第19話 マスター

 綱島を出て篠崎に着くころには、太陽が真上に登っていた。昨日から世田谷区と江戸川区を何度行ったり来たりしたことか。増して今日は横浜からである。警察官が如何に体力勝負かわかるというものだ。

 桐谷に会う前に軽くエネルギーをチャージしておこうと思った島崎は、昨日桐谷に連れて行かれた喫茶店に入った。もしかしたらあのマスターから何か聞けるかもしれない。


 島崎が店のドアを押し開けると、カランコロンというカウベルの音とともに「いらっしゃいませ」の声が聞こえる。真っ直ぐ彼の方に向かってカウンターに陣取ると、マスターが「今日も来てくださったんですね」と声を掛けてくる。

 島崎は今日もクラブハウスサンドとコーヒーを注文すると、何気ない調子でカウンター越しに話しかけた。


「マスターは桐谷さんとは長いんですか?」

「ええ、桐谷先生は高校時代の恩師なんですよ」

「船橋商業高校ですか」

「そうです。ここの店を開く時も相談に乗ってくださってねぇ。お客さんは桐谷先生とはどちらで?」


 話しながらもマスターの手は卵を焼いている。その横ではオイルパンの中でシューストリングポテトが踊っているのが見える。


「ここで。昨日初めてお会いしたんです」

「そうだったんですか。先生、いい方でしょう? 在学中から怒った顔なんか見た事ないほど穏やかで。生徒を叱る時も頭ごなしに叱るんじゃなくてね、必ず生徒の話を聞いてくれるんですよ。その上で一つずつ納得がいくまできちんと説明してくれるんです。桐谷先生だけは悪く言う人を見たこと無いですね」


 万人に好かれる先生。そんな事があるものだろうか。生徒たちは『作りものの桐谷武彦』を見せられていたのではないか。だが、そうだとして三十年以上もの間、身近な人々を騙し通せるものでもない。人間必ずどこかでボロが出る。

 内藤きよみは何と言っていたか。確か、中橋の事を「存在感の薄い人」と言い、桐谷の事は「真面目な人」と言っていた。昨日初めて会った時の島崎の印象とほぼ同じ、人間の性格はそうそう変わるものではないということだろうか。

 とすると、桐谷が怪しいという見立ては間違っているのか。


「お客さん、今日も桐谷先生のところへいらしたんですか?」


 島崎の思考はマスターの世間話に寸断された。


「ああ、ええ、そうです」

「昨日初めてってことは、お仕事関連?」


 いっそ自分の立場を明かして協力して貰った方がいいかと踏んだ島崎は、自ら名乗ることにした。


「ええ。私は刑事なんですが、ちょっとした事件がありまして」


 ちょっとそんな予感はしていたが、やはりマスターは表情を強張らせた。


「先生が何か?」

「そうじゃないんですよ。桐谷さんに関係のあった方が何人か被害に遭われていたので、桐谷さんに捜査の協力をお願いしていたんです。桐谷さんも今後狙われる可能性があるので」

「先生も狙われているんですか?」

「犯人の目的がわからない状況なので、まだその辺りを探っている段階ですが、桐谷さんが狙われているという可能性は否定できません」


 流石にここまで桐谷に心酔している人を相手に、彼を疑っているとは言えず、島崎は微妙に言葉を濁した。実際、桐谷を疑っているのは島崎だけであり、その根拠も『勘』などという極めて現実味の無いオカルティックなものなのだ、言えるわけがない。


「桐谷さんが誰かに恨まれるなんて、考えられませんよねぇ」

「尊敬されることがあっても、恨まれることはないでしょうね、先生に限って」


 喋りながらも鮮やかな手さばきでクラブハウスサンドができて行く。全粒粉のパンで、たまご、ベーコン、レタス、トマト、チーズをガッツリ挟み、グリーンオリーブの実と一緒にピックで留めたそれは、揚げたてシューストリングポテトと同時に出来上がり、アイスコーヒーと共に目の前に差し出された。


「お見事ですね。お喋りしながらでも、全部同時に仕上がるように時間配分ができている」

「いやあ、ここまでできるようになるまでは失敗の連続で。桐谷先生にはよく失敗作に付き合っていただいたんですよ。コーヒーがすっかり冷めるころにクラブハウスサンドができたりね、ポテトが揚がるころにはサンドの方が冷えていたり。それでも先生は『失敗は成功の母だよ』って笑ってくれるんですよ」


 聞けば聞くほどいい先生だ。そんな人が三人の人間に怪文書を送り付け、年頃の娘を誘拐するだろうか。仮に阿久津と西川への手紙が別人だとしても、中橋へあの手紙を出した人間は川畑を詩穂里と勘違いして誘拐している。

 犯人の目的は一体なんなんだ。阿久津と西川は最も価値のあるものとして、その地位を奪われた。中橋は娘を奪われた。だが、その娘をどうする気なのか。

 殺す気ならとっくに殺しているだろう、拘束して生かしておくのは一体何が狙いなのか。

 それとも……娘すら単なる囮で、最も価値のあるものは別のものなのか。


「そういえば先月も卒業生の相談に乗ってあげてましたね、この店で」


 ぼんやりと考え込んでいた島崎は、マスターの一言で我に返った。


「どんな相談でしょうね」

「その人は女性なんですけど私の元クラスメイトでして、こっちの方に来たからってついでに立ち寄ってくれたんですよ。その時近況報告なんかお互いにしましてね。彼女、上司にセクハラされて困っているって後輩の女の子に相談されたらしいんですよ。彼女自身も同じ上司にセクハラされていたらしいんですけどね、後輩の女の子の方は無理やりホテルに連れ込まれて必死で逃げて来たらしくてね。他にも被害に遭っている人がたくさんいるけど、彼女ではどうにもできないって話になったんですよ」

「なるほど、それで?」

「『Me too』運動ってあったじゃないですか。あれやったらどうかと」


 『Me too』……セクハラを受けた女性たちがSNSで『自分も被害者である』と声を上げる運動である。訴訟を起こすほどの証拠が個人で集められなくても、同じような被害にあった人が集まって声を上げることで、セクハラ被害を告発できる。


「本気でやるなら言葉には責任が伴うから、自分の実名顔写真付きで。ただ、自分にもリスクはあるし、本気で戦う気が無いのならやめておけって」

「で、どうしたんです?」


 島崎はクラブハウスサンドを頬張りながら聞いた。


「彼女、SNSで発信しましてね。そうしたら『私も』と言う人が次々に現れて、結局その上司は、強制猥褻で捕まっちゃったんですよ」

「そうだったんですか。大変でしたね」

「そりゃもう大騒ぎになりましたからね。今でもワイドショーの目玉じゃないですか。都議会議員の西川修」

「えっ?」


 島崎はクラブハウスサンドを喉に詰まらせた。

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