第26話 僕が

 二日目の晩である。川畑は再び桐谷のベッドを使わせて貰いながら、申し訳ない気分になっていた。せっかく解放してくれると言っているのだから、自分がとっとと帰っていれば、桐谷はこのベッドで眠れただろうに。

 だが、川畑がもしもこの家を出たら彼はどうするのだろう、それを考えると、彼女は桐谷を一人残して行くのが恐ろしかった。彼が自ら命を絶ってしまうような気がしてならなかったのだ。

 死なれてしまうくらいなら、寝袋で寝て貰った方が余程いい。川畑は自分に言い聞かせてベッドに入ってみたものの、別の事も少し気になっていた。


 まるまる二日間入浴していない。こんな汚い状態で、他人様の寝具を借りることに抵抗が無いと言ったら嘘になる。

 彼女も後半とは言え、一応二十代のうら若き乙女である。風呂にも入らず歯磨きもできず、二日間も過ごすなど、入院でもしていない限り体験できない。

 さすがにメイクしたまま眠るわけにもいかないので、一日目の晩は顔を洗わせてもらった。しかしクレンジングクリームが桐谷の家にあるわけがない。単なる石鹸でメイクは落としきれていないだろう。肌に残ったファンデーションで吹き出物ができなければいいが……などと、思考回路はそれなりに年頃の女の子である。


 もちろん桐谷に風呂を勧められなかったわけではない。覗かれるとか、そういった心配はほぼゼロに等しかったが、風呂に入った後にもう一度同じ下着をつけるのがどうにも嫌だった。言い訳するようにもごもごとそれを桐谷に話すと、彼は笑いながら「気づいてやれなくて済まなかったね、明日は下だけでもどこかで買って来るよ」と言ってくれた。

 何から何まで世話になって、自分は何をやっているのか。島崎も吉井も心配しているだろう。早く全てを吐かせて自首させなくてはならない。

 そんなことを考えていると、ベッドの下から桐谷がボソリと言った。


「警察が全てを解き明かしたら、僕は警察に出頭しようと思う」

「全てって……何をです?」

「僕の過去をだよ。あの刑事さんがパズルを完成させてくれそうな気がするんだ」


 思わずベッドの上から下に身を乗り出しそうになって、慌てて寝返りを打ったふりをする。ここでこんなに反応したらバレてしまう。


「刑事さんに会ってるんですか?」

「昨日、すぐそこで会ってね。少し話を聞かれたよ。今日も買い物帰りに彼と会った。彼ならきっと葬り去られた過去を白日の下に晒してくれるだろう。確か、島崎さんと言ったな」


 島崎君! 昨日のうちにもうここまで来ていたの?

 島崎の顔を思い出すだけで、何故か息が苦しくなる。一日ちょっと顔を見ていないだけなのに、どうしてこんなに会いたいと思うのだろうか。


 いつもちょっと強引に迫って来るくせに、ここぞという時に必ず脳天気なカルメンに邪魔される、あの漫画みたいな間の悪さ。何が「続きはまた今度な」よ。続きがあった試しなんか無いじゃない。バカ。


「君にも随分不自由な想いをさせているしね」

「葬り去られた過去ってなんですか。父も関係してるんですよね。もしも、その島崎さんが過去を掘り起こしたとしても、裁かれるのは桐谷さんだけじゃないんですか」

「そうだね。法で裁かれるのは僕だけだろう。あの時裁かれるべきは四人の男だったんだけどね」


 四人? 罪を償わなければならないのは中橋と桐谷だけではないということか。とすると、残りは阿久津と男Xということになる。


「そのうちの二人は社会的にその地位を失った。僕がそう仕向けたんだよ。もう一人が中橋君だ。だが、彼は社会的地位に価値を見出していない。彼にとって価値があるのはアールヌーヴォーと一人娘の君だけだ。だから僕は君を誘拐した。彼はもう十分制裁を受けたよ。あとは僕が罪を償うだけだ」

「社会的に地位を失うって、一体何をしたんですか」


 さすがに川畑もベッドの上から身を乗り出した。今を逃したら話してくれないかもしれない。


「簡単なことだよ。彼らは悪戯が過ぎたんだ。僕はそれを暴露した。それだけの事なんだ」

「彼らって誰なんですか。何を暴露したんですか」

「サークルの仲間さ。大学の登山サークルの男四人だ」


 相変わらず桐谷はのんびりと穏やかな口調を崩さない。川畑としては心臓を吐き出してしまいそうなほど動揺しているというのに。


「トレッキング仲間が桐谷さんと父だったんですよね。後の二人はアウトドア仲間でしたっけ」

「そう。一人は大手建設会社で経理部長をしていた。真面目にやっていればいいものを、会社の金に手を付けた。もう一人は議員だ。事務所に出入りする女性たちに性的な嫌がらせを繰り返した。何もしなければ、暴露されることもなかっただろうに。身から出た錆だな」


 性的な嫌がらせをした議員? まさか男Xは西川なのでは?


「どうやって暴露したんですか」


 その時、暗闇の中で桐谷がフッと笑ったのを川畑は感じ取った。

 まずい、勘づかれたか。

 川畑は心臓の音が桐谷に聞こえてしまうのではないかと慌てて身を引いた。


「ごっ、ごめんなさい! 父の事も関係してるし、私、その、すみません」

「いや、いいんだ。そうだよね、お父さんの事なのにこんな酷い言い方しているのは僕の方だ。嫌な思いをさせて済まなかったね」

「とんでもないです、私が聞いたから。言いたくないことまで言わせてしまったかもしれません、ごめんなさい」

「僕が……」


 そこまで言って、桐谷は口を噤んだ。重苦しい沈黙が六畳の部屋を満たしていた。静かな部屋に外のコオロギの声が割り込んでくるのすら、川畑にはありがたく感じた。


「僕が誰かに話したかったのかもしれない。僕自身が君に話を聞いて欲しかったのかもしれない。だから君が『帰らない』と言っているのをこんなに歓迎しているのかもしれない」


 セーフか。勘付かれたわけではなさそうだ。

 だとして、何を聞いて欲しいのか。何を話したいと思っているのか。川畑と桐谷の思惑は一致している。あとは彼が口を開くだけだ。


「お願い。話してください。私も聞きたいんです」


 川畑の素直な気持ちだった。彼女は既に警察官という枠を超えて、一人の人間としてその全てを知りたかった。


「僕の婚約者はね、事故死ではなかったんだ」


 なんですって?

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