第6話 中橋詩穂里

「いよいよ明日ね」

「なんか張り切ってる?」

「当たり前じゃない。私が担当になったからには絶対にとっ捕まえてみせるわ」


 エコール・ド・パリの展示会前日。会場となるアートギャラリーナカハシでの警備の説明が一通り終わり、川畑と島崎は中橋邸へと場所を変えていた。先日の応接室で中橋を待つ間、この部屋の間取りや設備を確認しておく必要がある。


「部屋の出入り口はこの扉だけ。あとは庭に面したこの大きな窓か」

「ちゃんと日光が当たらない場所にクリムトを飾っているのね。紫外線は大敵だものね」

「紫外線、関係あるのか?」

「そりゃあるわよ。絵具だって紫外線で退色するのよ。このクリムトを飾るくらいの人だもの、自分の命が狙われていたとしても、防弾ガラスよりUVカットガラスを優先するでしょうね」

「へ~え、そんなもんかね」


 芸術家の考えることはさっぱり理解できないな、などと島崎が心の中で毒づいているところへ、ノックの音がして詩穂里が入って来た。


「すみません、父がまだギャラリーの方で捕まっていて。私で良ければわかる限りのことはご協力できますから。さっきポルボローネ焼いたんです、お口に合うかどうかわかりませんけど、よろしければ」


 そう言って、彼女は二人の前に紅茶のカップを置いた。エインズレイのティーカップにダージリンがふわりと香り、小ぶりのキャンディポットの中で丸い焼き菓子がコロンと転がる。


「うわぁ、いい匂い。詩穂里さんが焼いたんですか、これ」

「ええ。はじめて焼いたので。一応毒見はしておきました」


 詩穂里が冗談交じりに言うと、川畑もクスッと笑う。


「ポルボローネって、たしかスペインでは幸せを呼ぶお菓子って言われてたんじゃなかったかしら」

「川畑さん、よくご存知なんですね」


 島崎はポルボローネと言う名前すら初めて聞いたのだが、川畑は流石にその辺りは知っているようだ。


「あ、美味しい! これ、お店に出せるわよ。実はお菓子職人か何か?」

「ありがとうございます、趣味で作ってるだけなんですけど、お口に合ったようで良かったです」


 川畑はもうすっかり詩穂里とも打ち解けている。どうなっているのかわからないが、彼女のこの驚異的な能力は島崎には存在しないものだ。


「早速なんですけど、この部屋、警備会社に繋がってるんですよね。その他に、大型犬を飼っているとかそういうのはあるのかしら」


 確かに中橋の家族は妻と娘一人、それに犬だった筈だ。それにしても毎回川畑は島崎にとって想定外のところから崩しにかかる。外堀から埋めるつもりか。

 詩穂里は「犬は飼ってるけど」と言ってクスッと笑った。「ん?」と首を傾げる川畑に笑顔を向けたまま、彼女は部屋の扉を少しだけ開けて「チョコ!」と短く呼ぶ。暫くしてミニチュアダックスが部屋に入って来た。


「この子だけです。番犬にはちょっと心許ないんですけど」


 確かに番犬と言うよりは愛玩犬だろう。詩穂里の膝の上で大人しくしている。


「チョコちゃんていうのね。確かにチョコレートみたいな色」

「刑事さんたち、犬は大丈夫ですか? アレルギーとかありませんか?」


 へぇ、なかなかに細かい気配りのできる人だな、と島崎は感心する。もしかすると家族に何かのアレルギーを持つ人がいるのだろうか。


「私たちは平気。可愛い子ね。ちょっと抱かせて貰ってもいいかしら。チョコちゃんが嫌がらなければ」


 川畑が犬に手を伸ばすと、特に暴れる様子もなく彼女の手の中に納まる。大人しい良い子だ。確かに番犬には向いていないかもしれない。


「ええっ? 嘘みたい。割と人見知りする子で、いつもは知らない人のことは嫌がるんですよ。でも川畑さんは大丈夫みたいです」

「ああ、それ多分……」


 島崎が久しぶりに口を開いたことに驚いたのか、詩穂里はハッと顔を上げた。


「詩穂里さんと川畑さんのフレグランスが同じだからじゃないかな」

「え? ほんと? 私はロクシタンのチェリーブロッサムよ?」

「私もです。島崎さん凄い!」

「島崎君がいれば警察犬要らないわね」

「俺、遂に犬扱いか。チョコ、仲よくしような」


 ひとしきり笑って完全に緊張感が無くなったところで、川畑は少しずつ核心に踏み込むことにした。


「ところで、お父様に最近変わったことは無かったかしら。誰かに恨まれるような事とか」


 詩穂里は「うーん」と唸って暫く考えていたが、首を傾げて「わかりません」と言った。どう見ても嘘をついている顔ではないし、心当たりがある様子でもない。


「前触れもなくいきなりこんな手紙が送りつけられてきて、父もかなり動揺してました。多分、父も全く心当たりが無いと思います」


 二人の刑事は「そうだろうな」と納得した。堂々と嘘がつけるタイプではない。中橋という男は明らかに顔に出るタイプだろう。初めて会った時もかなりオドオドと落ち着かなかった。

 気を取り直して、川畑が次の質問をする。


「このお部屋に通されるのはどんな人かしら」

「この部屋は商談に使うことが多いので、ほとんどがお客様です。絵画なら百万円未満であれば減価償却できるので経費で落とせるんですよ。耐用年数も八年と決まっているので、結構短いサイクルで来られるんです」

「もしかして、詩穂里さん、お父様の仕事を手伝ってるの?」

「ええ、父は美術に関してはそれなりの知識はあるんですが、それ以外はさっぱり覚える気が無くて。幸い私は経理やら何やらそっちの方が苦にならないタイプだったものですから」


 なるほどそういうことなら、このギャラリーの実質的な経営者は詩穂里ということになる。詩穂里なら『最も価値のあるもの』はこのギャラリーになるだろうが、父は根っからの美術人。そうなるとやはり彼にとって最も価値のあるものはクリムトということになるだろう。

 エコール・ド・パリ展は警察の目をくらますための囮、本命はここにあるクリムトと思っておいた方が良さそうだ。


「詩穂里さんは今回の狙いはどれだと思います?」

「うーん、そうですね……今回の顔ぶれならピカソでしょうか、一番いい値がつくと思います。次が……このモディリアーニか、こっちのフジタ」


 島崎は手早く展示番号をメモする。

 やはり詩穂里は金額で価値を判断するか。まぁ、そうだろう。彼女は美術畑ではなく経営畑だ。

 そこに詩穂里のスマートフォンが電話の着信を知らせる。


「すみません、父からです。出て構いませんか?」

「ええ、どうぞ」


 詩穂里は申し訳なさそうに二人から離れると、「刑事さんたちがお待ちよ、まだ来られないの?」とスマートフォンに向かって苦情を申し立てている。

 その彼女に聞こえないように、川畑が島崎に小声で話しかけてきた。


「どれが本命だと思う?」

「それ」


 島崎が壁のクリムトを顎で指すと、川畑も「そうよね」と肩を竦めた。どうやら二人の意見は一致したらしい。


「ごめんなさい、どうも搬入で手違いがあったようで。今日は戻るのが遅くなりそうなんです」


 電話を終えて申し訳なさそうに戻って来る詩穂里に、島崎が口を開いた。


「いや、中橋さんでなくても詩穂里さんが協力してくだされば全く問題ありません。むしろ詩穂里さんの方が話が早い。顧客一覧、見せていただけますか?」

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