第36話 宮脇恵美

 桐谷は川畑と食事をとりながら、何度も「美味しい」を連呼した。手作りの食事を温かいうちに食べるのがこんなに幸せなのだということを、川畑が来るまで暫く忘れていたと言って喜んだ。


「僕が彼女と送ることができなかった時間を、君と十分送らせて貰ったよ。もう思い残すことは何もない」


 川畑は慌てた。桐谷は死ぬ気なのだろうか。


「そんな言い方やめてくださいよ。もう死んじゃうみたいじゃないですか。私は桐谷さんと出会えて本当に良かったと思っているんですから。今では誘拐してくれたことに感謝してます」

「ありがとう、シオリさん。僕も誘拐した相手が君で良かったよ。もう茄子の焼き浸しは食べられないと思っていたからね。だが、それももう終わりだ。僕は今夜これから自首することに決めたよ」


 川畑は一瞬なんと返したらいいのかわからなかった。もちろん、彼が自首するように時間をかけて話を聞いたのは自分だ、だが、彼との生活で彼の事をもっと知りたくなっていた。事の顛末を全て聞きたかったのだ。


「そうですか……じゃあ、私も一緒に警察に行きます。私の意志で一緒にいた事、証言します。それくらいはいいでしょ? それに私も一緒に行ったらきっと父が迎えに来てくれます」


 最後の一言に桐谷がクスッと笑った。


「そうだね。中橋君がきっと迎えに来てくれる」


 ――島崎君が来てくれたら一番いいんだけどね。


「それに……桐谷さんと父は、顔を合わせた方がいいと思うんです。言葉を交わさなくても、会えば何か伝わると思うから」

「君は本当に中橋君と親子とは思えないね。もっと早く会っていたら、こんな事はしなかったかもしれない」


 笑顔を見せる桐谷に、川畑の良心が痛んだ。彼が本当のことを知ったらどうするだろう。


「私ももっともっといろいろ作れば良かった。もっと桐谷さんにあったかいご飯食べさせてあげたかったです」

「その気持ちだけで嬉しいよ」


 買って来たばかりのトマトにナス、ピーマン。彼は私に何を作って欲しかったのだろうか、と川畑は考える。聞けば良かった。彼の食べたいものを作ってあげれば良かった。


「自首する前に聞かせて貰えませんか。彼女がどんな人だったか」


 桐谷は箸を止めると、昔を懐かしむように口元に笑みを浮かべた。


「もの静かでね。そのくせ芯があって、しっかり者だった。料理上手で努力家で。シオリさんに本当によく似ていた。君と一緒にいる時間、彼女と一緒にいるようで楽しかったよ」

「もの静かじゃないですけどね」

「ははは、今の時代ならシオリさんくらいがちょうどいいさ」


 ひとしきり笑ったところで、彼は唐突に語り始めた。何の予告もなかった。


「彼女の命日には、毎年あの家に行ったんだ。綱島の彼女の家に。お線香をあげて、ご両親と話をして。一昨年三十三回忌でね。法要の後、ご両親は老い支度を始めたんだ。今で言う終活というやつだね。自分たちの身の回りの必要なものだけ残して、徹底的に断捨離してね。もちろん彼女の部屋も二人で片づけたらしい。米寿の老人が二人で……大変だったろうに。それでも、自分たちの死後、知らない人に娘の部屋を片付けられるのは嫌だったんだろう」


 ――そんなものなのだろうか。川畑は両親がまだ桐谷と同じくらいの年齢なので、今一つピンと来ない。


「ところが、彼女の部屋から思いがけないものが出てきたんだ」


 思いがけないもの?


「僕に宛てた彼女の手紙」


 川畑は言葉を失った。三十五年前に彼に宛てて書いた手紙が出てきたというのか。しかも今頃。


「出てきた場所が面白い。カーペットの下なんだ」

「えっ……カーペットの下ですか?」


 桐谷は静かに微笑んだ。


「そう。なんでそんなところに入れたんだと思う?」


 下手をすればずっと見つかることはないような場所である。出し忘れの可能性はゼロだ。かと言って、すぐに読んで欲しかったわけではなさそうだ。

 そうか。つまりこれはタイムカプセルだったんだ!


「わかったようだね。彼女は時間差で見つかるようにしたんだ。それもイチかバチかの賭けでね。僕にすぐに読んで欲しいのなら、見つかりやすい机の上に置くだろう。最後まで知らせる気が無いのなら、そもそもそんな手紙は残さない。書いた後で気が変わったのなら、その場で捨てるだろう。見つかるか見つからないかは運次第。見つかるとしても、いつ見つかるかはわからない」

「何故、見つからないかもしれないのに」

「見つからなければ僕が罪を犯すことも無いからだよ。時間が経ちすぎていれば時効になるからね。それによって僕が諦めるからだろう。彼女は恐らく見つからない方に賭けていた」


 時効? 桐谷が罪を犯す? ……一体何があったのか?


「彼女はね、山で死んだんだ。沢に滑落してね。顔に傷一つつけずに」


 確かにそう言っていた。神の慈悲だと。


「何故顔に傷一つつかなかったと思う? 僕は神の慈悲だと信じていたよ。つい先月までね。ところがそうではなかった」


 彼は視線を上げると、真っ直ぐに川畑を見た。


「自分の意志で落ちたからだよ。彼女の死は事故じゃない。自殺なんだ」

「自殺?」


 それなら何故、桐谷は中橋と阿久津と恐らく西川であろう男Xに罪を償わせる? 何故、自分も罪を償わなければならないなどと言う? 桐谷を含めた四人が、彼女を自殺に追い込んだというのか?


「夕食が終わったら、一緒に警察に行ってくれるかな。その前に君に見せよう、彼女の手紙を。見たくなければ見なくていい、遺書なんて読んでいてそんなに楽しいものではないからね」

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