彷徨 (1)

 歌声の主は、少年よりも頭二つ分は背丈が低い小さな子供で、歌いながら闇を翔けている。少年と同じくまっすぐにを目指していたが、目が合うと、はっと顔を上げて進路を変えた。


「ジェ・ジェラ・ジェラードナル・レイテ……」


 歌声も、途切れてしまった。


『あの……僕のことが見えてる?』


 目は合ったままだ。やってくる子供をまっすぐに向いて、唇を震わせる。でも、声は思ったほど出なかった。声を出せるということすら、さっき思い出したばかりだ。


 思い返せば、その時のことはすぐに蘇る。


「ほら、自分を化け物と自覚している化け物はいねえんだよ」


 長い間憧れ続けた男から銃口を向けられ、何度も撃たれた。化け物と決めつけられて、話を聞いてももらえず。死んでいるのだから、その男の言う通り「化け物」なのかもしれない。けれど、違うんだ、話を聞いてよ。聞けよ!――と、少年は怒った。怒って、叫んだ。


『僕は化け物じゃない。本当に僕は、あなたに憧れてました。――でも、どうしてあなたなんかに憧れてたのか、今はもう思い出せない。こんなに言ってるんだ、話を聞けよ!』


 つられて思い出した胸の動悸を宥めながら、もう一度息を吸う。息の吸い方や、声の出し方。そんなことは普通だと思っていた頃の感覚が少しずつ戻ってきた。


(息? 動悸? 変だな、僕は死んでるのに)


 気味の悪い感覚は残ったが。声は少し大きくなった。


『あの、僕のことが見えてるんだよね』


 子供は答えない。


 返事の代わりか。子供の黒い瞳はこちらを向いたまま。その目にぎくりとする。やってきた子供は真顔をしていて、硬い表情が崩れなかった。緊張も脅えも戸惑いもなく、何一つ感情がみえない表情で、背丈も華奢さも年相応なのに表情にだけは幼さが一切無い。まるで人形だ。


『きみ、ジェルトだろ。孤塔の中でカシホに保護されたよね』


 話しかけるものの、子供は答えない。この距離だ。聞こえているはずなのに――少年は眉をひそめた。


 なんて子供らしくない子だ。死んだら子供もこうなるのか?


『ねえ、きみ、どうしてここにいるの。きみも死んだの?』


 うっかり尋ねてみるが、瞬間、顔が引きつった。


(きみも死んだの、だなんて。僕は死んだ。その子も死んだ――)


 自分は死んでいる。それは事実だ。どこでどうやって死んだのかも、少年――リイトは自分でよくわかっていた。


 その子も死んでいるのなら、これが死後の暮らしか? 「こんにちは、きみも死んだの?」なんて、まるで「はじめまして」の挨拶を交わすように尋ねて、死後の人は暮らすのか?


 もしそうなら、たまらなく嫌だ。なんて不愉快な。死んだ後にも生きている時と同じように過ごさなくてはいけないなど、聞いていない。天上のガラの国へ行くのではなかったのか。


 唇を噛んだ。そうしていないと暴れ出しそうだ。


『あの――きみも、もしかして僕を消そうとしてる?』


 ギズという塔師に銃弾を撃ち込まれ、首を千切られたところだ。「化け物」と呼ばれて「消えちまえ」と力ずくで抑え込まれ、「やめて」と頼んでも話を聞いてもらえず、人ではないものの扱いを受けた。


 足が、そろそろと一歩下がる。視線で射抜くように見つめてくるジェルトから遠ざかろうと、いつのまにか、震えるように後ずさりをしていた。その時。


 ジェルトが笑った。気味の悪い笑みだ。子供らしい天真爛漫さなどかけらもなく、唇の端を歪ませただけの狡猾な笑みで、背筋がゾッと冷たくなった。笑顔だけでなく、声も。ジェルトの小さな唇から出たのは、年を取った男の声だった。


「ほう、動けるのか」


 怖い。足がもう一歩、後ろに下がる。でも、ジェルトからは遠ざからない。リイトを追うように、ジェルトも前に進み出ていた。


「何者だ」


『そっちこそ……ジェルトじゃない?』


 ジェルトという子供の名は知っているが、話したことなどなく、ろくに知らない。でも、目の前にいる子供の姿をしたものが前に見かけた子供と別人であるとは、理解した。


「おまえの名はなんだ」


『――リイト。リイト・セライス』


「死んだのか、それとも、生きているのか」


『――死んでるよ』


「死んだのに、動けるのか」


『知らないよ。普通だったらどうなるわけ?』


 ジェルトは笑っていたが、質問には答えない。


「面白い。いいものを見つけた」


 リイトは腹が立った。


『ギズさんと同じだね。僕の話は聞こうともしない』


 目を逸らして不満を訴えた。でも、ジェルトはかえって笑う。何かとんでもないことに気づいたというふうに目を見開いて、息を詰まらせるようにして笑った。


「わかったぞ。そうか、おまえは、塔師なのか」


『――違うよ。僕はまだ……』


 また腹が立った。リイトは塔師などではなかったからだ。


 

 こんな僕でも立派な仕事に就けるかもしれない――。塔師という存在は、リイトにとって救いの光そのものだった。


「君にはその力があるね。素質ありだ」


 幼い頃、レサルの広場で初めて塔師という男に出会った時から、リイトの心は揺らがなかった。いつか塔師になる。だから、他の人の何十倍も勉強する。級友からは「勉強の虫」とからかわれたが、気にしなかった。


 塔師科を設けているのは、名門と評判の王立憲兵学校だけだ。その学校に編入するための試験を受けると決まった時から、同級生はリイトをからかうのをぴたりとやめた。試験に合格して編入が決まると、新聞記者が家にやってきた。老いた祖母と二人で暮らす田舎の小さな家に何人も人が集まって、「さあ笑って!」と写真機を向けられた。新聞に載った自分の顔も、後ろに写った粗末な家までが、急に華々しいものに見えた。


 村の住人が祝いの品を手にして入れ替わり立ち代わりやってきて、隣家のカシホの家族はごちそうを用意して祝ってくれた。祖母と二人で隠れ住むようにひっそり暮らしていたのに、塔師と関わっただけで、急に脚光を浴びた。


 そうか、憲兵学校に行くというのはすごいことなのだ。塔師になるのも――。それが、身に染みた。


 でも、リイトが欲しいものは、憲兵学校の入学許可証でも、塔師という職業でも、塔師になると与えられる給金でも名誉でもなかった。手段に過ぎなかった。


 塔師になれたら、この子を迎えにいける。次に戻る時には、胸を張ってもう一度「好きです」と伝えられる。「ずっと一緒にいてほしい。家族になってください」と求婚できる。この子を――カシホを迎えにこられる――それ以外の望みは、リイトになかった。そのために王都行きの列車に乗ったのだ。


 でも、塔師になるどころか、憲兵学校にたどり着くこともできなかった。リイトが乗った列車は、磁嵐が起きた日に谷底に落ちた。





 その頃のことを思い出すと、涙が止まらなくなった。息も詰まった。胸が苦しいと思うと、腹が立った。肉体は土に埋められて朽ちているのだから、詰まる息はないはずだ。涙で濡れる頬も失ったはずなのに。なら、どうして僕は今、苦しいんだ。泣いているんだ。どうしてここにいるんだ?


 戸惑いと怒りが苦しみに混じると、身体が痙攣した。それも不思議だ。


(痙攣? 僕にはもう身体がない。なら、何が震えてるんだよ)


 肉体はとうに消滅したはずだ。それなのに。感電して痺れたように、指をわずかすら動かすこともできなくなった。


「おお、よしよし。元気な子だ――いい、魂だ」


 いつのまにか、目の前にジェルトがいた。子供の顔で愛想笑いをして、小さな顔に不似合いな猫なで声を出した。そろそろと細い腕が上がり、リイトの胴を抱きかかえるように手のひらが背中に回る。ジェルトの腕も指も、氷のように冷たかった。


 抱きしめた後、ジェルトの指はリイトの手を探しはじめた。指をひらいて、手のひらに何かを握らせようとしていた。


「おまえのほうが魂が強そうだ。石ノ子の大役をきっと務めあげられる」


『――石ノ子?』


 石ノ子。魂が強い。大役。それに、冷たい手のひらをひらこうとする細い指。でも、抗う気力が湧いてこない。列車事故のことを思い出してしまったからだ。


 未来は閉ざされた。もう憲兵学校に行くことも、塔師になることも、あの子を迎えに行くこともできない。カシホにはもう会えない――泣きじゃくりたかったけれど、涙を滴らせる身体すら失った。その絶望感。


 でも、我に返る。とうとう指をひらいたジェルトが、リイトの手に握らせようとしたものに触れるなり、雷に打たれたように痺れた。身体が粉々になるようだった。


『待って、何を――』


 指に触れたのはつるっとしたもの――小さな石だった。その石に触れた場所から、身体が裂けていく。ぱちんと弾けて種を飛ばす乾いた房のように、指先から八つ、九つ、十にも裂け目ができて、果実の皮を剥くように呆気なく、身体が千切れて分かれていく。バラバラにされていく。


『やめろ、怖い』


 手の中の石を放り投げようとするが、ジェルトの手が許さない。体重で押し付けるように掌が押さえられる。「やめろ」と睨もうとジェルトの目を探すが、自分の胸の高さにあったその目は、まっすぐこちらを向いてにたりと笑っている。――まるで、愉快な演劇を見るような笑顔。こっちは泣き叫んでいるのに。


『やめろよ、話を聞け。僕はまだ死んでない』


 夢中でジェルトの手を振り払う。渾身の力で押したせいか、ジェルトの身体がよろけて少し離れる。今しかない――リイトは逃げた。一目散に逃げた。後ろを顧みずに逃げた。


 隼のように宙を飛んで、さらに飛んで、ジェルトの気配が遠ざかり、追いかけてこないことを何度も確かめた。


 振り返るたびに、遠くの空が明るくなっていた。夜が明けるのか――と思うが、いつのまにか空は青くなっている。強烈な光を放つ太陽が地平線から顔を出す瞬間は見逃したようだった。


 空を滑空する鳥のように宙を進んでいると、行く手に人らしき点が見えてくる。


(人だ)


 眼下に見つけた人らしき点は七つ八つあった。数人で小さな群れをつくり、地上を歩いていた。


 たった一人で、何が起きているかもわからず、孤独で、人恋しかった。けれど、人がいるからというだけで近づく気は、もうなかった。


 また酷い目に遭うのではないか――警戒した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る