第38話 肥後守

「もういいんですか」

「ああ、ありがとう。シオリさんのお陰で納得がいくまで片付けられた」


 川畑は不思議な気分で桐谷の横顔を眺めていた。これがこれから警察に出頭しようという男の顔なのか。

 そもそもそんな状況に出くわすことなどないし、桐谷という人間が特別変わっているのかもしれない。それにしても、彼の落ち着き払った表情とその行動に、川畑は違和感とまでは言わないものの、少なからず驚きを覚えた。


 彼は暫く家に戻らないことを考えて、綺麗に部屋を掃除し、洗濯物を畳み、ガスの元栓を閉め、電気のブレーカーを落として、戸締りをきちんと確認したのである。

 まるで実家に長期の帰省をするのか、海外旅行にでも行くかのような徹底の仕方だ。何事も中途半端が許せない性格なのだろう。簿記の先生ならではの几帳面さ故のことなのかもしれないが。


 真夏とは言え、夜も八時半ともなると完全に陽は落ちて外は真っ暗になる。昼間聞こえていた子供たちの声や蝉時雨せみしぐれは、既にコオロギの鳴き声に取って代わられている。


 川畑は戸締りを終えた桐谷と一緒に外へ出た。三日ぶりの外の空気である。こうして靴を履くのも三日ぶりだと思うと、なんとも感慨深い。

 街灯はこんな色だっただろうか。そこに集まる小さな羽虫や蛾の類さえ懐かしく感じてしまう。


「ここ、どこなんですか?」


 ふと、彼女はずっと気になっていた疑問を口にした。


「江戸川区。都営新宿線の篠崎駅が最寄だよ」


 篠崎。川畑には位置関係が全くわからない。だが、江戸川区というくらいだから、千葉との境目辺りなのだろう。いくら川畑と言えど、それくらいの知識は持ち合わせている。島崎なら「ああ、あそこね」とすぐにわかるのだろう。


「市川の少し手前だよ」


 何も言っていないのに読まれている。この人は変に勘の鋭いところがあるな、と川畑は警戒する。やっとここまで来たのにバレたりしたら、これまでの事が水泡に帰すことになるだろう。


「髪がゴワゴワだね。今晩はお風呂でゆっくり洗うといい。我が家では入浴して貰えなかったからね」

「ほんと、ひどい頭」


 川畑はくすくすと笑うと、ゴムを外して髪を下ろした。まとめ直そうと思っても、髪が絡まって上手くいかない。これが片付いたら、新しいバレッタを買おう。今度は何色にしようかな。赤はもう子供っぽいか。次はシルバーにしようか。大人っぽいシンプルなデザインにしようかな。


 自分はこうして次に買うバレッタの事を考えている。隣にいる男は、生きる希望を失い、それでもなお三十五年真面目に生きて来て、そして復讐を果たしてこれからは前科がつくのだろう。その格差になんとも言えない居心地の悪さを感じた。

 この人が一体何をしたというのだろうか。根っからの善人ではないか。世の中あまりにも理不尽な事が多い。


 あの手紙を読み終えた時、彼は言った。「恥ずかしながら僕たちはかなり奥手でね。婚約していたのにもかかわらず、手を握ることさえできなかったんだ」と。

 そんな彼女が友人だと思っていた人の手にかけられたなど、察するに余りある。


 桐谷の罪は『彼女を守れなかったこと』。それが果たして罪と言えようか。

 そもそも阿久津も西川も、桐谷に関係なく墓穴を掘っていたのだ。中橋への復讐さえ考えなければ、桐谷はこれまで通り穏やかに生活できていただろうに。何もせずに黙って見ていた中橋が、どうしても許せなかったのだろうか。

 トレッキング仲間として、美術仲間としての信頼が裏切られたのが、ショックだったというのもあるだろう。あの日、桐谷は中橋に恵美さんを任せたのだから。


 自分のしたことを忘れてはならない三人が、平和な生活の中で自らの罪を忘れてのうのうと暮らしているのが許せなかった、というのはわからなくもない。

 あの時の恵美さんのように、桐谷自身がこうして警察沙汰を起こすことによって、中橋にあの事件を思い出させ、忘れることの無いように『棘』を刺し直したのだろうか。だとすれば、こんな悲しい事件があるだろうか。

 とかく人間は、喉元を過ぎれば熱さなどアッサリ忘れてしまう生き物だ。自分に直接の害が無ければ、だが。


「シオリさん」


 ふと、コオロギの声を破って、桐谷が声を掛けて来た。


「今、誰に一番会いたい?」

「え……」


 アイロンのかかっていないヨレヨレのシャツ。ボサボサの頭に無精髭。

 勝負どころでいつも間が悪く脳天気に鳴り響くカルメン。


 ――川畑さん、こんなところにいたの?――


 一人で迷子になって泣いているところにフラッと現れて、「この地図、逆さだよ」って笑った彼。あれからもう十年近く経つのか。


「そうか、片思いの彼だね。きっといい男なんだろうなぁ。君のような人を夢中にさせるんだからね」


 その時、まさにその男の声が響いたのだ。


「川畑さん!」


 ――まさか!


「島崎君! どうしてここへ?」


 そこまで言った瞬間、川畑は自らの失敗に気付いて血の気が引くのを感じた。

 

 恐る恐る振り返ると、桐谷の遠い眼差しと視線がぶつかった。


「君はシオリさんじゃなかったのかい?」


 穏やかなその口調が川畑の心臓をキリキリと締め上げて行く。


「いえ、シオリです。川畑志織と言います。ごめんなさい。私は中橋さんの娘ではありません。捜査一課の刑事です」

「そうだったのか……済まなかったね」


 哀し気な笑顔を見せた桐谷が静かに俯くと同時に、島崎の声が飛んできた。


「川畑さん」

「島崎君、来ないで!」


 彼女は島崎を制止した。


「お願い、桐谷さんは、自分で出頭したいと言っているの。お願いだから、そうさせて」

「や、でも」

「島崎君、お願い」


 島崎が何も言えずにいると、桐谷が胸ポケットから例の手紙を出した。


「シオリさん。これは君に渡しておこう。どうせ警察で提出しなければならないと思っていたんだ、君に託すよ。島崎さんもパズルのピースはほぼ揃っているんだろう?」

「ええ、あとはその手紙だけです」


 島崎が静かに答えると、桐谷は何かに気付いたように「あっ」と言った。


「そうか。なるほど。シオリさんがさっき頭に浮かべたのは彼だったんだね」

「え?」

「確かに彼はいい男だ。仲良くね」

「桐谷さん?」


 桐谷はズボンの右ポケットに手を入れた。何かの音がカチリと鳴った。


「なんだろうね、やっと全てが終わってスッキリしたよ。これで恵美のところへ行ける。ありがとう、シオリさん。とても楽しかったよ」


 桐谷は右手をポケットから出すと、それを首筋に持って行った。


「桐谷さん!」


 島崎が咄嗟に飛び出す。だがそれよりも早く、川畑が桐谷の右手を蹴り上げていた。

 桐谷の手を離れた何かが宙を舞った。それは月の光を反射して辺りに輝きをまき散らしながら、金属音を立ててアスファルトに落下した。


「肥後守……」


 島崎が静かにそれを拾い上げ、勢いで倒れた桐谷に手を貸した。


「桐谷さん。これ、絵描きの大切な道具なんでしょう? こんなことに使っちゃダメだ。肥後守は鉛筆を削りたがってる」

「そうですね」


 桐谷は静かに涙を流した。

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