八階の草原 (5)
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八階の草原に入ってから、三日目。目覚める頃、寝袋は、水気を吸って重くなっていた。
「気持ちわりい。ぬるくて泥臭い風呂に入ってるみてえだ」
携行用の乾いた食事を終えて、水袋から注いだ少量の水で口をすすぐと、寝袋を畳み直して
八階の草原に入ったばかりの頃は、草地はとびとびにある程度で、見渡す限りの大地は黄色い砂がむき出しになっていた。
歩き続けて二日目あたりから、様子が変わってくる。地面を覆う草の割合が増えて、水たまりが目につくようになっていき、一つ一つが大きくなっていく。湿地帯にさしかかっていた。
乾いていた土は濡れて色が黒くなり、地表には緑の草が覆うようになる。世界は色濃くなった。
「ギズ、向こうから回ろう。――カシホ、湿地に生えてる草を踏んで進め。そのほうが早い」
三人の足を守る膝丈の長靴は水に強い造りになっていたが、ぬかるみに足を取られて歩みが遅くなると、草地を選んで遠回りの
「あっちい。汗かくなあ。風呂に入りてえ」
足場の悪い場所で、大荷物を背負って移動するのは骨が折れる。カシホの足が何度もふらつくのを見かねて、マオルーンはとうとう足を止めた。
「カシホ、大丈夫か。ギズ、少し待て。荷ほどきをさせろ。カシホの分を俺が少しもらう」
カシホが背負う
「必要ない。カシホ、耐えろ。ついて来い。遅れるな」
「ギズ――」
「はい、すみません」
マオルーンの声を遮ってカシホは答えたが、息は切れていた。
ギズは先頭を歩いていた。背後を歩くカシホの様子は見えないが、草を踏む足音が時々不規則に揺れるので、よろけているだろうことはわかっていた。
ギズは知らんぷりをして前を向いていたが、少し離れた草陰に潜むリイトが、大荷物を背負って湿地を歩くカシホを心配げに見守っていることや、マオルーンの助け船を拒んだ後に、得も言えぬ恨みがましい目でギズを睨みつけたことにも、気づいていた。
その後、悔しそうに逸れたリイトの視線にも、気づいた。
(あぁそうだよ。おまえは飛び出してカシホを助けられねえし、おれに文句を言える立場でもねえ。カシホはこうやって耐えなきゃ一人前になれないんだ。誰かの手助けが必要な塔師なんて、要らねえんだよ)
孤塔は、中で何が起きるかわからない場所だ。
想定外の状況に対応できる思考の柔軟さと能力が必要になるが、それができるかどうかに男か女かは関係がないとギズは思っていたし、一通りのことが当たり前にできなければ、柔軟な対応は生まれないと信じていた。
ザ、ザシュ。後ろを振り返ることなく草を踏み続けるが、カシホに合わせて
はあ、はあ……と、後ろから聞こえる少女の荒い息を感じながら、ギズは苛立ちを感じた。歩き続けるうちに、苛立ちの理由も見つけた。
(もしかして、カシホが塔師になりたがったのは、リイトのせいか。あいつはおれがギズ・デンバーだと知っていたし、塔師のことにもある程度詳しかった。塔師になりたかったのはカシホじゃなくてリイトのほうで、カシホは、夢を継いでやっているわけか)
唇を噛んだ。クロク・トウンに来るまでの列車の中で、カシホは、レサルの磁嵐のことを話した。そこで友人を亡くしたのだ、と。
(その友人が、あいつか。それに――)
カシホが革製の帳面を持ってきていることを、ギズは知っていた。夜の休息時になると、カシホはそれを
行動を共にするにつれて、
(あれはリイトの物なんだ。あいつの夢を継いでやって、あいつの遺品を持ち歩いて、こんな場所まで来て、男と同じ荷物を担いで――大丈夫かよ。他人の夢って、そこまで背負ってやるには大きすぎるんじゃないのか)
それから、一時間ほど歩き続ける。その間カシホは一言も発せずに歩き続けた。息遣いは荒いままだが、呼吸はそれなりに整っていて、息を乱すまいと気を張っている様子が、振り返らずともわかる。
前方にいたリイトの姿は見えなくなっていた。宙を浮いて移動をするリイトは、ぬかるみに足を取られることがない。何かを思い立ったように姿を消していたリイトは、戻ってくると、遠くから懸命に合図を送ってくる。ある方向を指さしていた。先に、水源を見つけてきたらしい。
(道案内してるつもりかよ。カシホを守りたくて仕方ねえっつうのは、わかるけど――)
「水源はあっちみたいだ。方向を変える」
リイトの指がさす方へと、ギズの足が向く。
「ああ、間違いなさそうだな。緑が多く見える。――一度休憩しないか、ギズ」
マオルーンが声をかけるが、ギズは断ろうとした。
「まだ早い。もう少し――」
振り返って、マオルーンと目を合わせたところだ。視線の先が、マオルーンを通り越した向こう側に逸れる。
一行がたどってきた草地は、黄色い大地を貫く道のようにつながっていて、その線を外れると湿り気は遠のき、草がまばらに生えるだけの乾いた草原になる。
そこに、何かを見つけた。岩――のように見えるが、倒れ伏した人にも見える。
こんなところに、人が迷い込むはずがない。人の形をしているとはいえ、生者ではなく死んだ人間の魂――つまり、磁波だろう。しかし、様子がおかしい。普通、磁波になった人間は塔を登るが、そこに見えた人は、地面に這いつくばっていた。
「わかった。休憩しよう。――ちょっと見てくる」
荷物を下ろすこともなく、ギズが方向を変える。
見つけたものが居る場所は、少し遠かった。走ったほうがいい。背中から荷物を下ろすと、湿地帯を抜けた先に下ろして、駆けた。
「おい、ギズ。ギズ!」
後ろからマオルーンの呼び声がする。でも、構わず走った。
気のせいか、向かった先に見つけた人の形が、じわじわと萎んでいた。今に消えるかもしれない――と、気が逸って、かえって跳躍は大きくなる。
乾いた地面を駆け続けて、目指したものが変形して見えた理由を察すると、足はさらに速まった。駆けながら、息を飲んだ。
見つけたものは、子供の姿をしていた。十歳くらいの少年で、地面に伏しているが、どこかから歩いてきてここで力尽きたふうな倒れ方をしていた。
ギズは足を止めると、呆然と見入った。「まさか」と、倒れ伏した少年の顔を覗き込んだ。
力尽きた時そのままの姿で横たわる少年の目は、絶望を見た瞬間のままで止まっていた。頬の部分――土に触れている面を覗き込むと、ギズはとうとう口元を押さえた。
そんなわけはない――と、何度も確かめる。少年の頬や、まだ細い肩や、胴や、脚を――。
少年の身体は、溶けていた。地面と接する面は真っ平になっていて、溶けた分から地中に吸われているように見えた。
今も、ごとり――と、少年の腕が揺れる。息を吹き返したわけではなく、地面に溶けたせいで、支えを失った腕が傾いたのだ。
少年は、溶けていた。地面に吸われるようにじわじわと溶けて、溶けた分だけ姿が削れていた。遠くから駆けた時に姿が萎んでいくように見えたのは、そのせいだ。
「なんてこった――食ってやがるのか?」
幻か。地面が、食事をむさぼっているように感じた。旨い、旨いと、餌の養分を摂取することに夢中になっているような。
「ギズ、どうしたんだ」
後ろからマオルーンが追いついてくる。接面をたしかめて呆然と座り込んでいるのに気づくと、「どうした」と自分も覗き込んで、同じように息を飲んだ。
「これは――」
「だからだ。だから、死んだ奴の磁波は孤塔を登るんだ……違うな。こいつらが好き好んで孤塔を登るんじゃない。孤塔に呼ばれて深部に誘われるんだ。迷路の中を進み続けて、力尽きた後は――つまり、孤搭の餌になるために誘われて登るんだ」
「――そう、見えてしまうな」
マオルーンはぶるっと身震いをしてみせる。
「気味が悪い。カシホには見せないほうが良さそうだな――こんな小さな子供が地面の餌になってる姿なんか――」
「なにいってるんだ?」
ギズは、マオルーンの気遣いのほうが不親切だと思った。
「これを見せないつもりかよ? 十八のガキだからって理由だけで? 塔師の中でも一度見られるか見られないかっていう貴重な状況を身体で覚える機会を、ふいにさせる気かよ? 自分の目で見させてやれよ。あいつの経験が増えて、何かあった時の選択肢が増える。あいつはいい塔師になれる」
早口で言うのを、マオルーンは無言で聞いていた。ギズが唇を閉じると、笑った。
「そうだな。――こんなに新人に構うおまえを見たのは初めてだ」
かがめていた腰を戻して、マオルーンはカシホを呼びに戻っていく。
ギズは、ふてくされた。
なんだ、おまえのくせに、先輩ぶってやがるな――と、からかわれた気がした。
なぜ孤塔の中には、人の姿をしたものがよく入り込むのか。それは、塔師の間でも謎だった。でも今、溶けゆく少年の姿を見た後では、それまでになかった憶測が生まれる。
休息を終えて再び歩き出すと、会話は止まらなかった。
「どういうことなんでしょう。磁波は――死んだ人間の魂は、孤塔の栄養源なんでしょうか」
「もし本当にそうなら、孤塔に死んだ人間が寄ってくるのは孤塔が誘い込んでいると考えたほうがいい。――ずっと不思議だったんだ。どうしてこいつが塔の形をしているのかって――。下のほうなんか、次の階への脱出口は別にあるのに、階段はずっと続いている。階段を上り続けたら
「まいったな。人食い塔――その腹の中にいるってわけか。――おれたちは食われないのかな」
「俺たちは生きてるからこいつらの餌にはならないんだろうか……いや、そのうち喰われるんじゃないか。そういえば、生きている人間がここに入ったら磁波中毒で弱るか、最悪死ぬだろう。そうなったら――」
「おれたちも餌の候補ってわけか」
やれやれと、ギズは青空を見上げた。広大な草原は、真っ青な空に包まれている。
不気味な場所だとは思っていたが、そういう話になると、この空も、大地も、森も塔室もすべて、化け物の胃袋の内側に見えてくる。
青空の片隅に、弱々しく小さなものが目に入った。しょげたふうに肩を落としていたが、リイトだった。しばらく姿を消していたが、さっき見つけた少年を見に行っていたのだろうと、あまり気にしていなかった。
戻ってきたリイトは暗い顔をしていて、目が合うと、小さく唇を動かした。唇はこう動いていた。
あの子、知り合いです――
リイトがしょげているのは、そこで溶けていた子供が知人だったからだ。
それは可哀想に――と同情してやるのと同時に、不思議に思った。
(そういえば――この塔が死んだ人間の磁波を餌にしているなら、どうしてあいつは喰われてないんだ?)
一行の間では「この孤塔は人食い塔だ」という結論に進みつつあるが、そういえば、死んだ人間の磁波のくせに、孤塔に誘われて上の階を目指すこともなく、自在に移動している彼がいる。
(おかしいな――孤塔が死んだ人間を呼び寄せてる……ってのは違うのか?)
「死んだ人間が孤塔に迷い込むのは、孤塔がそれを食うため」という説の一つの例をこの目で見たが、リイトという例外も存在している。
例外が一つあれば、正解を導き出す過程はぐんと複雑になる。それなのに。
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