化け物の腹の中 (2)

 咄嗟に、両の耳のそばで手のひらを丸めた。


「なんだろう、耳鳴りがします」


 空耳の出どころを探ろうと目を閉じると、どく、どくと、脈打つような鈍い音がはるか彼方から響く気がする。でも、遠すぎる。気のせいと言われてもおかしくない、かすかな振動だった。


「なにかが蠢いているんです。――風みたいなものが吹いていませんか」


「風?」


「下から上に、ううん、上から下? ――すみません、気のせいかもしれません」


 首を横に振って、まぶたを開けた。気のせいかもしれないなら、不確かなことを言って注目を集めるべきではない――けれど。


「風向きがわかればどうにかなるのか? なら、粉鉄をもってるけど」


 学者の列の中からイーシャルが進み出ていた。背嚢リュックを足元に下ろして口をひらき、荷物を漁ると、硝子の小瓶を差し出した。


「実験用の粉鉄だから粒子が細かいし、風向きくらいはわかると思う。もしくは、きみが感じた風が磁力を含んだ風なら、もっと効果があると思うけど」


 「わからないけど、試しに――」と、親指で筒の口を塞ぎつつ少量を取り出すと、イーシャルはそれを、カシホが指で示したあたりへとふっと息で飛ばす。粉鉄はふわりと宙に吹きあがったが、重力に従ってぱらぱらと下降を始める。でも、黒い粉の中には別の動き方をする粉もあった。宙にとどまり、靄が生まれたようにふわりと舞った。重いものがどうにか宙に踏みとどまったふうで、動きは遅い。しかし、浮いている。


「本当だ、風が吹いている……」


 視線が集まる中、黒い粉はゆらゆらと上へとのぼっていく。やがて、天井に達した。天井部分の煉瓦に接すると、溶けたように見えなくなった。


「消えた――」


 イーシャルが、ぽかんと呆ける。ギズは同じものを見上げて片目を細めた。


「消えてはいない。ここの本来の姿を見せただけだ。風は――っていうか、磁力の塊か、そいつは上に向かって続いているってことだ」


 「なら」と、マオルーンも黒い粉が消えた場所を見上げた。


「出口はあそこか」


 ギズが、くっくっと肩を震わせた。


「どうなってんだ、この塔は。こうなると、なぜこの孤塔が塔の形をしているのかが不思議になるよな? おれたちはここまで階段を登ってきて、この階にも同じ階段はついているのに、出口はその先になく行き止まり――ただ行くだけじゃどこへも出られなくなる檻みたいなもんだ。ここの階段は『道はここだ』と人間をおびきよせるための罠なのか? 人を迷い込ませてどうしたいんだ?」


「人間をおびきよせる? 迷い込ませる? ギズ教官、どういう意味ですか」


 真顔で振り仰いだカシホに、ギズは答えなかった。


「今におまえもそう思うよ。――とにかく、ここを出るのが先だ。この先に行けなければ、ここで撤退の支度を始める。ガキ、この階の記録をとれ」


「――はい、磁力及び磁波は六度で、外と同等、正常範囲――ううん、そんなはずはないです。故障?」


 カシホは自分の手首についた計器を覗き、小さなつまみをいじった。


「すみません、ギズ教官かマオルーン教官の磁力計で調べていただけますか。わたしの分は再調整しますから」


「いいよ、カシホ。たぶん、おまえの磁力計が壊れたわけじゃないから」


 マオルーンも、自分の手元を覗きこんだ。


「俺のも、おまえのと同じ数値を示している。磁力はまだ外と同程度だ。たぶん、磁力の性質が変わったんだろう。磁力を感じられる俺たちはこれまでと違うとわかるが、今のところそれを計測できる機械は発明されていない」


 マオルーンの目が、階段の上で一列になる学者たちを向いた。


「悪いが、あなた方の同行はここまでです。今夜があなた方が内部で過ごす最後の夜と思ってください。代わりに最後に面白いものを見せますよ。うまくいけば、ですが」


 イーシャルが持っていた粉鉄入りの硝子瓶は、マオルーンの手に渡った。イーシャルと同じように何度か粉鉄を吹いて宙に舞わせるが、イーシャルは文句をいった。


「そんなに使ったらもったいない――。大事に扱ってくださいよ。調査用にもってきたんですから」


「ケツの穴の小せえ男」


 ギズが吹き出してからかう。イーシャルはかっと頬を赤くした。


「なんだと、さっきからきみは……」


「二人とも、余計な息をするな。せっかくの粉鉄が息で飛んでしまう」


 マオルーンは淡々と二人を諫めて、手元から立ちのぼる黒い煙の行方を執拗に追いかける。同じものを学者たちも同じものを見つめて、唾を飲んだ。


「その――マオルーン塔師……鉄粉はなぜまっすぐ真上にのぼるのですか。通気口があるのか? 見たところ上部には通風孔がないし、対流が起きている様子もないのに、真上に風が吹くなど――。それに……」


 カシホが、一度びくりと身を震わせて悲鳴を上げた。


「波打ってる」


「え?」


「ほら、ここ、また……。流れる力が強くなってるんです。同じ間隔をあけて、ほら、今も――」


 人差し指を立てて拍を刻むように宙を叩き、カシホは「ほら、また――」と繰り返した。


「ただの風じゃないです。まるで、生きているみたい――あ」


 カシホの目が、上へとのぼりゆく粉鉄に吸い寄せられる。真上の煉瓦に吸い寄せられるようにふわふわと浮かんでいた黒い粉が、動きを変えた。どくん、どくんと喞筒ポンプに押し出されるような律動リズムで、天井の煉瓦に吸い込まれ始めた。


「血流のようだ。なんと――」


 アボットも、ギズとマオルーンも同じものを見上げた。ギズの唇の端があがる。


「生きてるみたい? そりゃあ、『化け物の腹の中』だからな。どうする、マオルーン。待つか? それとも――」


「迷っているところだよ。この先生方がいなければ、迷わず突っ込んでるんだがなあ」


「たしかに」


 ギズが、厄介物を疎むように学者達を見下ろす。アボットは不機嫌に言い返した。


「我々のことなら気にしないでいただきたい。塔師諸君の仕事ぶりを拝見するのも、我々、調査団の役目なのでな」


「仕事ぶりを見て、その後で頭が狂ったら調査書が書けなくなるじゃねえかよ。磁嵐の影響は知ってるだろ? 磁嵐をもろに受けた人間がまず気をつけなくちゃなんねえのは脳の混乱だ。――と、いいたいところだが」


 ギズは話を続けた。


「まだ磁力はそこまで高くなく、塔師は三人いる。道をひらくだけならどうにかなるかもしれない。――やろう、マオルーン。カシホ、おまえが撃て」


「わたしが?」


 「ああ」と、ギズは天井を見上げた。黄味がかった孤塔の天井部分からは、最後に舞いあがった粉鉄の影も消えていた。ギズが見つめたのは、天井をつくりあげる煉瓦の奥、隠れて見えない向こう側だ。


「おまえが一番手で、おれは針弾で援護する。マオルーンは防御だ」


「マオルーン教官が防御? 一番手はわたしでいいんですか? 未知の方法を試さなくてはいけないのなら、ギズ教官とマオルーン教官の二人でされたらどうでしょうか」


 しおらしく反論すると、マオルーンは苦笑した。


「安心しろ、カシホ。おまえが一番手なのは、一番影響が少ないからだ。おまえがやってうまくいかなければギズがどうにかするし、ギズにできなければ、おまえにもできない。ギズはな、こう見えて孤塔の攻略に関しては敵なしだ。それに、学者連中を守る役は、失敗が許されない。見習いには任せられない」


 マオルーンは、左肩からかけていた長銃を手にとった。弾倉を抜き取って中の弾の組み合わせを確認すると、がちゃりと音を立てて銃身に戻す。長銃を手にしたまま、学者の列に下がるように命じた。


「作業が始まったら、階段の上だけが安全地帯になると思ってください。できるだけ密着して集まってください」


 学者たちを後方に下げると、マオルーンの自分の身体を盾にするように階段の上段に立った。ギズも準備を始める。弾倉の中から取り出した予備の針弾を衣嚢ポケットにしまっている。


「カシホ、おまえの弾は一発、二割弾だ。二発目以降は空けて、後で追加できるように手に針弾と二割弾を用意しておけ」


「はい」


「おまえの一発目の後、おれも二割弾を撃つ。その後はおれが創傷を縫いつけるから、おまえは援護しろ。おまえが撃った後でおれにも仕留められなかったら二割弾、動きを止められていたら針弾だ」


「はい」


「弾を節約しろ。先はまだ長い。後で弾切れになったら終わりだからな」


「はい」


 カシホがうなずき、支度を終えると、三人で目配せをし合う。


「始めろ、カシホ。おまえからだ」


「はい」


 返事をした時、カシホは照準口に頬を寄せて片目を閉じていた。黒味を帯びた銃口が狙うのは、真上。天井部分の中心、秘密などないとうそぶくように静かな煉瓦と煉瓦の隙間。


「いきます」


 掛け声とともに、指が引き金を引く。ドウッと空砲に似た射撃音が響き、次の瞬間。そよそよと流れていた見えない風が突然嵐になったかのように、吹き荒れた。


「わあ!」


 悲鳴が上がる。学者一行の盾になるマオルーンの足に力が入り、靴底が煉瓦と擦れた。


 突如生まれた突風は、渦を巻きながら上から右、左、中央と場所を変えつつ、虚空を跳ね回った。暴れ回るような動きは、生まれたての赤ん坊が泣きじゃくるのに似ている。ギズが構える長銃は、その突風の中心を追っている。引き金が引かれたのは、嵐が、壁際の低い位置に来た時だった。


「捕まえた。カシホ、援護しろ。針弾を撃て」


「は、はい」


「おれは右から撃つ。おまえは左からだ」


「はい!」


 カシホは弾倉を開けて弾を仕込み、引き金を引き続けた。ドウ、ドウッと、二発撃ったところで、ギズの怒鳴り声。


「馬鹿野郎。弾は節約しろと言ったろうが。闇雲に撃つな。狙え」


「はい!」


 吹き荒れる嵐と射撃音に負けじと、二人の声が大きくなる。その間も、ギズが構える長銃の口は滑らかに動き、上下左右に逃げようと蠢く嵐の中心を的確にとらえる。それを、カシホは懸命に追った。


 ドウッ――と射撃音が鳴るたびに、嵐だったものは、塔師が使う対磁弾によって、孤塔の壁に固定されていく。アボットが、マオルーンの身体の隙間から光景を覗いて、声を震わせた。


「嵐に杭を打つようだ。塔師が使う道具はいったいどうなってるんだ――」


 やがて、蠢いていた風の塊が煉瓦造りの壁に張り付けられていく。移動を封じられて動きが鈍くなると、嵐もおさまっていく。風がおさまっていくと、周りを囲んでいた煉瓦の壁が、しだいに透けていった。


 学者たちが、マオルーンの身体の陰から隙間を奪い合うように顔を出している。


 嵐があったあたりの壁は完全に透け、円い穴ができていた。煉瓦の壁を恐ろしく鋭利な刃物で真円に切り抜いたかのような見事な穴で、大きさは、男の身長よりも高い。風をまとっていた頃の名残のように、穴の周りには、白い風が円形の枠を飾るように揺らいでいる。それも、だんだん薄れていった。


 穴の奥に見えたものを目にすると、学者たちの目がまばたきをしなくなる。


 そこには、森があった。円枠の向こうには、背の高い針葉樹が連なる森が広がっている。天を刺すように伸びる針葉樹だけでなく、立派な幹と幹の間には背の低い草木や羊歯が群れて、場所を奪い合うように葉を伸ばしていた。


「森だ……」


 アボットがつぶやく。長銃を手にしたまま、カシホもぽかんと唇を開けた。「塔をのぼると、森に出たり、湖になったりする」という噂は聞いていたが、まさか、ここまでとは。円形の穴は森へと続く真円型の門のようで、向こう側に広がる森の広さは、ここからはわからない。わからないほど奥行きは広く、まさかここが建物の中だとは、信じようとも難しかった。


 未知の光景に感動する暇を、ギズは与えてくれなかった。背嚢リュックがぐいぐいと銃口で小突かれている。


「間抜け面してんじゃねえよ、ガキ。いくぞ、先頭。先に入って、磁力を調べてやれ」


「は、はい」


 驚きで、頭が回らない。銃口を突き付けられるのは嫌だとか、我慢できるとか、感情を抱く間もなく、言われるがままに動くしかできなかった。

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