第13話 鉛筆

 川畑は桐谷と向かい合って、サンドイッチを食べていた。手錠も外され、完全に自由の身である。一般的な誘拐犯と被害者の姿からかけ離れすぎていて、川畑はなんだか笑いがこみ上げてくる。


「どうしたんだい? 何かおかしいかな?」

「だって、桐谷さんは私を誘拐したんですよ。私たちが向かい合ってこうしてお昼食べてるなんて、普通に考えたらおかしいでしょ」

「それもそうだね」


 桐谷はクスリと笑った。彼の笑顔は穏やかで、人を安心させる。この人が償いきれないような罪を負っているようには見えない。中橋もそんなふうには見えないが、彼の場合はこの人と違って気が小さくて悪い事に手が染められないタイプだろう。


「あの……父と何があったんですか。最近まで友達だと思っていたんですよね。何を見つけたんですか」


 桐谷の笑顔が一瞬曇った。


「コーヒー、もう一杯どうだい?」

「いただきます」


 狭い六畳二間の家ではキッチンと言ってもすぐ目の前だ。背中を向けた桐谷が慣れた手つきでやかんを火にかける。

 今ここで背後から取り押さえてしまえば簡単だが、川畑はそれをしたくなかった。そうしてしまう事で、彼が彼と中橋の『罪』について永遠に口を閉ざしてしまうような気がしたからだ。


「こんなことの為にシオリさんを巻き込んだのは済まないと思ってる。僕と中橋君の事なのにね」

「そんなことはどうでもいいんです。桐谷さんの人生をメチャクチャにしたようなことがあって、それに父が関与していたんですよね。それなら父はその罪を償わなくてはいけないと思うんです。だから教えて欲しいんです」


 川畑は長期戦になりそうな気がしていた。これは数日間泊まらなくてはならないか。追い出されたら最後だ。なるべく短期で決着をつけなくては。


「私を誘拐したことで、あなただけが悪者にされてしまう、それじゃ父はその罪を思い出す事すらないかもしれません。そうなったらこんなことをした意味が無くなっちゃうじゃないですか」


 桐谷は何も言わない。何を考えているのか、背中からはその表情は伺い知れない。


「もちろん私は父が償わなくてはならないような罪を犯すような人間とは思いませんけど、どんな疑いがかけられているのか知りたいんです。人を殺したとか、そんなことじゃないんでしょう? それなら――」

「君は、人の心が死んだとき、その人は死んだものと思うかい?」

「え?」

「心の死んでしまった人間は、生きていると言えるだろうか」

「心……ですか?」

「そう。誰かの心を殺したら、それは殺人になるだろうか」

「それは――」


 そこまで言って、何も言えないことに川畑は気づいた。この人は心を殺された人なのか。それならば何故こんなに穏やかな表情をしているのだろうか。

 部屋の中に居心地の悪い静寂が訪れた。


「つき合わせて済まなかったね。それを食べたら家まで送ろう」

「私を開放してどうする気ですか?」

「どうするかなぁ」


 まさか、最悪の場合死ぬ気では……。


「待って。お願いします、教えてください。桐谷さんの口から私の知らない父の事をもっと聞きたいんです。私が自分の意志でここに居たいと言ってるんだから、誘拐にはなりませんよ」

「え、いや、帰っていいんだよ」


 初めて桐谷が驚きの表情を見せた。何を言っても落ち着き払っていた桐谷だが、これは想定していなかったのだろう。


「私、桐谷さんと父の間に何があったのか教えて貰うまで帰りません」

「いや、でも……」

「私がいると邪魔ですか?」

「そういうわけじゃ――」

「帰れって言っても帰りませんから!」


 しまいには桐谷の方が根負けしたように笑い出した。


「コーヒーが入ったよ。もう一杯飲むんだろう?」

「あっ、はい、いただきます」


 彼はマグカップにコーヒーを注ぐと、自分も川畑の前に腰を落ち着けた。


「本当に中橋君のお嬢さんとは思えないね。彼は何というか、自分で決定することが苦手だった。君のように交渉するなんてできない人だったよ」


 そうだろう。それは恐らく今でも変わっていない。川畑は中橋の娘のふりをしている事に僅かな罪悪感を覚えた。


「なかなか自分の意見を言う事のできない男でね、いつも誰かの決定に従っていた。自分が決めなければならないことも、最終的には誰かに背中を押して貰わないと一歩が踏み出せない。今もそうかな?」

「割と……そうかもしれません」


 川畑は自分の持つ中橋のイメージで答えた。これまでの彼を見ていると、それは大学時代から変わらないのだろうと思えた。実際、彼の頭の中は芸術のことばかりで、経営は詩穂里に任せていると言っていた。


「桐谷さんも芸術学部だったんですか」

「いや、教育学部。先生になりたかったんだ」


 桐谷はそう言うと、机の引き出しから鉛筆と折り畳み式の小刀を出してきた。何を始めるのだろうかと興味津々で見つめる川畑の前で、彼は鉛筆を削り始めた。


「先生になられたんですか」

「ああ、商業高校の先生だけどね」


 なるほど、それでか。人を大きく包み込むような、穏やかな物腰。優しい目。心に響く話し方。川畑は今更ながら全てに合点がいった。


「この春に退職したよ。還暦になったからね」

「何を教えてらしたんですか」

「簿記」


 これは詩穂里がギャラリーの経営を任されていることは何が何でも隠し通さないといけない。川畑は簿記の簿の字も知らないのだ。


「教育学部って簿記やります?」

「やらないよ。当時付き合っていた女の子が経済学部でね。簿記の資格が欲しいと言って勉強をしてたんだ。それを横から覗いていて、面白そうだなってね。僕の方が先に二級を取ってしまって、随分文句を言われたなぁ」


 なんといい顔で笑うのだろうか。その女の子が彼の『最愛の女性』なのだろうか。


「彼女とは登山サークルで知り合ったんだ。当時は僕と他に男が二人、野郎ばかりで華が無いところに一つ下の学年の女の子が二人入って来た。ところが僕以外の四人はトレッキングよりもキャンプやバーベキューが好きみたいでね、ただ山を歩くだけということに生産性を見出せなかったんだろうね。そこに中橋君が入って来たんだ。中橋君は遊び人ではなかった。単に山から眺める景色が好きだと言ってね、あの頃から芸術家肌だった」


 確か詩穂里は阿久津が中橋の大学時代のサークル仲間だと言っていた。ということは、桐谷と阿久津ともう一人の男性Ⅹの三人が初期メンバー。そこに後輩の女性が二人入って来て、桐谷以外の四人は意気投合。桐谷が一人になったところに中橋が入って来たということか。


「四人とは別行動で、いつも僕と中橋君は一緒に山歩きを楽しんでたんだ。そこに一人女性が入って来た。それが僕に簿記を教えてくれた人」

「教育学部と経済学部と芸術学部の出会いですね」

「そうだね」


 桐谷は綺麗に削り終わった鉛筆を置くと、静かにコーヒーを啜った。


「すぐに僕は彼女と意気投合してね。同じ学年だったこともあるだろう、中橋君は一学年下だったせいか、彼女を恋愛対象としては見ていなかった」


 だんだん核心に迫ってきている。川畑は手応えを感じ始めた。


「僕は彼女との結婚を考えるようになった。彼女もそうだった。だけどお互い、自分の可能性を試したくもあった。それで、大学を卒業してある程度仕事をして、それでも二人の気持ちが動かなければ結婚しようと。僕たちはプラン通り大学を出て、彼女は一般企業に勤め、僕は学校の先生になり……婚約して、彼女の家に挨拶に行って、結婚式の相談を進めている途中、幸せの絶頂で――」


 ここで桐谷の言葉は止まった。川畑は息を詰めて続きを待った。


「つまらない話を聞かせてしまったね」


 彼は二本目の鉛筆を削り始めた。

 川畑にはこれ以上聞かせてくれということはできなかった。

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