第22話 茄子

「実はあんまりお料理得意じゃないんです」

「お家に家政婦さんが来てくれているのかな」


 危うく「仕事上コンビニのパンとかおにぎりが多くて」などと言ってしまうところだったが、自分は現在『深沢にお住いのお嬢様』だったのだ。桐谷がすかさず質問をしてくれたお陰で助かった。あまり自分の事は話せないな、と川畑は自粛を心に誓った。


「ええ、私も作ればいいんでしょうけど、ついつい上手な人がいると任せてしまって。花嫁修業しないと貰い手が無くなっちゃいますね」

「花嫁修業か」


 桐谷が遠い目をしてボソリと呟くのを見て、川畑は早速やらかしてしまったことに気付いた。


「あ……ごめんなさい。私、余計な事を」

「いいんだ、もう三十五年も昔の事だ。僕がいつまでも女々しくてね」


 気まずさを残したまま、小さなテーブルにできたての夕食を並べる。いつもはこの小さなテーブルで、この男は一人で食事をしていたのだろう。三十五年間ずっと。


「美味しそうだね、こんな手作り感は久しぶり過ぎて忘れてしまったよ」


 川畑的には「こんなものでいいのだろうか?」と首を傾げてしまうほど簡単なものだが、この家のキッチンの装備ではこの程度しか作れない。

 茄子の焼き浸し、ささみときゅうりの酢の物、それと中華風冷奴。どれもフライパンと小鍋一つずつあれば作れる代物だ。とにかくめんつゆがあったことが何よりもありがたかった。


 見た目だけなら、川畑が「私、料理できるかも!」と勘違いできるほど、十分美味しそうだ。

 キュウリの緑、冷奴の白、刻んで乗せたトマトの赤、茄子の紫。カラフルだというだけで美味しそうに見える。これは川畑の料理の腕に関係なく、素材の色による勝利かもしれない。


 ご飯は桐谷が炊いてくれた。三合も炊いたらしく、二人で食べるには多すぎたが、桐谷の心遣いが川畑には嬉しかった。


「食べようか。いただきます」

「いただきます」


 桐谷と一緒に手を合わせながら、川畑自身もこうして誰かと一緒にご飯を食べるのが久しぶりだということに気付いた。


「これ、美味しいね。どうやって作るんだい?」

「簡単なんですよ。茄子を焼いて、めんつゆに浸してねぎを散らしただけです。こっちはささみを茹でてきゅうりと一緒に酢醤油で和えただけ。誰でも作れますよ」

「へえ、こんなに簡単に作れるなら、僕も自分で作れば良かったな」

「今度から作ればいいじゃないですか」

「そうだね。でも僕は君を開放したら自首するつもりだから」


 そうだ、彼は詩穂里を誘拐しているんだ――川畑は自分の置かれた立場を忘れそうになる。何故かこの桐谷という男と一緒にいると、誘拐されている気になれない。尤も、帰っていいと言われているにもかかわらず勝手に居座っているのだ、実質的にも誘拐されているとは言えないだろう。


「シオリさんを見ているとね、彼女がそばにいるような錯覚に陥るんだ」

「婚約者だった方ですか?」

「そう。君は彼女に本当によく似ている。雰囲気も声も仕草も。彼女も茄子が好きだったんだ」


 そう言ってから、桐谷は恥ずかしそうに横を向いた。


「変な事を言ってしまったね。済まないね」

「いえ。もっと聞かせて貰って構いませんか? その……彼女のこと」

「年寄りの昔話だよ」

「聞きたいんです、私が」


 川畑が食い下がると、桐谷は困ったように苦笑いを浮かべながら「じゃあ」と言って話し出した。


「彼女は横浜の人でね。綱島に住んでたんだ。ここからは電車で一時間半かかるかな。僕は茨城から出て来て一人暮らしをしていたから、よく彼女のご両親が夕食に呼んでくれたんだ。その時に彼女は台所に立って茄子の焼き浸しを作ってくれた。僕の大好物だったんだ」


 たまたま川畑の作ったものが彼の好物だったということか。それで心を開いてくれたのなら、運がいいにもほどがある。

 それにしても綱島から一時間半、大学が亀戸だから、亀戸よりも東寄りなのかもしれない。埼玉方面も考えられる。ここはどこなのか。島崎がいれば一撃でわかったかもしれないものを。


「その頃からもう彼女のご両親は僕との結婚を視野に入れていて、よくそんな話題になったんだ。僕はちゃんと彼女を養えるようになってから迎えに来ますと言っていた。大学卒業してすぐにでも結婚をという話もあったんだが、僕に自信が無かったものでね。なにしろ彼女は僕には不釣り合いなほど、とても素敵な人だったから。今の君のようにね。シオリさん、付き合っている人は?」

「えっ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。一拍置いて、頭に浮かんだ顔があった。「今日の俺、ちょっとヤバいよ」という声が頭の中に響く。なんでこんな時にあいつが割り込んでくるのよ……。


「そんな人いませんよ。私、本当に男性に縁がなくて」

「でも今、一瞬誰かの顔が浮かんだね?」

「え、そんなこと……」

「そうか、彼に想いは届いていないんだね」


 心の中で否定すれば否定するほど、ヨレヨレのワイシャツと無精髭が脳内で自己主張を始める。


 ――言っただろ、ヤバいよって――


 なんであいつ、私の香水なんか覚えてるのよ。なんであいつ、モテるくせに私にちょっかいかけてくるのよ。まったくもう、あの遊び人め!


「そんなんじゃないんですよ。仲のいい友達というか、同志というか」

「シオリさんは純粋だね。僕の勤務先の学校にも、そんな表情をした女子生徒がたくさんいたよ。女の子は恋をしている時が一番綺麗だ」

「彼女も……綺麗だったんでしょうね」


 川畑が躊躇いがちに言った。地雷を踏むかもしれない。でも桐谷の恋人の話が聞きたかった。

 桐谷は「この世で一番綺麗だったよ」と言って、茄子に箸を伸ばした。


「神様は慈悲深かった。彼女の綺麗な顔に傷一つつけずに帰してくれた。一人でトレッキング中にね、沢へ滑落したんだよ。全身を強く打ってね。でも顔は全くの無傷だった。神が起こした奇跡だと思ったよ」


 桐谷の彼女は事故死。特に中橋や阿久津や西川が絡んでいるわけではなさそうだ。とすると、桐谷の言う「人生をメチャメチャにされた」というのは彼女絡みではないということか。

 ますますわからなくなってきた。一体彼に何があったのか。


「僕がついていれば、彼女をあんな死に方はさせなかったのに」


 桐谷の言葉は川畑の心に重く響いた。

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