第37話 遺書

 あなたがこの手紙を手にする時、私はもう死んでいるでしょう。それが明日なのか十年後なのか私にはわからないし、もしかしたらこの手紙はずっと日の目を見ることは無いのかもしれません。


 私はこの手紙を書き終えたら山に行くつもりです。そこで私は死ぬでしょう。私の死が単なる事故によるものでは無いことの証として、これを残して行きます。


 ちゃんと書ける自信が無いんです。頭の中が、こんがらがっているの。

 おかしいよね。

 順番がおかしかったり、変な言葉になっていても許してね。


 武彦さん。

 あなたの事が大好きです。

 とても尊敬しています。

 あなたに出会えたことは、私の一生の財産です。

 あなたと夫婦になる日を指折り数えた日々は、

 私にとって最も幸せな日々でした。

 あなたという人に選んでもらったことが、私の何よりの誇りです。


 こんなことを書くのは、なんだか恥ずかしいね。

 面と向かってなかなか言えないことも、こうして手紙にすると言えちゃうのね。


 あなたがこの手紙を手にする時、何歳になっているのかしら。

 もうお父さんかな。お爺ちゃんになっているかしら。まだ独身かな。

 もしも、奥さんがいて、子供がいて、今がとても幸せならば、この先は読まずに捨ててください。できれば燃やしてしまった方がいいでしょう。



 ここまで読んでいるということは、今が幸せでは無いのかしら。


 あの日、登山サークルの同窓会の日です。あなたは学校を通じて警察に呼び出された。覚えていますか。受け持っているクラスの子が、万引きで補導されたって。

 心配だったでしょうね。

 私はあなたが帰ってしまってとても寂しかったけれど、生徒を大切にするあなたがとても誇らしかったの。

 きっと私たちの子供が生まれたら、あなたは子供を大切にするお父さんになるんだろうって、そう思うだけで幸せでした。


 武彦さんが帰ったら中橋君の話を理解できる人がいなくて、すっかり盛り下がってしまったの。だってみんな武彦さんと中橋君のやりとりを面白がって聞いていたんだもの。

 あれから少ししてお開きになりました。

 木立さんは市川で、内藤さんは小岩、二人は千葉方面だから一緒に帰ったの。

 私は中橋君が送ってくれると言っていたんだけれど、阿久津君も西川君も同じ方向だから、四人で一緒に帰りました。


 阿久津君と西川君はいつもキャンプ組の方だったからそんなに話したこともなかったけど、帰りの電車では武彦さんの話で盛り上がっていたの。中橋君の美術談義について行けるのは凄いって。中橋君はあなたの事を「彼は絵描きなんだから当然だ」って言うの。そんな話、したこともないのにね。

 電車の中のお喋りは楽しかった。楽しくて、阿久津君が「飲み足りないね」って言いだしたの。西川君がちょうどご両親が海外に行っていて不在だから、うちで飲もうって言いだして、中橋君も一緒に飲むことになりました。

 私はそこで失礼しようと思ったんだけれど、田園調布の駅で彼らが電車を降りるときに、私も降ろされてしまいました。

「男三人じゃつまらないから」というので、一時間だけという約束で西川君のところへ行きました。中橋君も一時間経ったら一緒に帰ると言ってくれたので、安心してついて行きました。


 これから先に書く事は、あなたにとっても衝撃があるでしょう。

 先に言っておかなければならないんだけれど、こんな人たちのために復讐など考えないでください。あなたの人生を棒に振って欲しくない。

 それなら書かなければいいと思うでしょう。でも私は、婚約までしたあなたを一人置き去りにして、自分だけが逃げようとしているのです。

 それによって、あなたが自分に原因があったのではと自分を責めたりすることの無いように、これを残したいのです。


 私は最後の最後まで武彦さんを愛していました。

 それだけは疑って欲しくないのです。


 続きです。そのあと私は少しお酒を飲んで、何故か猛烈に眠くなりました。

 何かおかしい、と思いました。

 西川君が「もう効いて来たの?」と言いました。私は何のことかわからず、ただ、朦朧とする意識と戦っていました。

 中橋君が「何をした?」と聞いて、西川君は「ただの睡眠薬だよ」と答えました。

 私はソファに寝かされて、中橋君の「それは良くない、やめよう」という声を聞きました。中橋君は阿久津君に殴られて、その後はよくわからないんだけれど。

 気が付いた時には、私は何も身に着けていない状態で寝ていました。頭がガンガンして、体中が痛くて、何がなんだかよくわからなかった。

 阿久津君と西川君はそこに居なくて、中橋君が背中を向けて座っていました。

 なんとなく、何があったのか想像がつきました。

 中橋君は口の端に血を滲ませていました。

 そして「帰ろう」と言いました。

 私は急いで服を着て、西川君の家を出ました。

 中橋君が「何もできなくてごめん」と言いました。その一言で、中橋君はそれには参加しなかったけれど、黙って見ていたのだということがわかりました。

 私は彼に顔を見られたくなくて、ついて来ないで欲しいと言いましたが、中橋君は少し距離を取って家までついて来ました。私が部屋に入って窓から覗くと、彼が帰って行くのが見えました。

 中橋君が私を家まで送ったのも、自責の念から来るものでしょう。それは自己満足にすぎない。

 私はもう武彦さんには会えないのだから。


 私は彼らを許さない。

 阿久津君と西川君は死んでも許さない。

 何かの度に、私を思い出して良心の呵責に苛まれるがいい。

 中橋君も同罪。彼はただ見ていたんです。私が二人に弄ばれるのを、黙って見ていたんです。 


 私の死は、事故として扱われるでしょう。

 でも彼らはそれが事故ではなく、私の自殺であることに気付くはずです。

 こうして私が死ぬことで、彼らは一生心の中に刺さって抜けない棘を持つことになる。

 彼ら自身、死ぬまでこの小さな棘に苦しめばいい。


 ごめんね。

 あなたと一緒にこれからの人生を過ごしたかった。

 おばあちゃんになるまで、いいえ、おばあちゃんになっても、ずっとずっとあなたと一緒にいたかった。

 春は一緒に縁側で庭の桜を眺めて

 夏は一緒によく冷えた麦茶を飲んで

 秋は一緒に枯葉の道を散歩して

 冬は一緒に炬燵こたつでみかんを食べて

 あなたはきっとみかんを剥いている私の前で、いつものように肥後守で鉛筆を削るんでしょうね。

 そんな当たり前の幸せを、私は一人で捨ててしまうのです。あなたに相談もせずに。


 綺麗な体で死にたかったから、三日もかかってしまったの。

 あの人達の痕跡なんか、絶対に残してやらない。


 明日は両親がこちらに戻って来ます。

 それまでに私は山へ行かなくてはならない。

 最後に電話であなたの声が聴けて良かった。


 武彦さん、お元気で。

 私の分も幸せになってください。

 肉体が滅びても私の魂はあなたを愛し続けます。

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