第39話 カルメン

 桐谷を署へ送り届けて一段落ついたところで、島崎は川畑を家まで送るように吉井に命じられた。

 吉井もそれなりに気を使ってくれたのだろう。川畑だけでなく、島崎にも、だ。

 まあ尤も、島崎としては「本来なら川畑は吉井に送って欲しいんだろうな」などと派手に勘違いしたままなのではあるが。


 車の助手席で、川畑はぼんやりとしたままで何も話そうとしない。余程疲れたのか、それとも桐谷と何かあったのか。


「済まなかったね……」

「ん?」

「桐谷さんの口癖。いつも二言目には『済まなかったね』って言ってたわ」


 島崎はどう反応したらいいのかわからず、黙って車を操った。


「ねえ、島崎君」

「ん?」

「少しは心配してくれた?」

「川畑さんなら大丈夫だと信じてたよ」


 はぁ、と助手席から溜息が漏れる。


「そんな事聞いてない」

「ん?」


 川畑の機嫌が悪い。


 ――あ、そうか、あれか。三日間風呂に入って無くてイラついてんのか。


「久しぶりに風呂に入れるな」

「もう、バカ!」


 ――あれ? 何か地雷踏んだだろうか。ちょっと黙っていた方がいいかな、たった三日で扱いにくくなってるな。


「月が綺麗ね」

「へ? ああ、そうだな」


 ――ああ、そうか。ずっと家の中にいて、外に出ること自体が久しぶりなんだもんな。月もろくに見なかったのか。


「ねえ、島崎君って本当に天然なの? わざとやってるの?」

「え? 何? なんか俺変な事言ったか?」

「もういいわ。なんでもない」


 怒らせてしまったようだ。

 迂闊に声を掛けるとますます苛つかせてしまいそうで、島崎は黙ったまま川畑のマンションまで車を走らせた。


 到着すると、川畑が「もちろん上がって行くんでしょ?」と言った。

 怒っていたわけではなさそうだ。吉井が待っているだろうとも思ったが、ここで「帰る」と言ったらまた何か地雷を踏みそうな予感がしたので、島崎は大人しく上がって行くことにした。

 エレベーターに乗り込むと、川畑が再び「ねえ」と言い出した。


「少しは心配してくれたの?」


 ――ん? また同じ質問?


「だから。川畑さんなら大丈夫だって……」

「心配しなかったのね?」

「いや、もちろんしたよ」

「うそ」

「ほんとだって」

「じゃあ――」


 川畑がいきなり島崎の正面に立った。彼女も背は高い方ではあるが、それでも島崎よりは十五センチほど下に顔がある。


「心配したって言ってくれたらいいじゃないの」

「ああ、もちろん心配したさ。ほら、ついたぞ」


 島崎が彼女の肩を掴んで体をくるりと反対に向ける。エレベーターのドアがちょうど開いて、廊下が「いらっしゃいませ」と呼んでいるように見える。


「もう、本当は心配なんかしなかったくせに」

「したってば」


 島崎は彼女の肩を抱くと無理やり部屋に向かって歩き出す。そうでもしないとエレベーターホールで延々と文句を言われそうだ。


「じゃあ、最初からそう言ってくれたらいいのよ。あんなに必死だったくせに」

「え? 何が? 誰が必死だって?」

「桐谷さんちに来たとき『志織』って呼んだじゃない」

「なんだよ、居たんじゃねえか。返事しろよ」

「できるわけないでしょ。桐谷さんが帰ってくるかもしれないじゃないの」


 なんだか『桐谷さん』という響きが癇に障った。

 ――なんだよ、俺を呼ぶときと違って、随分言い方が優しいじゃないか。


「いいから早く鍵開けろよ」

「何よ、急に機嫌悪くなっちゃって」

「そんな事ないよ」


 鍵を開けると、川畑は「入って」と島崎を促す。


「疲れてるんじゃないのか?」

「疲れてるわよ」

「俺、帰ろうか」

「疲れてるから居て欲しいんじゃないのよ」


 ――訳わかんねえよ。


「適当に座って」


 ――言われなくてもそうするよ。


「シャワー浴びて来いよ。俺に遠慮しなくていいぞ」

「大丈夫、遠慮する気なんか無いから」


 ――なんだそりゃ。


「ねえ、なんで志織って呼んだの?」

「は? いや、そうすれば返事しそうだったから」

「それだけ?」

「うん。そうだけど」


 川畑の動きが止まる。じーっと島崎を見て「このニブチン」とボソリと呟くと、バスタオルと着替えを引っ掴んだ。


「シャワー浴びてくる!」

「誘ってんの?」

「そんなわけないでしょ!」

「待てよ」


 島崎は川畑の手首を掴んで引き寄せると、そのまま抱きしめた。


「何やってんのよ」

「三日間風呂に入ってない女の匂い嗅いでる」

「そういう趣味あったの?」

「チェリーブロッサムの香り、残ってないな」

「当たり前でしょ、頭おかしいんじゃな――」


 最後の「い」は島崎の口に吸い込まれた。

 彼女の閉じた瞼から、涙が一筋流れ落ちた。


「死ぬほど心配したよ」

「うん」

「心配で心配で、毎日たったの三食プラスおやつしか喉を通らなかった、夜も眠れなくて昼寝したぜ」

「何よそれ」

「早くシャワー浴びて来いよ。この前の続きこれからどうよ?」


 その時。

 島崎のポケットから脳天気なカルメンが自己主張してきた。


「マジかよ……」

「早く出てあげなさいよ」


 ――クスクス笑う川畑が眩しいぜ。畜生。


「はい、島崎。……ああ、吉井さんですか。……えぇ、えぇ、お楽しみのところ大変ご迷惑ですよ。……は? 了解、急行します」


 電話を切ると、島崎はもう一度川畑を抱きしめた。


「早く行きなさいよ。急行するんでしょ」

「これ、やる。使え」


 島崎はポケットから小さな袋を出してきて川畑の手に握らせると「じゃあな、戸締りちゃんとしろよ!」と言って出て行った。


「なんなのよ、もう」


 川畑が袋を逆さにすると、中から金属光沢のある細長い物体がするりと手の中に落ちて来た。


 ――えっ? 肥後守?


 細くてシンプルなシルバーのバレッタだった。

 カードも何も添えずに、そのまま。

 島崎らしいそのプレゼントの渡し方に、川畑から苦笑が漏れた。


「もう、ほんと困った人ね」


 彼女はそれをドレッサーの前に置くと、シャワールームへと向かった。



                                    (了)

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三十五年目のラブレター 如月芳美 @kisaragi_yoshimi

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