だ。成にはそれが不自然なことのように思えた。
初日だからこんなものなのか。それとも皆、本当は死ぬことを恐れているのだろうか。もしかしたら、この旅で自殺するのは俺だけなのかもしれない。でもまあ、人生の最期にこんな旅をするのも確かに悪くはないな。
成はそんな風に思いながら、眠りの世界への階段を下りていった。
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