七階の森 (1)

 結局、ギズのほうが先に円い穴をくぐって森の中に入り、大きく背伸びをする。


 「ふわあ」と大あくびをするギズのそばまで追いつくと、そそくさと手首に巻いた磁力計を見下ろし、マオルーンを振り返った。


「マオルーン教官、記録をお願いします。磁力及び磁波は、針が七度に向かって揺れています。七度寄りで、注意が必要な数値です。以上」


「了解、カシホ」


 マオルーンはまだ階段のあたりにいて、学者一行を守るようにみずからの身体を壁にしていた。背嚢に引っ掛けていた記録盤を手に取ってさらさらと鉛筆を走らせた後、「さて――」と学者たちに声をかけた。


「現在、我々は六階付近にいます。階段を登り切ったここは六階、その次の七階はあの穴の向こうの森になります」


 アボットが、立ち眩みを起こしたように階段室の壁に手を置いて寄りかかる。話の続きが交わされたのは、こつりと響いた靴音の響きが消えてからだった。


「森が――あれが、その、七階なのでしょうか。――あんなに広いんですぞ。ほら、空まであるじゃありませんか」


「はい。これが孤塔です。上へ登れば登るほど、塔室の形を保っていることは少ないのです」


 マオルーンの受け答えは淡々としている。「ええ、そうです。これがここでの常識です」とみずからの態度で言い聞かせるようだった。


「なんということだ……。マオルーン塔師、我々も七階へ行ってみたいのですが」


「構いません。しかし、六階までなら問題ありませんが、七階の出入りは制限します。入っていられるのは一人一時間まで。入った後は、七階にいた時間分、必ず六階に滞在して身体を慣らしてください。それが済めばまた七階に入っても構いませんが、一人当たりが七階に滞在できるのは合わせて四時間までにしてください」


「ということは、一時間調査するごとに一時間の休憩が必要ということで、八時間はここにいられるということですね」


「睡眠時間もありますから、明日の午前までということにしましょう。寝不足と疲労は的確な判断の敵です。明日の午後から、あなた方を地上へ戻す支度を始めます」


「わかりました」


 マオルーンの先導で、学者の一行が円形の穴をくぐる。塔室の煉瓦の壁にできた円枠を越えて、森の世界――七階に足を踏み入れると、深呼吸をしたり腕を広げたりして、めいめいが惚れ惚れと周りを眺めた。


「夢の世界に入ったようだ――信じられん、これが孤塔の中とは……しかも、七階ということは、ここは地上から肉眼で見えていた――いや、肉眼で見ていると思っていた部分だ。孤塔の中は地上から見上げているのとはまるで違うというのは、こういうことなのか」


 かさり、かさり――と、人の足が動くたびに地面付近で音が鳴る。見渡す限り、地面は赤茶色や黒くなった落ち葉と砕けた小枝で覆われていた。長い年月をかけて積もったふうで、柔らかい地面は栄養豊富であることの証だ。葉屑の奥に時折覗く黒い土も、そこに根を張って上へ上へと伸びる濃い色の幹も、天を刺す針のように背高く伸びる針葉樹も――豊かな森の景色は、一行の目に馴染みのいいものだった。


「王都の森にそっくりだ。都境に広がるハジェールの森と――。針葉樹のラシャノキに、根元に繁茂するササリに、ジーツ木――苔や羊歯の広がり方まで、そっくりだ」


 六階に荷物を置き、支度を整えると、学者たちは記録板を手にして七階に入ることになった。


「ガキ、連中が一時間でそこを出るように時間をはかってやれ。それから、連中が入っていいのは磁力が六度半までの場所だ。おれが背嚢リュックを置いた場所から先にはいかないように見張れ」


「はい」


 カシホに番人役を任せると、ギズは一人で森の奥へ入っていった。






「一時間が過ぎました。戻ってください」


 番犬に追い立てられる羊の群れのように六階に戻されると、学者たちはそれぞれがとった覚書をもとに孤塔について話し合い、塔室で一時間を過ごした。時間が経つと、「あの、そろそろじゃありませんか」と許可をねだりつつ、森へ戻っていく。


 二度目の調査が終わる頃、森を包む空の色が変わっていた。空は夕焼けの色に染まって真っ赤になり、背の高いラシャノキの葉と幹の一部分が西日を浴びて金色に輝いた。しかし、不思議だ。


「太陽が、ない――」


 光はあるのに、夕焼け空をもたらすはずの天体はどこにも見えなかった。どこかに山があって隠している――ようにも見えない。やがて、空は闇の色を帯びていく。森も空も暗くなるが、森の上空には星明かりがなかった。月も、雲すらなく、空から光が薄れてしまうと、あたりは真っ暗になった。


 マオルーンは、夕食の支度を終えていた。七階の森の中で小型こん炉に鍋を乗せ、火にかける。ぐつぐつと水が湯だったところに、袋入りの調味料を注いだ。


「手伝いましょうか」


「じゃあ、器に盛ってくれ。俺は次をつくる」


 鍋が空になると、マオルーンは水袋から思い切りよく水を注ぎ、同じスープ料理を作り始める。調味料の粉が湯に溶けると、香菜の爽やかな香りと乳酪バターの甘い香りが、鍋からふわんと立ちのぼる。量の少ない乾いた食事で空腹を慰めてきた胃袋には、我慢のならないものだった。


「いい匂いだ」


 塔室で報告会にいそしむアボットたちも鼻先を向けたが、議論の方が楽しいようで、すぐに目を逸らした。


「我々は後でいいよ。塔師諸君が先に召しあがってください」


 こん炉が一つしかないので、食事は順番だ。ギズが森の奥から戻ってきたのを待って、先にいただくことになった。


「やっと飯らしい飯が食える」


 乾いた麺麭パンと、香菜と乳酪バターの羹を、ギズもマオルーンもうまそうにたいらげた。カシホは、少ない食事のひと口を大事にしようとゆっくり匙ですくっていたが、ギズとマオルーンがすぐさま次の一杯を器に盛るので、驚いた。


「おかわりして、いいんですか」


「ああ、森に出たからな。食うなら今のうちだぞ。といっても、たらふく食えるのはこういう汁料理だけだがな」


「森に出たから、ですか」


「森には飲み水があるんだ。ギズがこの先で泉を見つけてきて、水質も調べた。この料理もその水で作った」


「孤塔の水で作ったお料理――」


 つい、手の中の器を覗き込んだ。手のひらで大事に包まれた軽銀製の椀の中では、旨みのつまったとろりとした乳白色のスープから湯気が上がり、みじん切りの香菜が彩りを添えている。


「大丈夫だ、カシホ。磁力は含まれていない。孤塔の中でこういう森に出たら枝や土を持ち帰って研究施設に回すが、水や植物には磁力の影響がないとわかっている。磁力のもとは別のものなんだ」


「そうなんですか。不思議です……。磁力ってなんなのでしょうか――」


「それがわかってりゃ、おれたちはここにいねえよ。つうか、『磁力』だの『磁界』だの『磁波』だのと呼んでるものが、電磁石で作るものと同じかどうかもわかってねえんだ。似てるからそう呼んでるだけでさ」


 ギズはぐいと椀をあおって、鍋から三杯目をよそい始めた。


 食事が済むと、腰を上げた。


「水を汲んでくるよ。水袋が二つからになっただろう」


「雑用ならわたしがしますよ。下っ端なんですから」


 カシホが買って出るが、マオルーンに拒まれる。マオルーンは微笑を浮かべていた。


「いいんだ、カシホ。こいつが水を汲みにいきたいだけなんだから。――いってこいよ、ギズ。ここなら俺が見てるから、ごゆっくり」


 ギズは居心地悪そうに黒眉をひそめて、こん炉のそばでくたりと小さくなった水袋に手を伸ばした。


「少し、頼む」


 星も月もない漆黒の夜空のもと、七階の森は暗闇に包まれている。ギズは逃げるように小型電灯を提げて闇の方角へと向かったが、どこか妙だと、カシホは首を傾げた。「気が利かないガキだな、さっさと行ってこい」と罵られそうなものなのに。


「マオルーン教官、ギズ教官はなにか用事でも――」


「用事? これだ、これ」


 マオルーンは笑って、匙を持った右手を耳元に当てて見せる。


「これってなんですか?」


「『もしもーし』」


「もしもーし?」


 意味がわからなくて、やはり、カシホは首を傾げた。



 + + +



 六階と七階の繋ぎ目あたりは木々の少ない草むらになっていたが、そこから少し離れると、獣道すらない原生林となる。帰りに迷わないようにと、ギズが拠点から遠く離れることはなかった。


 森に紛れると、筒服ズボン衣嚢ポケットから携帯通信機を掴み上げて、耳に当てる。


「もしもし」


 通信相手につながると、衣嚢ポケットに手を突っ込んで煙草を漁った。一緒に取り出した火具の角を親指でいじって、煙草の先に火をつける。


「あぁ、おれだ。今、七階に着いた。聞けよ、もう森に出たんだ。ああ、今回はすごいだろ」


 ふっと吐き出した煙を暗闇にくゆらせつつ、話を続けた。


「そっちはどうだ。今、おまえは監視所にいるのか? ――夜勤? なら、計器の数値は? ――まぁ、そうだな。計器はおれたちも持ち歩いているし、外部の数値を聞いても無意味か。そうだな、警報が出たら教えてくれ。――冗談だよ、そう怒るなよ。……そうだよな。孤塔の中で通信機を使えるのは塔師だけだから、そっちから孤塔の中に連絡することはできないし――。どうしたんだよ。泣くなよ。なんだよ、おれがいなくて寂しいのか」


 通信機の向こうにいる相手に向かって、ギズはくすりと笑んだ。


「――あぁ、そうだ。この孤塔で終わりかと思うと、感慨深いよ。――カシホ? まあ、よくやってるよ。身体の不調もないし、ぴんぴんしてる。マオルーンが育てたがっていて……うん、新人にあんなに構うあいつは見たことがねえよ。相手が女だから鼻の下のばしてやがんのかな。八つも下のガキ相手に――」


 マオルーンをからかったギズを、通話の相手はたしなめた。ギズは、謝った。


「違うよ、マオルーンを馬鹿にしたわけじゃない。――ああ、そうだな。マオルーンは、おれの代わりが欲しいんだ。おれの代わりになる相棒を育てたがってるんだ」


 ぽつりと言って、しばらくの間話を続けた。そして。


「愛してるよ。おやすみ――切るよ」


 通話の相手が目の前にいるかのように笑みを浮かべて、耳に当てていた携帯通信機の電源を切り、筒服ズボン衣嚢ポケットへとすとんと落とした。


 甘ったるいやり取りの余韻に浸るようにも、通話をしていた場所から動くことなく、その場で煙草の長さが半分になるまで吸い、宙に浮かぶ煙で遊ぶように息を吹きかけた。煙草が短くなると、地面に落として靴底で火を踏み消した。


 煙草を踏み潰すのに、足元を見ていた目が上がり、前を向く時、ギズの目は虚空を睨んでいた。姿の見えない相手に向かって、脅した。


「さっさと出てこいよ。そこにいるだろうが、化け物」


 ラシャノキの森は真っ暗で、物音ひとつしなかった。普通、森は昼間よりも夜のほうが騒がしいが、この森には、夜行性の鳥も獣もいない。鳴き声も羽ばたきの音も一切しない森の中で、ギズが見つめた先は、ひときわ背の高いラシャノキの幹の、暗闇に沈んだあたりだった。


 そこにも、生き物の気配は何一つない。しかし、そこにいる「何か」の存在に気づくのは、ギズにとって造作もないことだ。


「昨日出たジェラのガキじゃねえな。てことは――、いたほうか」

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