彷徨 (2)
慎重に高さを保って、群れの上空を滑る。先頭に追いついてしまうと、進む速さを落とした。身体は前後左右、面白いほど自在に浮く。高く飛ぶのも低く飛ぶのも思いのままで、夢の中の空を飛んでいるようだった。
真下の様子をうかがって、息を飲んだ。
(これ、人?)
眼下を歩く生き物は人間の姿をしている。でも、「人だ」とわかった後ですら何度も確かめた。奇妙だった。
まず、歩き方が不格好だ。全部で八人いたが、身なりも背格好もばらばら。偶然居合わせただけの面子のように、いかめしい軍服を着た男もいれば、年寄りもいるし、リイトよりも幼い子供もいる。どれだけ歩き通したのか。くたびれているようで、一番小さな子供の背は力なく丸まっていた。子供が今にも倒れそうに歩いているのに、周りの大人は目もくれない。誰かを気遣う余裕がないのか、そもそも意志などないのか。眼下に見えた八人が八人とも疲労困憊というふうで、黄土の茫漠とした大地をよろよろ歩いていた。
(もしかしてこの人たち、死んでる?)
数日の間に耳にした言葉が次々蘇っては、街中に鳴り響く時計塔の鐘の音のように重なった。
「孤塔は、死者が登る階段――『死の国への道』……」
孤塔を登る学者も塔師も、この塔は「お化け屋敷」だと話していた。マオルーンも、たしか、こう説明した。
「孤塔の内部にはよく人が現れます。さっきの少年のように、どう見ても生きている普通の人間ではない人が、です。特徴を記録して帰還後に調べたところ、似た姿をした人が少し前に死んでいたという話は、塔師の間では有名です」
(この人たちが、その――)
ごくりと唾を飲みかけた、その時。眼下にいた人の群れが消えた。咄嗟に行方を追うと、背後にいた。100ミレトルほど戻った場所に同じ配置でそっくり移っていて、同じように歩いている。追いかけていた集団が突然目の前で消えるので驚いたが、当の本人たちは気づいていないのか、疲れ果てているくせに、まったく不思議がる様子がない。進んだはずの距離を戻されたというのに。上空を行ったり来たりして様子を窺ううちに、気づいた。人が突然消えた場所と戻った場所には奇妙な磁波の壁がある。それは――。
(〈
塔師が対磁弾で切り開いてきた壁と同じものが眼下の平原にもあって、そこを行く人の群れは、壁の存在に気づいていない。その壁をこじ開けられなければ、通り過ぎた場所へと瞬時に戻される。同じ場所を繰り返し行き続けるだけ――いや、進むことができないのだから歩き続けるだけだ。
(何回
行方を追ううちに、群れの形がいびつに歪んでいく。遅れはじめた人がいた。集団の中で一番身体が小さな子供が、足を引きずっている。その足も今にも止まりそうだ。
(助けてやれよ。子供だぞ。手を貸してやれよ、誰か)
上空から声援を送るものの、もちろん声に気づく者はいない。ついに子供は群れの輪から離れた。そして――。
(あっ)
歩くのをやめて、その場にしゃがみ込んだ。思わず、そばまで滑り降りる。ぐんぐん近づきゆく子供の頭部へ、リイトは手を伸ばした。
『来なよ。一緒に行こう。この先はただ進むだけじゃ駄目だ。壁をこじ開けながら行かないと――』
大声を出した――つもりだった。でも、地面に膝をついた子供は真顔を崩さない。地表の砂粒を呆然と見つめるだけで、リイトを見ようともしなかった。
『僕が見えてる? 僕なら壁の在りかがわかるよ。僕は塔師だから――じゃなくて……僕は塔師じゃないけど――』
塔師が「磁力」や「磁波」と呼ぶものを、リイトも見ることができた。でも、見えるだけだ。
(僕は塔師じゃない。塔師に憧れていたから磁波のことを調べていただけで、憲兵学校で講義を受けたこともないし、銃弾も持っていない)
こんな僕でも立派な仕事に就けるかもしれない――。塔師という存在は、リイトにとって救いの光そのものだった。でも、その光に指をかけることもできないまま、命は尽きた。
喉の内側が狭くなったように苦しい。気づけば、頬が震えていた。まるで今にも泣き出しそうに――気づくと、自分で叱りつけた。
(いつまでも悲劇の主人公みたいに――諦めろ。僕は死んだんだ)
振り切るように、子供の顔を覗き込んだ。
『なあ、大丈夫? あそこの壁まで一緒に行こう。少しなら助けられるかもしれないから」
でも、子供は横顔を向けたままだ。そばに誰かがいるとも気づいていないのか、呆然と前を見つめ続けた。
十歳くらいの少年だった。リイトより身体も顔も小さく、顔つきもあどけない。背が低く華奢で、少女の格好をしてもどうにかなりそうなほどだ。けれど、表情には年相応の無邪気さがない。
一度、寂しげに目を細めた。目尻から溢れ出た滴が砂にまみれた頬を伝い、細い顎へと落ちて行く。
涙の行方を見届けてから、もう一度少年の目を探したその時、リイトは驚いた。少年の目から生気が抜けて落ちていて、目が、二つの窪みにしか見えなかった。迷いや孤独、焦りや疲労、彼が身に宿していたはずのあらゆる感情が、音を立ててしぼんでいくのも視た。諦めの表情――絶望の表情だとも、気づいた。
『待って。そんな顔しないで。僕も手伝うから――ほら立って。僕が見えてる? ほら、立って。背負うから、乗って』
声が震える。本当は泣きじゃくりたかったけれど、それを抑えつけるかわりに必死に身体を動かした。背中を差し出した。
『大丈夫だよ、僕は壁が見えるから。壁を越えたら、君が行きたいところへきっと行けるよ――』
慰めの文句を口にしながら、奇妙なことを口走ったと唇が引きつった。
あの壁を越えて、いったいどこへ行くのだ?
この子が本当に死んでいるなら、行く先は
でも、神の国など、そんなものは本当にあるのか。
この子だけじゃない。僕だって――。この後、どこへ行くのだ。
「もう死んだ」と何度も思った。それなのに何度も起き上がって、
『大丈夫だよ』
涙があふれて声が震えた。大きな声を出していないと、正気を保てなかった。
『行こう、ほら、立って――』
腕を掴もうとした。けれど、少年の細腕は地面に糊づけされたように動かない。黄土の地面に倒れて、ぼんやりと虚空を見つめるだけだ。
『立って、手伝うから。大丈夫……』
言葉が薄っぺらいと感じて、痛い。「大丈夫」だとはリイトも思わなかった。
ヒョウッと風が吹く。髪を煽ってふくらませながら通り過ぎていく風の音を、ぼんやり聞いた。囁くような風の音が聞こえるほど、リイトも少年も無言になった。
どれだけ経ったのか。背後から近づいてくるものがあるのに気づいた。人の気配――風でできた透明な峰の稜線を歩くように、何かが近づいてくる。振り返れば、見覚えのある少年の姿があった。ジェルトが宙を歩いていた。探しているのは自分なのだろうと瞬時に理解するほど、ジェルトの目はリイトから逸れなかった。
逃げる気にはならかった。倒れたまま動かなくなった少年のそばで腰を下ろして、距離が狭まるごとに大きくなっていくジェルトの姿をぼうっと眺めていると、やってきたジェルトは、倒れた少年とリイトを見比べて、年老いた男を思わせる風に笑った。
「力尽きたのか。だが、悲しまなくてもよい。〈母〉のもとへ向かうだけだ」
(母?)
なんのことだろう。奇妙には思ったが、尋ねる気力も既にない。
「塔の奥に入ってしまえば〈母〉のもとへ行くしかない。おまえもだよ。この石を運べば〈母〉のもとへ行ける」
あどけない顔に似合わない低い声で言って、ジェルトは手を差し出した。壊れ物を包むようにやわらかく丸まった指の奥には、黒い石がある。鳥の卵のような形で、見事なほど滑らかに磨き上げられていた。
『死ねるっていうこと?』
ジェルトの指先にじっと見入ってから、顔を上げると、ジェルトは学校の先生がするお手本じみた笑顔を浮かべた。
「ああ、子供はよく迷子になる。私は時折こうして、正しい行先を教えてあげているのだよ」
『迷子――。なあ、僕、この石を受け取ったら粉々になりそうなんだ。さっきは石を触ったところから皮が剥けるみたいに身体が裂けたから――。その後はどうなるの。裂けたままさすらうのはいやだよ。僕、もう何も考えたくないんだ』
「それも〈母〉のもとへ行けば解決する」
『
「ガラ? ――あぁ、死後は自由だ。我々は〈母〉のところへ行くし、おまえはガラの国に行ける。おまえたちが『孤塔』と呼ぶこの塔は、おまえの国では『神の鳥〈ガラ〉の宿り木』なのだろう?」
「神の鳥〈ガラ〉の宿り木――」と、リイトは唇の内側で反芻した。一度呟いて、もう一度呟き、三度、四度ほど繰り返すと、うつむいた。
「大丈夫だ。私がおまえの代わりに神の身元へおまえの魂を届けてやろう。安心しなさい。子供はよく迷子になるから、私は迷子の世話に慣れている」
ジェルトは宥めるような言い方をした。
「なら」と、リイトは右手を差し出した。指を開いて、ジェルトに向ける。卵型の石を握ったほうの手だ。
『早く終わらせてもらえると助かるよ。すごく苦しかったから、また逃げたくなるかもしれないし。きみの言う通りにして本当にうまくいくなら、押さえつけてくれていいから』
「ああ、わかったよ」と、ジェルトは低い男の声で笑った。
ジェルトが手にした卵型の石が指に触れるのを、じっと待った。さっき無理やり握らされた時には身体が八つ裂きにされる感覚があったので、またあれを味わうのかと思えば、怖くて指を引っ込めたくなる。でも、懸命に宙に留めた。力を込めて静止させると、指が震えた。
(これで本当に終わるなら)
近づいてくるジェルトの指を見るのが怖くて、目を閉じる。震える
その少女は、胸までの髪をお下げに結っていた。ほとんど毎日隣に座って、時にはお茶とお菓子を用意してくれた。少女の肌は白くて、日に焼けるとよく赤みを帯びた。その白い頬になだらかな丸みをつくって、微笑んだ。
――リイト、お茶が入ったよ。
「うっ」と悲鳴を上げかけて、飲み込んだ。指に石が触れて、その瞬間、身体が裂けゆく。冷たくなった。黄土の大地を吹く乾いた風に身体が溶けゆく気分で、深い眠りに落ちていくようでもあり、気が遠くなった。「冷たい」とか「痛い」とか「身体が動かない」とか、歯を食いしばっていないと泣き言が漏れてしまいそうだった。いい気分ではなかったので、「早く、早く僕を消して」と願い続けた。いったい何度消えゆく苦しみを味わえばいいのだ。
眠りの底に落ちる手前のように、無言の悲鳴が小さく遠のいた。もう少しだ。もう少しでバラバラになる。
(カシホ――さよなら。今度こそ、さよなら)
これで最後。僕はきみを想って、きみに見守られて消える。さよなら――。
すべてに別れを告げた――つもりだった。
かっと目が見開く。
『死んでくれてよかった』
耳が、目が、肌が、男の呟き声を思い出していた。
身体は骨ごと震え、身体を包むすべての部分に鳥肌が立ち、吹き飛ばされて、胸のあたりが
+ + +
三年前のその日のことを、カシホはよく覚えていた。その日、エクル王国では広範囲に渡って地震が起きて、揺れがおさまって、隠れていた大卓の下で「あぁ、地震が起きたんだ」と理解するなり、身体が芯からがたかがたと震えるのを止められなかった。
静かになって、真っ先に家の外に出たのは父親だった。
「今の様子じゃ、原因はきっと孤塔の磁嵐だな。外の様子を見てくる」
「あなた、気をつけて」
しばらくして、母親が「そろそろ出ても大丈夫かしらね」とこわごわと大卓の下から腰を上げたが、壁時計を見上げるなり、青ざめた。
「ねえ、カシホ。列車はもうレサルの大谷橋を超えたかしら」
磁嵐は鉄の塊を勝手に動かすことがある。磁嵐が起きたら、すぐに鉄を含むものから離れて地面に伏せろ、生き物のそばへ避難しろ。それは、孤塔の近くで生まれた子供がまず習うことだ。
でも、それは外に出ている時の話。そうできない場合もある。
リイトは今、列車の中にいる。逃げる場所などない。緊急停止が間に合いますように。救援が来るまでレールの上を走り続けられますように。事故に遭うとしても、小さな脱線事故で済んでいて。どうか、大谷橋を越えていて――。
「お母さん、わたし、リイトのおばあさんのところにいってくる」
大卓の下から飛び出すと、隣家へ向かった。つい二時間ほど前に出発を見送った幼馴染の家には、老齢のおばあさんが暮らしている。
「ラトおばあちゃん、無事?」
扉を開けると、リイトの祖母、ラトは涙を流して椅子にしがみついていた。
「通信機を、通信機を……」
大きな災害が起きれば電波放送で情報が伝えられる。窓際に置かれた機械のもとへと走って操作したが、雑音が鳴るだけだった。
「さっきの地震は磁嵐が原因なのかな。リイトが、レサルの電波局には予備機が蓄えられているって言ってたから、きっとすぐに復旧するよ。待とう、ラトおばあちゃん」
外が暗くなるまで、ラトと並んで通信機の前に座り続けた。電信網が復旧したのは晩のことだったが、再開した電波放送が告げたのは、一番聞きたくなかった報せだった。
『本日、午後一時十七分、レサルの孤塔周辺で発生した磁嵐により大規模な地震が起きました。各地の主な被害をお知らせします。まずは、列車事故の速報です。午前十一時発、王都ハーツ行きの列車全十二両が、大谷橋付近で約百ミレトル下に転落。乗客は約四百名で、関係者によると、生存者がいる可能性は絶望的との見解。繰り返します、列車事故の速報です……』
谷底に吸い込まれた列車事故を筆頭に、レサルの孤塔が起こした不幸な出来事は『レサルの磁嵐』と呼ばれることになった。
その日のことを、カシホはよく夢に見た。
(リイト、待って。その列車に乗っちゃ駄目。王都に行っちゃ駄目。待って――)
止めればよかった。いかないで。ずっとそばにいてって。あなたがいなくなるのは寂しいから、塔師なんかにならないでって、引き留めればよかった。
引き留めればよかった。つないだ手を離さなければよかった。離さないで、ここにいてって、わたしから言えばよかった。
わたしのせいだ。止められなかったから。
何かを叫んで飛び起きた。そう思ったら、カシホは寝袋の中にいて、寝袋ごと身体を起こして泣いていた。
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