第34話 殺意

 中橋邸に居た島崎に突如かかってきた吉井からの電話は、急いで宮脇邸へ行けというものだった。朝の置き土産が今頃になって功を奏したのだろうか、宮脇夫妻は島崎を指定して来たらしい。

 中橋の意味深な言葉を吉井に報告して、島崎は深沢から直接綱島へ向かった。


 時計は既に午後三時を回っている。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのだろうか。無我夢中になっていて気にも留めていなかったが、よくよく考えてみれば、朝の九時に綱島の宮脇邸に行ってから、江戸川区篠崎の桐谷家へ行き、小岩の内藤のところを訪問し、一旦署に戻って、それから世田谷区深沢の中橋邸へ行っている。それを考えれば、この時刻でこれだけ回っているのは、かなり動いている方かもしれない。


 川畑が連れ去られて既に三日目だ。

 桐谷のところにいるものだとばかり思っていたが、生憎その勘は外れたようだ。川畑は一体どこでどうしているのか、せめて彼女の無事だけでも確認したい。

 だが今回の犯人は、身代金も要求してこなければ、交換条件なども一切出してこない。たった一度、川畑の写真をメールで送りつけて来ただけだ。

 何がしたいのかさっぱりわからない。川畑を、いや、詩穂里をどうする気なのだろうか。何が目的なのだろうか。


 宮脇家に着くと、夫妻が申し訳なさそうに迎えてくれた。

 あの懐かしい味の香ばしい麦茶を出し、島崎の方に扇風機を向けて、いつものように子リスの隣に小鳥がとまっているかのように静かに座っていた。

 なかなか口を開かない宮脇夫妻に痺れを切らし、「何か思い出されましたか?」と促した。彼の問いに、宮脇はゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


「島崎さん。娘が桐谷君に残した手紙。あれをあなたはどうお考えですか」


 ――そう来るか。随分と遠回しに仕掛けて来たな。そういうことなら、こちらはストレートに行くしかない。それしか彼らに本当のことを話して貰う方法はないだろう。


「桐谷さんにも手紙の事をお尋ねしました。彼は、恵美さんがラブレターを出し忘れたのだろうと言いました。ですが、私はそうは思いません。出す気があったのならカーペットの下になど入れるわけがない。かと言って最初から見せる気が無いのならそんなものは書かない。書いてからやはり見せずにおこうと決めたなら、その時に捨ててしまうはずです。恵美さんは『時間が経ってから読んで欲しい手紙』を書いたんだ。そして彼女の思惑通り、あなたが今頃になってそれを発見し、桐谷さんの手に渡った。私はそう思っているんです」


 二人はどちらも言葉を発しなかった。静寂に支配された部屋の中で、麦茶の氷がカランと音を立てて揺れた。

 暫くして夫人の方が静かに夫の肘に触れた。


「お父さん」


 彼は夫人の方をチラリと見やると、小さく頷いてから島崎の方に向き直った。

 一つ深く息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。何かを決心した顔だった。


「刑事さん。私たちは嘘は言いませんでした。嘘だけは言いたくなかったんです。だから、自分たちと恵美を守るために、わざと伏せたことがあります。全てを語ったわけではないんです」


 島崎は静かに頷いた。


「ええ、気付いていました」

「そうでしょうね。気づかれていたから、もうこれ以上は隠し通せないと思った。それをお話しようと思って、来ていただいたんです。隠していて申し訳ありません」

「いえ、よく話す決心をしていただきました。ありがとうございます」

「どこで気づかれましたか」


 言い出しにくいのか、宮脇はなかなか本題に入ろうとしない。島崎も無理に聞き出そうとはせずに、彼を待つことにした。


「朝、私が『手紙をご覧になりましたか』と聞いた時です。あなたは読んだとも読まなかったとも言わなかった。上手く手紙の封の話に論点を差し替えたんです」

「朝の時点でお気づきだったんですね。我々が話すのを待ってくださった」


 宮脇がうなだれるのを見て、「お嬢さんが……」と横から夫人が遠慮がちに割って入った。


「中橋さんのお嬢さんが誘拐されたと伺って、もう、矢も楯もたまらなくて」


 あの一言が相当効いたらしい。年頃の娘を持つ親の気持ちは、そう変わるものではないということか。

 再びご主人の方が口を開く。


「あの手紙……桐谷君への手紙なんですが。確かに封がしてありました。ですが、朝言ったようにセロハンテープだったんです。三十五年経ったセロハンテープがどうなるかご存知ですか。セロハンは劣化して柔軟性のない薄い板になり、糊の部分は結晶化して粉になる。飴色のボロボロしたものが辛うじて張り付いている状態でした。持ち上げただけで、ペリッと音を立てて剥がれ……封はしたけれども封ができていない状態でした。それが桐谷君への手紙であって我々に宛てたものではないということは宛名でわかりました。住所も何も書いておらず、ただ『桐谷武彦様』とだけ書いてあったのです。それを我々が読んでいいものかどうか、二人で相談しました」


 それは一つ一つ噛みしめるように、ゆっくりと語られた。島崎にはそれが宮脇の懺悔に聞こえた。桐谷への懺悔なのか、娘への懺悔なのか、そこまでは彼には判断がつかなかった。


「私たちは誘惑に勝てませんでした。娘が残したであろう最後の手紙です、もしもきちんと糊付けしてあったなら、そのまま桐谷君へ渡すことができたでしょう。でも、封は開いていたんです。見るなという方が無理だ。そして、見たことを後悔しました。私たちは見るべきではなかったのです」


 何が書かれていたのか、島崎ははやる気持ちをグッとこらえて、宮脇の話の続きを待った。

 もう外の虫の声すらも耳に入っていなかった。ひたすらに彼の言葉を待ち、からからに乾いた喉を麦茶で潤す事すら忘れていた。


「それは……とても直視できる代物ではありませんでした。知らない方が幸せだったのか、知るべきだったのか、それは私たちには判断がつきません。ですが、少なくとも私は彼らに対して

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