第9話 川畑志織

 痛い……まだ背中が痺れている。ここはどこなんだろう――。

 川畑は手足の自由の効かない体で、芋虫のように体をくねらせた。だが、まだ体に残る痛みが抜け切れていない。

 あれはスタンガンだ、と彼女は確信した。過去にやられたことがあるからだが、そう何度も体験したい代物ではない。


 チョコの散歩をしている時に、還暦くらいのおじさんに道を尋ねられた。スマートフォンに表示された地図の中の場所に向かっているが、同じところばかりをグルグル回って一向に辿り着かない、もし知っていたら教えて欲しい、と。

 犬の散歩をしていながら「この辺りはわかりません」と言うわけにも行かず、とりあえず地図だけでもとスマートフォンを覗いた瞬間にやられた。

 こんな格好をしているから深沢のお嬢様だと思われたのだろうか。それで誘拐されて身代金というパターンだろうか。そうだとすれば相当運の無い人だろう。


 自分のいる場所を見回すと、どうやら男の一人暮らしのようだ。先ほどのおじさんの家だろうか。見た感じ女性の影は全く見えないが、最小限の物に囲まれて質素な生活をしているのが見て取れる。

 家具も食器棚というよりは茶棚と呼ぶ方が似つかわしいようなサイズのそれと、小さな箪笥たんす、それらに比べて極端に大きな本棚、四角い卓袱台ちゃぶだいがある程度だ。


 間取りも六畳二間だろうか、他には風呂やトイレらしきドアが見える。居間に使っている部屋の方には卓袱台と食器棚と本棚が、寝室に使っているであろうこの部屋にはベッドと箪笥が置いてある。

 どちらの部屋もきちんと片付いていて、家主が綺麗好きで几帳面な事が伺える。

 見た感じでは、身代金を必要とするほど生活に困窮している印象はない。綺麗に整った生活空間を見る限り、心が荒んでいる人間の部屋ではないことがわかる。


 そして一応親切のつもりだろうか、川畑は長座布団の上に転がされていた。一応その辺りは気を使ってくれているようだ。

 必要なものがきちんと揃っている。生活にも困っていない。何故お嬢様を誘拐する必要があるのか、さっぱりわからない。


 さて、どうしたものか――と思っていると、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。家主が戻って来たのだろう。家に入って来た男性は川畑を見て、なぜか申し訳なさそうな表情を見せた。「申し訳ないと思うなら、せめてこの口元の粘着テープだけでも剥がしてよ、痛くないようにね!」と心の中で喚くが、この男が超能力者でもない限り念じたところで無駄だろう。

 彼は川畑の側に膝をつくと、彼女の顔を覗き込んだ。


「済まないね。大声を出さないと約束してくれたら、この口のテープは剥がすけど、約束してくれるかな?」


 優しい話し方。学校の先生のような口調だ。心の声が届いたか、と川畑は静かに頷いた。


「君は随分と落ち着いているね。もっと怯えているかと思ったよ。なるべく痛くないように剥がすから、じっとしていてね」


 彼は宣言通り、静かに丁寧に剥がしてくれた。


「済まないね。苦しかっただろう。君に恨みはないんだがね。君、名前は?」

「答えたくありません」


 川畑は内心ブスっとしてはいたが、一応少しだけ『怯えてはいるが気丈に振舞っているお嬢様』を演出してみた。


「では君を何と呼んだらいいかな?」


 なんなんだこのおじさんは。全く危害を加える気はないようだが、会話をする気はあるらしい。


志織しおりです」

「シオリさんか、君に良く似合う名前だ」


 あの辺に自分と同じ名前のお嬢様がいたらどうしようかと少々不安にならなくもないが、ついうっかり名乗ってしまったものは仕方ない。川畑と言わなかっただけまだマシか。


 年の頃は還暦前後、頭はゴマ塩だが禿げてはいない。中橋に負けず劣らずの中肉中背だが、彼のようにオドオドとした感じはなく年相応の落ち着きを感じさせる。不思議なくらい相手を安心させる話し方、柔らかな物腰、一体何者なのだろうか。


「どうしてこんなことするんですか」


 川畑は静かに尋ねた。高級住宅街の御令嬢があまり堂々としているのは変だろうか、少し怯えた素振りでも見せた方がいいだろうかとも思ったが、どうせそのようなメッキはすぐに剥がれる。


「君のお父さんにね、少し用事があるんだよ」

「父……? ですか」


 ここでようやく川畑は自分が詩穂里と勘違いされていることに気付いた。つまり、この人が犯人で、『最も価値のあるもの』とは中橋の娘である詩穂里のことだったのだ。


 まずい、自分の本名を名乗ってしまった。でも『志織』と『詩穂里』、字は全く似ていないが音の響きは似ている。なんとか誤魔化せるかもしれない。ここは詩穂里に成りすまして、彼から話を聞きだした方が得策のような気さえしてきた。――今から私は『川畑志織』ではなく『中橋詩穂里』――。


「父に一体どんな用事なんですか」

「シオリさんは、お父さんのことが好きかい?」

「え?」


 想定外の切り返しだ。この回答によってはその先が決まってしまう、最初の難関と言っていいだろう。なんとしてもこの話を次に繋げなくてはならない。


「好きと言えば好き、嫌いと言えば嫌いです。娘なんてみんな多かれ少なかれそんなものです」


 どう来るか。川畑は祈るような気持ちで彼の反応を待った。


「まあ、そうだね。年頃の女の子はみんなそう言う」


 セーフか。彼は何と言って欲しかったのだろうか。

 しかし、『年頃の女の子』が『みんなそう言う』ことを彼は何故知っているのか。彼にも娘がいるのだろうか。

 そんなことを推理している川畑に、彼は思いがけない方向から斬り込んできた。


「君のお父さんにはね、自分の罪を償って欲しかったんだよ」

「罪?」


「そう」と、彼はゆっくりと話し始めた。


「償う事はもうできないだろう。だからせめて、自分の罪を忘れて欲しくなかった。墓場まで持っていく秘密にするほどに、罪の意識を忘れないで欲しかったんだよ。その為に僕もこうして罪を犯している」


 彼はそこで一旦切ると、遠い過去を見るように言葉を継いだ。


「いずれにせよ僕も一生背負って行く罪があって、そこからはどうやっても逃れられないんだ。だからこうしてシオリさんのお父さんにも、きちんと自分の罪に向き合って欲しいんだよ」


 彼の罪とはなんなのか。中橋の罪とは。この男も中橋も、背負うべき罪があるようには見えない。


「もう少しだけ付き合って貰いたいんだ。後ろ手では不自由だろうから、前にしよう。少し大人しくしていてくれるかな」


 彼はそう言ってオモチャの手錠を一旦外し、川畑の手を体の前で拘束し直した。脚はそのままだが、少しは動きやすい。逃げることは不可能だと考えると、このまま彼と打ち解けて話を聞き出した方が得策だろう。


「コーヒー、飲むかい? インスタントだけど」

「いただきます。ブラックで」


 川畑は腹を括った。

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