第32話 フランシスコ・デ・ゴヤ

「済まないね、洗濯までして貰って」

「いえ、私の方こそ勝手に居座ってるんですから。あの、申し訳ないとは思ったんですけど、そこの美術全集見せてもらいました。勝手にすみません」

「ああ、構わないよ。何か気に入ったものはあったかい?」

「一昨日仰ってたモネの『かささぎ』見つけました。一面雪景色なのになんだかあったかく感じて……不思議」

「だろう?」


 桐谷は優しい目で川畑を見ると、ニッコリとほほ笑んだ。本当にモネが好きなのだろう。彼がモネの話をする時は表情が生き生きして見える。


「あとはフェルメールかな。フェルメールって青いターバンの女の子の絵が有名じゃないですか。私、フェルメールには興味が無かったから、その絵しか知らなかったんですけど、たくさんあってビックリしました。みんな窓際で何かをやってて、窓から射す光が絵に動きを与えてて、なんか凄く好きになっちゃいました」

「家ではフェルメールを見たことは無いのかい?」


 まずい、アートギャラリーでフェルメールを見たことが無いのは不自然か?


「わかりません、見てたのかも。でもほら、興味が無いと、見えていても背景の一部でしかないんですよね」

「確かにそうだね。今度フェルメール展をやる時によく見るといいよ」


 危ない。セーフだ。いつ墓穴を掘るかと、気が気ではない。


「どの作品がお好みだったかな?」

「私は『天文学者』と『地理学者』です!」


 川畑が元気に答えると、一瞬キョトンとした桐谷が一拍遅れて笑い出した。何かおかしなことを言っただろうか。


「なるほどね。シオリさんはああいう感じの男性が好みなんだ」

「えっ?」

「フェルメールの『地理学者』も『天文学者』もそっくりじゃないか。知的な男性が好きなんだね」

「え……ええ、はい、そうです」


 川畑の声がだんだん尻すぼみになって行く。実は川畑自身、たった今、それに気づいたのだ。


「シオリさんの片思い中の男性も、知的な人なのかな?」

「全然。正反対です! 地図が無くても、野生の勘だけで目的地に到着しちゃうような人です。全く、なんであんな人が気になるのか理解できないわ」

「でも、気になるんだね」


 だから困ってるのよ、と桐谷に八つ当たりしたくなってくる。


「ピカソの絵を見て『俺の落書きと変わらん』とか言い出すんだわ、きっと」


 川畑がそう言うと、桐谷は「絵に興味のない人なら誰だって同じ事を言うさ」と笑った。


「ピカソと言えば。スペインの画家で、フランシスコ・デ・ゴヤって知ってるかな? 『我が子を食らうサトゥルヌス』っていうのが有名なんだけど」

「うぅ、ごめんなさい」


 こんなにも無知な美術商の娘がいても大丈夫だろうか。そろそろ危険領域に突入しているのではなかろうか。

 だが、桐谷自身が全く気にしていないようだ。久しぶりの美術談義が楽しいのかもしれない。川畑としては生きた心地がしないのだが。


「宮廷画家だったんだけどね。これが面白いんだ」


 彼は美術書から一冊引っ張り出してきてテーブルの上に広げると、ぱらぱらとページをめくった。


「これね、『カルロス四世の家族』という作品なんだ。ここにはゴヤ本人が紛れ込んでいる」

「え? 本人?」

「そう。何故そんなことをしたと思う?」

「イタズラ……じゃないですよね」


 桐谷が「そうだね」とくすくす笑う。


「えええ? 何だろう。全然見当もつきませんけど」

「ヒントを上げよう。ゴヤはこの左の隅で、陰になっている男だよ」


 わざわざ陰にしてまで自分を描き足す理由……。イタズラじゃないならナルシスト? でもそうならこんな陰にしないはず。


「人数、数えてごらん」

「人数ですか?」


 一、二、三、四……十一、十二、十三、十四。


「十四人? あ! わかった! ゴヤを入れないと十三人なんですね」

「そう、よく気付いたね」


 川畑には一瞬、彼が先生に見えた。恐らく現役の頃はこんな感じだったのだろう。


「キリスト教で十三という数字はご法度ですもんね」

「十三では都合がよくないというんで、困ったゴヤはコッソリ自分を描き足したってわけだ」


 桐谷が楽しそうに笑い出した。その笑顔が、川畑には新鮮に映った。

 ――この人はこんなふうに笑う人だったのか。

 なるほど、十三人のままでは「誰がユダになるのか」と余計な問題を引き起こすトリガーになりかねない。それで自分をつけ足して回避した。それが宮廷画家としてのゴヤの気配りか。


「ユダはどこでも生まれるからね。家族の中でも、友人同士でも」


 川畑は頭から冷水を浴びせられたような気分になった。

 恐らく、桐谷は中橋のことを暗に言っているのだろう。だが、川畑自身、今自分がやっていることが島崎や吉井への裏切りにならないと、堂々と胸を張って言えるだろうか。

 桐谷の留守を狙って自分に声を掛けて来た島崎に対して、居留守を使ってまでこうしてここにいる事に、自分はどうやって言い訳をするのだろう。

 そして、こうして話している桐谷すら騙している。これが裏切りでなくて何なのか。


 もう一度、『カルロス四世の家族』に目を落とすと、絵の中のゴヤと目が合った。暗がりの中で、ゴヤが川畑に向かって「ユダはお前だ」と言っていた。

 川畑は慌てて目を反らした。が、その視線は彼女の頭から離れなかった。

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