第33話 風神雷神

 深沢はこんなところだったか。昨日一日来なかっただけで、別の土地のように感じる。綱島や篠崎と同じ住宅街のはずだが、明らかに高所得層のものとわかる瀟洒しょうしゃな建物が並んでいることに今更のように気付く。


 古い小さな民家が軒を連ねる篠崎。

 三階から五階建てくらいの賃貸マンションやアパートの間に、一軒家がぽつぽつと建っている綱島。

 さほど大きくはないものの緑を愛でる庭があり、隣家までのスペースと境界線がしっかりと取られている深沢。ここは駐車スペースすら屋外ではなく、鍵のついたガレージである。恐らく中には高級車が鎮座しているのだろう。

 そういえば中橋は運転免許を持っていなかった。あの家の車は蓉子と詩穂里が運転するのだろうか。


 中橋邸のインターフォンを押すと中橋本人が出て来た。展示会も中止になり、自分もあまり外出できないとあって、暇を持て余しているのだろう。

 娘を誘拐された父親ならもっと落ち着きがないだろうが、連れ去られたのが川畑だったせいか、初めて来た日よりもずっと落ち着いていた。もしもこれが詩穂里だったらどんな顔をしていただろうかと考えると、島崎は妙な苛立ちを覚えた。


 それにひきかえ詩穂里の方は、訪問者が島崎だとわかると泣き出さんばかりにすっ飛んできた。ずっと待っていたというだけあって、文字通り島崎の腕を引っ張ってクリムトの部屋に通すと、早速「川畑さんは?」と聞いてくる。川畑が解放されていれば当然連れてくるに決まっているじゃないかと思いつつも、詩穂里に八つ当たりしても仕方ない事もわかっているので、島崎としては黙って首を横に振るほかない。


 展示会初日に一度会ったきりの蓉子夫人が紅茶を淹れて持って来たところで、中橋が口を開いた。


「何かわかったんですか」

「ええ、いくつか。まず、桐谷さんが美術に造詣が深かった」

「え? そうでしたっけ?」


 やはりこの男は勝手にアールヌーヴォーを語っていて、桐谷の話など一つも聞いていなかったようだ。


「登山サークルの内藤きよみさんから聞いたんですよ。中橋さんのギャラリーのオープンを記念して同窓会が開かれましたよね。その時に中橋さんの美術談義に唯一桐谷さんだけがついて行っていたと仰ってました」


 暫く「同窓会?」と首を傾げていた中橋が、ようやく思い出したように「ああ!」と膝を打った。


「確かにありました。あの時桐谷さんは日本画が海外の画家に与えた影響についての話をしてたんだ。ほら、ジャポニズムってあったでしょう。モネの『ラ・ジャポネーズ』なんかはとても有名ですが、ゴッホも随分描いてます。『花魁』もそうだし、『タンギー爺さん』は背景にたくさんの浮世絵がある。そもそもゴッホは歌川広重の模写をいくつかやっていますし、モネは日本の蒔絵から重ね塗りのヒントを得ている。当時は歌川広重の使う藍色をヒロシゲブルーと言って――」


「お父さん!」


 島崎がどうやってこの人の話を中断させようかと悩んでいるのを感じ取ったのか、詩穂里がやや強い口調で割り込んだ。


「ごめんなさい、父はこういう話になるともう周りが見えなくなってしまって」

「いえ、当時の状況がなんとなくわかりました」


 これが島崎なりの精一杯のフォローだ。川畑なら気の利いた文句の一つもサラリと言うのだろうが、島崎にそれを求めるのは土台無理な話である。

 とは言え、彼の口から出て来た名前に、西川の『Me too』運動を最初に始めたダミーアカウントが混じっていたのも確かだ。モネやゴッホ、マネ、ゴーギャンなんてのもいた。絵を見てもどうせ島崎にはわからないのだが、彼でも名前くらいは知っている。


「すみません。つい」

「いや、いいんです。桐谷さんは日本画にも精通されてたんでしょうか」

「精通というか、彼はジャポニズムの頃の画家が好きでしたからね。先ほどもチラッと言いましたけど、モネは日本の蒔絵まきえから重ね塗りの技法を盗んでるんですよ。尾形おがた光琳こうりんとかあの辺ね。そういえば、ほら、風神雷神なんか最初に俵屋宗達たわらやそうたつが描いて、それを尾形光琳が模写、更に酒井抱一さかいほういつが描いてますよね。あれは面白い。光琳は宗達を完全コピーするくらいの勢いで精密に描いているにもかかわらず、宗達の風神雷神のようにお互い知らんぷりじゃないんですよ、風神と雷神が視線を合わせてるんです。なんかね、仲が良さそうでね。更に抱一になるとちょっと漫画っぽくさえある。フットワークの良さそうな風神雷神なんですね。更にその弟子の鈴木其一すずききいつが、酒井抱一の描いた風神雷神をお手本にして――」

「あなた……」


 今度は蓉子夫人が、大きな溜息と共に割り込んだ。完全に論点がズレたまま話が進み、収拾がつかなくなることを懸念したのだろう。詩穂里と蓉子の存在は島崎にとって非常にありがたかった。


「ああ、すみませんね、つい」

「桐谷さんも絵を描かれてたんでしょうかね」

「絵を描いていたという話は直接彼から聞いた事は無いんですが、描いてたと思いますよ。あの頃は彼が絵を描いていると勝手に思いこんでいて、むしろ疑ってさえいなかったので」

「何故そう思われるんですか?」


 ここで中橋は「うーん、なんでだろうな?」と考えこんでしまった。なんとなく、とかその類のものなのだろうか。


「あ、そうだ。鉛筆だ」


 鉛筆? また鉛筆?


「トレッキング組の三人で、次はどこへ行こうかという話をする時、いつも桐谷さんが筆箱から鉛筆を出してきてたんですよ。当時はシャーペンが流行り始めたころでみんながシャーペンを持っていたんですが、彼は頑として鉛筆派を通してたんです。一度筆箱をひっくり返してしまったことがあって一緒に拾うのを手伝ったんですが、4Bとか6Bとか……ああ、ダーマトグラフも出て来たな、肥後守ひごのかみも入ってましたね」

「ヒゴノカミ? なんですかそれは」

「ああ、刑事さんはお若い世代だからご存知ないのも無理はありません。ちょっと待ってください」


 中橋は暖炉の側のチェストの引き出しから、何か手のひらサイズの小さなものを出してきた。


「これです」


 手渡されたのは折り畳み式の小さなナイフだった。ナイフという感じではなく、むしろ小刀という形容の方が合っているだろう。


「これが美術とどういう関係が?」

「これで鉛筆を削るんですよ。絵描きは鉛筆削りってあまり使わないんです。自分の好みの削り方があるので。精密に描きたいときはピンピンに削りますし、そうでない時はわざと緩めに削ったりします」


 佐々木の証言と一致する。桐谷は大学時代から携帯用小刀で鉛筆を削り、高校教師になって美術の顧問になってからもずっとその習慣は変わらなかった。


「彼は高校の教師になったんですが、美術部の顧問になったらしいんですよ。これでやっとつながりました」

「どうして桐谷さんなんか調べてるんですか?」


 ここでようやく中橋が訝しむような目を島崎に向けて来た。


「その登山サークルの同窓会の日、つまりアートギャラリーナカハシのオープン祝賀会の日です。桐谷さんは途中で帰られましたよね、覚えていらっしゃいますか?」

「そうでしたかねぇ」

「教え子が万引きをして補導されたんです。それで担任だった桐谷さんがポケットベルで呼び出されたらしくて」


 中橋が「ポケットベル! 懐かしいですね」と笑う。笑い事じゃないんだ、あなたには思い出して貰わなければならないことがある、島崎は身を乗り出した。


「桐谷さんは、唯一信頼していたあなたに託して行ったことがあるんですが、覚えていらっしゃいますか?」

「ん? 何か託されましたかね?」

「恋人の宮脇恵美さんを家まで送り届けるように頼まれませんでしたか?」


 一瞬にして中橋の顔色が変わった。


 ――これは何か知っている顔だ!


「ああ、そうですね、頼まれました。送りましたよ」

「宮脇さんを?」

「え、ええ」


 ――何だ。何を知っている?


「どこまで送りましたか? 最寄駅ですか?」

「もちろん宮脇さんの家の玄関までです。一緒に帰りましたよ」


 ――目を逸らす理由はなんだ。


「二人でですか?」

「いや……阿久津さんと、西川さんと四人です」


 ――何故語尾が震える?


「三人が宮脇さん宅まで送ったのですか?」

「いや、その、途中まで四人で帰って、宮脇さんの家まで送ったのは私一人ですが」


 ――中橋が彼女を一人で送った。そこで何があった?


「その時、宮脇恵美さんに変わった様子はありませんでしたか?」


 ――何を隠している、言え!


 いきなり中橋が立ち上がった。


「なんなんですか刑事さん。急にそんな昔の事を蒸し返したりして。そんな大昔の事を私が覚えているわけがないでしょう」


 島崎は座ったまま、静かに中橋を見上げた。


「中橋さん。何をご存知なんです?」

「知らん。私は何も知らん、一切関係ない!」


 島崎は膝の上で手を組むと、ゆっくりと口を開いた。


「中橋さん、あなたは本当に正直な方だ。あなたほど嘘がつけない人を見たことがありません。『蒸し返す』という言葉は、関係者の自覚がある人しか口にしない言葉なんですよ」

「失敬な! もう用事が済んだのならお引き取りください、不愉快だ!」


 部屋を出て行こうとする中橋を、島崎は黙って見送った。引き留めても仕方がない、今は何も言わないだろう。

 そう思った時だった。詩穂里がドアの前に立ちはだかったのだ。


「お父さん。何を隠しているの? 川畑さんが連れ去られたことにお父さんが関係しているの? 川畑さんは私の代わりに連れて行かれたのよ、もしも誘拐されたのが私だったとしても、お父さんは関係ないって言えるの?」

「詩穂里、そこを退きなさい」


 中橋の肩に蓉子夫人が手をかけた。


「あなた、男なら自分の言動に責任を持ってください。何をしたの?」


 ゆっくりと振り返った中橋は小刻みに震えていた。その顔には恐怖の色が浮かんでいた。


「私は……私は何もしていない。本当だ、何もしていない」

「じゃあ、何があったの?」

「何もしていないんだ、何も、本当に」


 蓉子が「わかったわ、あなたは何もしていない」と言った時だった。彼がおかしなことを口走ったのだ。


「私は本当に何もしていないんだ。!」

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