記憶の奥の陽だまり
それは、三年前。まだカシホが塔師を目指す前のことだった。
田園がひろがるレサル地方には、ぽつんと一つ、孤塔が建っていた。肥えた黒土の土壌と同じ黒い色をしていて、遠くから見ると広大な緑の大地に突き刺さる針に見えたので、付いた名は、〈針の黒塔〉。
「ねえ、知ってる? 孤塔ってまだわからないことだらけで、中に入ったら、階段の位置や景色がころころ変わる迷宮なんだって。人が入っちゃいけないんだって。人間がかなわないものがあるって、なんか、いいよね」
幼馴染の名はリイトといって、隣に住んでいた。隣といっても、どちらの家族も農業を営んでいたので、家は農地一つ分離れた向こう側に建っている。とはいえ一番近い場所に住む隣人だ。同い年だったカシホとリイトは、学校に行き始める年になると毎朝同じように家を出て、同じ道を歩いて学校に通った。
リイトの家族は老いたおばあさんだけだったので、人出が必要な刈り入れや種まきの季節になると、男手がなければ大変だろうと、カシホの一家はリイトの家の畑仕事を手伝った。
ある日、レサルに、王都ハーツから塔師が訪れた。孤塔の調査に訪れた一行は、仕事が済むと街に招かれ、子供たちとの交流会をひらいた。
孤塔の謎や、レサルの孤塔の特徴、塔師の仕事についてを、男たちは気前よく話して聞かせたが、その時のリイトは、役場前の広場に集まった誰よりも目を輝かせていた。
「もう時間ですかね。では、最後に何か聞きたいことがある人は手をあげて――」
真っ先に手をあげたのも、リイトだった。「じゃあ君」と促されると、颯爽と立ち上がった。
「僕、塔師になりたいんです。どうすれば塔師になれますか」
わっと、子供たちの目がリイトを向いた。視線の的になってもリイトは目を逸らすことなく、塔師をじっと見つめ続けた。
塔師たちは顔を見合わせて、苦笑した。
「早速来たな、答えにくい質問が――」
「ああ。――実はね、君、夢がない話なんだけれど、塔師になれるかどうかは、生まれた時から決まっているんだよ。たとえば君、ちょっとこちらへ」
そういって、塔師はリイトを舞台に上げてしまい、やってきたリイトの手をとって見せる。
「塔師になるにはどうすればいいのか――この質問の答えだが、塔師になるには、ある力が必要なのです。磁制本能と呼ばれていて、体内の磁力、もしくは電気に当たるものを完全制御する力ですが、孤塔の中では必要不可欠な能力で、その力をもつ人間は一万人に一人といわれています。残念ながら訓練で身につけることが難しく、『神に授けられた力』と呼ばれていて、たとえその才能をもっていたとしても、普通に生活を送っているだけでは、本人でも気づきにくいのが特徴です。また、その力のあるなしは塔師同士が触れ合えばわかります。つまり、僕が彼とこうして握手をすれば、彼にその能力があるかないかがわかるわけです――ん?」
リイトの手を握った塔師は、目を丸くした。
「――なあ、この子を調べてみてくれ」
リイトはそれから、広場にいた塔師の全員から握手を求められることになった。
最後に握手をしたのは、一番年をとった塔師。
「君にはその力があるね。素質ありだ」
その男からにこりと微笑まれると、リイトは蜂蜜色の眉をひそめて、歓喜で唇を震わせた。
交流会が終わると、最後に握手をした塔師はリイトを呼び寄せた。
「これから監視所においで。君に磁制本能があるとわかった以上、細かく測定する必要がある。君さえよければ、だが。どうだい、君は塔師になりたいかい?」
「はい。僕がなれるなら――!」
後日、リイトの家には、塔師局の紋章が印刷された封筒が届いた。同封されていたのは、王立憲兵学校の入学試験の案内と、列車の切符。
もともとリイトは勉強が好きで、暇さえあれば本を読んだり、文字を書いたりして過ごしていた。それを同級生からからかわれるのをいやがって、リイトは、晴れていればたいてい畑の裏にある森に入って、山作業用の
ある日、「これだよ」と差し出された封筒に視線を落としつつ、カシホは尋ねた。
「ねえ、リイトは塔師になるの?」
リイトは鉛筆をもつ手を止めて、ゆっくり答えた。
「うん――僕、王都にいこうと思う」
おばあさんを一人で置いていくのは不安だけど――とリイトは続けた。
「おばあさんに話したら、機会に恵まれたのだから、試験にはいきなさいといってくれたんだ。僕がレサルに居続けても、いつか僕は一人ぼっちになるし、うちには小さな畑しかないから、一生農夫としてやっていくには大変だって。憲兵学校に入学できれば、学費も寮費も食費も全部女王陛下が面倒を見てくれるから、おばあさんの暮らしも楽になるし――」
「そっか――」
カシホは、リイトのそばにいるのが好きだった。
放課後に、木漏れ日の中で二人で
紙面を覗き込むと、目をこらさなければ読めない小さな文字で、こんなことが書いてあった。
◆孤塔と生物
孤塔を巣にしている生き物はいないのだろうか。
⇒なぜか
○孤塔の磁波が昆虫には合わない?(未解明の電磁波の可能性は?)
○なぜ人間は塔師なら孤塔に入れるのか?(磁制本能は人間固有のものか。劣性遺伝子?)
◆土壌の生成について
山の崖などで見られる地層を調べれば、地面がどのようにできたかを調べることができる。
例:レサラス山東部の東奥裂崖A斜面
○一億年前から二千年前までの地層が確認できる
○地層内の化石から、四千年前までレサル平原は湖底だったことがわかる
→ 湖底の土が肥沃な穀倉地帯のもとになっている。
⇒孤塔周辺、または孤塔の地下はどうなのだろう。
孤塔の地下の土壌を調べれば、孤塔が建てられた本当の年代が特定できるのでは?
【そのために必要な実験】井戸を掘る要領で深い穴を掘ってみる。
振動を与えて、揺れ幅を記録する。
ありきたりだな、他には?
そういえば。
磁嵐が起きた後に近くの泉の水かさが増えるって記録があった。
【仮説と、実験結果の予測】……
リイトの帳面を覗き込んだ後、カシホは唇を尖らせた。
「難しくてよくわからない」
「それは、えぇとね、書いてあることがぐちゃぐちゃだからだよ。本の内容と僕の感想がいったりきたりしているから」
リイトは恥ずかしそうに笑って、「ほら、ここは本の内容で、こっちは僕の思ったことで」と、鉛筆の先で紙面を指した。
「ふうん――。リイトって、文字を書いて、帳面と話しているみたいね」
「帳面と、話?」
リイトは吹き出して、肩をすくめた。
「たしかにそうだね。一緒にいてつまらなくない? 僕は帳面とお喋りをしているのに」
「そんなことないよ」
カシホがはにかむと、リイトは握り拳を空へ向けて、ふわあと思い切り伸びをした。
「そろそろ休憩しようかな。お茶をもらっていい?」
「うん、今淹れるね。お菓子もあるよ。ほら、コロット。母さんがリイトと食べてって」
カシホは、家から水筒と木製の
コロットは、かじると生地がほろりとこぼれるさくさくとした食感が特に美味しい。
「おいしい。カシホの母さんはお菓子作りが上手だね」
「でも、うちのお母さんはラトおばあちゃんが作る丸芋の煮付けが世界一おいしいっていってるよ」
かけらをこぼさないようにと、コロットを包み紙にくるんだまま口に運びつつ、カシホは笑った。
「そうだ。お母さんが晩御飯を食べにおいでっていってたよ。今晩はラトおばあちゃんが療養所に泊る日で、リイトは家に一人になるんだよね?」
「――いつもありがとう」
リイトは、白い頬に山をつくって微笑んだ。
リイトの顔つきはどちらかといえば童顔だった。そのせいで、年相応のやんちゃになりきれない真面目坊主に見えることもあって、同級生の中にはリイトを馬鹿にする生徒もいた。でも、カシホは、それは違うと思っていた。リイトにはどこか達観しているところがあって、他の級友と同い年には見えない大人びた雰囲気がある、と。
「憲兵学校の入学試験って、来月だっけ」
「うん。年に二回あって、五回まで受けることができるんだって」
「リイトなら受かるよ。賢いもん」
「そうだといいんだけど、まだ一度も受けたことがないしなあ」
リイトは遠慮がちにそう言ったが、それは彼にとっては無用の心配だった。
翌月、ハーツへ向かったリイトは、一度目の試験で見事合格して、塔師科への編入が決まった。王立憲兵学校は優等生のみが入学を許可されることで有名だったので、「レサルから王都へ向かう神童」という見出しで地方新聞に載るほどの快挙だ。
合格発表から半月後、リイトのもとには塔師局の紋章の入った封筒が再び届けられた。同封されていたのは、入学式典の案内と、列車の切符。二度目に送られてきた切符は、片道分しかなかった。
三年間の寄宿舎生活に備えて、リイトは持ち物のほとんどをまとめて、引っ越しの支度を始めた。そして、とうとう出発の日。カシホは、駅までの荷物持ちを手伝うことにした。
駅は、二人の家から少し離れた場所にあったので、駅に近づくにつれて、見たことのない顔とすれ違う機会が増えていく。
「こんな遠いところまで来たの、久しぶり。でも、リイトはここよりもっと遠いところへいくんだね」
「うん――」
駅舎に着いて待合室に荷物を下ろすと、リイトはカシホを外に誘った。
「カシホ、ちょっとこっちに――」
木造の駅舎の裏、苔が生えた地面を靴底で踏んで、リイトはカシホの手をとって壁際に寄る。周りに人の姿がないことを確かめた後で、リイトはカシホの目をじっと見下ろして、そうっと唇をひらいた。呟くような声を出した。
「ねえ、カシホ。僕が塔師になったら、カシホを迎えに来てもいい?」
「迎えにって――どこかへ行くの?」
ぽかんと唇をあけて見上げると、リイトは「そうじゃなくて――」と、照れくさそうに白い顎を下げた。
「だから、その――憲兵学校に入ったら、少しだけど給金がもらえるんだって。塔師になったら、新米でも近衛兵団の中級憲兵と同じくらいもらえるらしいよ。住む家も支給してもらえるんだって。ハーツの生活費の相場を調べたんだけど、その給金があれば、三人で生活できそうなんだ。その、僕と、おばあさんと、その――。僕が塔師になりたかったのは、このままレサルにいてもどうにもならないと思ったからで、その――」
もじもじとしつつ、リイトはとうとう言った。
「僕と――その、大きくなったら、僕と、結婚してください」
しばらくの間、二人の周りはしいんと静かになった。
かたん、どん――と、誰かが荷物を運んで階段を上がる足音や、子供の笑い声が遠くからやけに響いて聞こえて、二人のそばを吹き抜けるそよ風がふわりと髪を揺らしていく。
カシホの白い頬は真っ赤に染まっていた。背中まである小麦色の髪が、そよ風に揺られてそっと頬を撫でる。そうやって時が経っても長い沈黙が続いて、なかなか返事をもらえないので、リイトは頬を赤らめてうつむいた。
「あの……駄目?」
カシホはリイトの目を見上げて、慌てて首を横に振った。
「そういうわけじゃ――」
一度唇を閉じて、ゆっくり息を吸ってから、カシホは笑った。
「じゃあ、待ってるね」
すると、リイトはほっと肩の力を抜いて、微笑んだ。
やがて、列車の発着を報せる鐘の音が響き始める。後ろ髪をひかれつつも、仕方なく駅舎へ戻って荷物を背負い、
鐘の音がカン、カンと早くなり、車掌の大声が出発を知らせる。
「乗らなくちゃ」
乗降通路に停車していた黒い車体の中に足を踏み入れると、リイトは大きな窓のある座席を探して、窓を全開にして身を乗り出した。
「豊穣祭の休暇に帰るよ」
豊穣祭は、穀倉地帯が広がるレサル地方では一年で一番大きな祭りだ。でも、その祭りがおこなわれるのは少し先のことだった。
「豊穣祭の休暇は二か月も先だね。リイトとそんなに長く離れたこと、今までなかったよね」
しょんぼりとカシホが眉をひそめた時、発車の警笛が鳴り、列車が動き始めた。出発した列車を追って小走りになるカシホへ、リイトは窓の隙間から身を乗り出して、大きく手を振った。
「僕を待ってて、カシホ。王都に着いたら手紙を書くから。必ずカシホに会いにくるよ」
別れ際に、リイトはそう約束した。でも、その約束が果たされることはなかった。リイトを乗せた列車は、王都へ辿りつくことができなかったからだ。
「レサルの磁嵐」と名がついた未曾有の災害が起きたのは、リイトを乗せた列車が発車してから二時間ほど後のことだった。駅で別れた時から、カシホがリイトの笑顔を再び見る時は、訪れなかった。
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