九階の砂漠 (1)
穴をくぐって、砂漠の階の砂地まで荷物を運ぶと、そこを拠点にすることになった。
「水場がまだ近い。今日のうちにたらふく食おう。塔師の極意は『休める時には楽をする』だぞ」
「はい、マオルーン教官」
マオルーンについて食事の支度をおこなうカシホを、ギズも呼んだ。ギズはその時、少し離れた場所で砂を採取していた。
「料理の仕方だけ覚えてもどうしようもねえだろうが。メシの手伝いをするために孤塔を登る気なのか? こっちに来い。調査のほうが重要なんだ」
「あっ、すみません――」
すぐさま腰を上げるカシホを、こん炉の前で火をつけていたマオルーンは微笑んで見送った。
「もっともだ。いってこい、カシホ。俺だけじゃなく、ギズもおまえを育てたがってる」
そう言って、「後輩の取り合いだな」とわざわざギズと目を合わせて笑う。
「は?」
ギズは、不機嫌に返した。マオルーンの目が「また先輩ぶってやがるな」と、からかうようだったからだ。
「――はい?」
カシホも、おぼつかない返事をした。腑に落ちないような顔をして、カシホはギズのそばまで走ってくると申し訳なさそうに尋ねた。
「あの、ギズ教官。何をしたらよいでしょうか」
「あほ。自分で探せ。言われたことしかやらない気か」
カシホの顔つきがさっと変わった。ギズの手元を覗き込んで、ゆっくりと言葉を選んだ。その時、ギズの手は、小さな容器の蓋を開けていた。
「――その器に砂を採取するんですね? それなら私にもやれそうです。代わってもいいでしょうか」
「当たり前だよ。おまえがやるんだ」
差し出されたカシホの手に、小さな容器を乗せてやる。硝子製の試験管で、全部で三本。受け取ると、ギズがやっていたように容器の蓋を開け、しゃがみ込み、砂をすくう。カシホの手付きや、掬い取った砂の量、採取する場所の選び方を、ギズはそばでじっと見ていた。
「砂の量は下から二つ目の目盛りまで。基本は覚えているようだな」
「研修で習いましたから。試験液は、ああ、そこですね。いただきます」
ギズの足元にあった革袋の内側に瓶を見つけると、カシホはそれを丁寧に抜き取って蓋を開けた。
「試験液を入れます。赤色反応液を五ポル、青色反応液を七ポル、白色反応液を三ポル」
「ああ、どうぞ」
生真面目に量をはかるカシホの手元を、ギズはじっと見ていた。手付きに迷いはなく、一通りの工程は頭に入っているようだ。問題ない――そう判断すると、ギズの目はカシホの横顔を追った。手に取った試験管を一心不乱に見つめる真剣な目――塔師というものを目指す少女の目――自分の夢ではなく、リイトという赤の他人の夢を追う少女の目――そう思うと、カシホの横顔がえらく危なっかしく、壊れやすい脆いものに見えてくる。ギズは、小さくため息をついた。
「なあ、カシホ。おまえさ、どうして塔師になりたいんだ」
「それ、前も答えましたよ?」
カシホは苦笑した。日々の訓練で日に焼けてはいたが、カシホは優しい顔つきをしていた。いくら男と同じ量の荷物を背負って男装じみた格好をしても、カシホにある少女の雰囲気は消えない。男と間違えられることもないだろう。
あどけない苦笑を浮かべて、カシホはゆっくり答えた。
「わたしが塔師になりたいのは、孤塔をどうにかしたいからです。孤塔を研究して制御下に置けるならそうしたいですし、そうできなければ、孤塔を壊すべきだと思います。現状では、孤塔があることによって得られる利点は少なく、むしろ、事故を引き起こす原因になっています。経済活動にも影響を及ぼしているので、エクルの発展は、これらの問題を解決しない限りあり得ないと、わたしは思います」
はあ――と、ギズの口から乾いた息が出ていった。
「教本通りのクソみたいな動機だな。本音を晒せよ。クソ優等生が」
「どういうことですか」
カシホが不満げに眉をひそめる。睨みつけるようなきつい表情をしても、いつでも壊れそうな脆いものという印象は強くなる一方だった。カシホの眉や髪の色はレサル地方の出身者に多い蜂蜜色で、同じ色の髪をもつ少年のことが、脳裏にちらついてたまらなかった。
(言えよ。おまえが塔師になりたいのは、塔師になりたかったリイトが死んだからだって――)
口に出しかけて、舌打ちをする。たとえカシホが「その通りです」と言ったところで、どうにもならないことだった。
塔師になりたい奴の動機などさまざまだ。「金が欲しいから」「社会的地位が欲しいから」「周りの奴らを見返したいから」――孤塔への興味もなく、そんな理由で塔師を目指す奴もいる。ギズもその一人だ。
「なんでもねえよ」
カシホの澄んだ目と目を合わせていられなくなって、視線を逸らした。ついでに探したのは、リイトだった。でも――。
(いない――)
リイトの気配は近くになかった。
それから、すぐのことだ。耳が何かを聞きつけた。
――いやだ。助けて。
そう聞こえた気がした。
音の出どころを探すように目を閉じて、砂漠の彼方に顔を向ける。
「何か、声がしねえか――」
「風の音ですか? この階の風は強いですものね」
草原だった八階と同じく、砂漠が広がる九階でも、風はごうごうと唸っている。
ギズは、何度か首を横に振った。
「そうじゃねえ、そうじゃ――」
悲鳴だと感じたものはもう消えていた。声が聞こえたと思った方角に耳を澄ませてみると、何かが聞こえた気がしたが、聞きつけたのは風の音ではない。単なる声でもなかった。小さな磁嵐の気配もあるような、奇妙な気配だ。
(あっちだ)
方向に気づくやいなや、耳がそちらを向く。これだ――と耳が敏感になっていくと、聞こえてくる気配に、音程や
セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――サザール・ジェイ・ド・セラ・ス・ジェラ――。
「あっ――あの歌だ」
思わず声が出る。視線で食らいつくように、歌声が聞こえた方角に目を向けた。
はるか彼方に地平線が煙る、茫漠とした砂の海の果て――そこに見つけた何かの気配にも気づく。咄嗟に探したのは、そばに立っていたカシホだった。
カシホは、こちらを向いて怪訝に見つめ返してくる。
「ギズ教官、どうしました?」
そばにいる男の動揺に驚いて、動揺の理由を探そうと、蜂蜜色の眉をひそめている。でも、ギズが確かめたかったのはカシホの表情ではなく、足元だ。カシホの足元からは、普通の人間には見えない細い糸状のものが繋がっている。繋がった先には、とある不思議な少年がいるはずだが――。
カシホの足元から、背後に広がる砂の海を見つめて、呟いた。
「いねえ……。どこに行きやがった。――カシホ、ここにいろ」
「ギズ教官」と呼んだカシホの声は、耳に入らなかった。こん炉のそばで火の番をするマオルーンのそばへ駆け、三人分の荷物の山から自分の長銃を引き抜いて、掴み上げる。
「おい、ギズ。どこへいく気だ」
「ちょっと――」
「ちょっとじゃない。勝手な行動は慎め」
マオルーンが声を荒げた。しかし、ギズに応える余裕はなかった。駆け出していた。
「ごめん」
「ごめんじゃないんだよ。おい!」
駆け抜けて行ったギズに声をかけながら、カシホもマオルーンのもとへ駆け戻ってくる。カシホは胸に試験管や器具が納められた革袋を抱えていたが、すれ違う時に何度ギズを呼んでも、ギズは振り返らない。
砂の海に飛び出していったギズの後ろ姿を振り返りながら、カシホはマオルーンのそばで息を整えた。
「マオルーン教官、ギズ教官は『声が聞こえた』って――『あの歌だ』って――」
「声? おまえは何か聞いたか?」
「いいえ。風の音が強かったのでわかりませんでした。マオルーン教官、『あの歌』って……?」
「さあ。歌といったら、今の俺にはあの歌しか思い浮かばんがな――あの、ジェルトっていう子供の……」
マオルーンは「セイラゼス・ナ・ジェラ……」と、ジェラの言葉で歌詞を歌った。
「ドナルっていう考古学者が訳を話してたな。たしか……『おお、水の母、母のもとへ願いの石を運べ、祈りを捧げよ、道行く死者は、生者の使者なり、母よ、子らに水を与えよ』とか、なんとか」
ため息をつき、砂の海の向こう側に小さくなっていくギズの後ろ姿に目をやった。
「知らん。ほかの歌かもしれない。――それにしても、よりによって、こんなところで勝手に行動するなんて――あいつはつくづく新人の見本向きじゃないな」
うつむき、額に手を置き、マオルーンは思い悩んでいる風な仕草を続けた。
「ここで待機だ。こんな砂漠の世界じゃ、目印も何もない。集合できるとしたら、八階と繋がるここしかない」
「追いかけましょう、マオルーン教官。さっきから胸騒ぎが止まらないんです」
カシホの手が、マオルーンの肩を掴む。泣き出す直前のように目が潤んでいた。
「目印ならあります。水源です」
「水源?」
「あそこ――向こうに緑色が見えるんです。きっと、湖です」
「湖?」
カシホが指さすほうに目を向けて、マオルーンはつぶやいた。
「砂漠の
ここが本来のジェ・ラーム砂海をまねた場所なら、砂の海の中のオアシス、クロク・トウンが広がる湖畔があってもおかしくない。ここへ迷い込んだ旅人はそこを目指すはずだ。この孤塔が、迷い込んだ人を誘い込む「道」を作るとしたら、この砂の世界の
「道か――」
マオルーンがため息をつく。しかし、数秒後。鍋の湯を砂に捨てて、こん炉の火を消した。
「荷物をまとめよう。ギズの分は俺が背負う」
「はい、マオルーン教官」
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