天への階段
「ここなら大丈夫です、マリーゴルドさま」と、少女は言った。
「そうね、ここなら隠れられそうね」と、王女も言った。
砂漠の民に案内された場所は、王国の果てに位置する、ジェ・ラームの塔。黄色い砂の海に突き刺さった一本の棒のように、天と地を繋いで聳え立つ、
王都や、大きな都市では、至るところで軍隊が争っている。長く続いた争いのあいだも、王の一族は懸命に匿われてきたが、どうしても守り通すべきだとする一派も、是が非でも血を断つべきだとする一派もあった。王統の血を受け継ぐ一族は何度も命を狙われながら、敵軍の足音が迫るたびに都市から都市へと移り住み、目立たないように車から馬車に乗り換え、西へ西へと移動した。しかし、ある街で、王女は家族と離れ離れになった。包囲の中から、数人の護衛に連れ出されたマリーゴルド王女は、「あとで必ずご家族に会えますから」と諭されて街を離れ、駱駝を乗り継いだ。けれど、辿りついた
砂漠の街にも追手がやってきた。隠れ家で撃ち合いになると、護衛は「お逃げください」と血まみれの顔で言った。
「今はお逃げください。必ず行方を追います。あなたさえ生き残っていれば、王統は受け継がれます。必ず生き延びてください。あなたの命はあなただけのものではない、王国の歴史すべてのものなのです」
マリーゴルド王女と侍女を街から連れ出したのは、頭から砂の色の布を被ったジェラという一族だった。「あと十日、このお方を隠し通してくれ。金ならすべてやる」と、金貨を受け取ったジェラの一族は、王女と侍女を駱駝に乗せて砂海を進み、ジェ・ラームの孤塔に隠れるように言った。
「三階より上には行かないほうがいい。いいね」と、念を押されたが、ジェラという砂漠の民が去って二人きりになり、静かな塔室でじっとしていると、心が寂しくなる。
私なんかは死んだほうがいいんだわ。私がいなくなれば、王制の復興を目指す人たちも無理をしなくなる。どうせ、王族が絶えるべきじゃないっていう人達も、私のことを利用したいだけよ。政府は別にあるんだものーー。泣きむせぶ主人を笑顔にさせようと、世話役の少女は階段を登った。そして、ある時、王女のもとへと駆け戻った。
「なんてこと、この上にハジェールの森に続く道があります、マリーゴルドさま」
二人で、少しずつ階段を登った。
「本当だわ。何が起きているのかしら……でも、すこし、苦しいわ」と、王女は言った。
「もう少しで森を抜けられそうです。ここです、ここに出口が」と、少女は言った。
「ごめんなさい、うまく歩けないの。その森を抜けたらハーツに帰れるのかしら。追手がいないかしら。セイジス達に私がハーツに戻ったことを伝えられるかしら」と、王女も言った。
「ねえ、待って。ここが本当に森の出口?」と、王女は言った。
「聞こえませんか? 水が通っているんです。水に沿って歩けば必ず何かがあります。海か、街か――。いきましょう、マリーゴルドさま」と、少女は、力なく垂れた王女の手を取って、進んだ。
二人がくぐった森の出口は、不思議な穴のようだった。
真円の円い穴の外側にはギラギラと光をはらむ煙のようなものが漂っていて、まるで、溶けた円い鏡の内側をくぐるようだった。
+ + +
人が減り、広々と使えるようになった六階で休息をとった後で、塔師一行は再び立ち上がった。
「これで足手まといがいなくなった。ああ、楽になった」
「さて、いくか」と
「準備はいいな? いくぞ」
と、ギズが先に一歩を踏み出すので、カシホは尋ねた。
「ギズ教官が先頭ですか? 先頭はわたしでなくていいのでしょうか」
「ああ、次はおれとマオルーンがやる。おまえはまず見学だな。ここから先は手順がまとめられていないから、おまえは局内研修を受けていないし、方法も知らないはずだ――」
言いつつ、ギズはカシホの顔を見下ろしてため息をつく。「そうだよなぁ……おまえ、残っちまったんだよなぁ」と落胆した声まで漏れるので、カシホはむっと見上げた。
「ギズ教官だって下塔を許可しないって言ったじゃないですか――いいえ、ギズ教官は途中で地上へ戻れって言いましたっけ? でも、あの時の状況じゃわたしだって……」
「そうじゃない。うるせえ、喚くな」
ギズは辟易と言うが、さすがにカシホにも言い分はある。
「うるせえってギズ教官……わたしだって――」
「そうじゃないって」
ギズは鬱陶しそうにしていたが「そうじゃない、そうじゃない」と繰り返す。腹を立てて黙ったカシホの顔をじっと見つめて、何かを言いかけた。
「なあ、おまえさ――なんでもない」
「なんでもないって、なんです」
「なんでもねえよ。話にもあがってねえのにわざわざ波風立てたくないって思ったんだ。――この話はこれで終わりだ。行くぞ」
腹の虫はおさまらないが、ギズはもう背中を向けている。仕方なく、カシホはそれ以上の文句を飲み込んだ。
拠点にしていた六階から、七階の森に入る。王都ハーツの周りに広がるハジェールの森に似たラシャノキの森の隙間を縫って、先頭にギズ、次にカシホ、最後尾にマオルーンと、列になって歩いた。
数日のうちに消費した食糧は学術調査隊が残していった分から補充されたので、荷物の量は孤塔に入った日と同じ重さに戻っている。
男と同じ量の荷物を背負って歩くのは、なかなか骨が折れる。森の奥へいくほど、頭上で密集した葉に遮られて森の中が暗くなるのも、少々滅入るものがあった。
やがて、背の高い木々がなくなる明るい場所に出る。ギズの足も、そこで止まった。ギズの足元には泉があって、泉の底から湧き上がる水がほとほとと鳴り、水面に波紋を重ねている。泉の正面で立ち止まったギズは、水袋の口を開いて水面に近づけた。
「昨日おれが見つけた水場だ。ここが次の階への入口になる。――カシホ、もしも孤塔で道に迷ったら、水場を探せ。ある程度の高さになると、上へと続く道の鍵は水場になる」
「水場ですか」
「ああ。階層が上がって、森だとか湖だとかが現れるようになったら、大きな変化は水がある場所で起こる。経験則だがな」
「水――」と反芻しながら、カシホは、イーシャルの声を思い出していた。
『七階の土の成分を調べていたんだ。そうしたら、孤塔の壁を削ったものとほとんど同じだった。違っていたのは水の量、湿り気だけだった。驚くべきことだよ。七階は森に見えているだろう? でも――つまり、いま僕達が見ている森は森じゃない。幻と言ってもいいのかもしれない』
(そういえば――あれは、どういう意味だったんだろう)
不思議と引っかかって、リイトの帳面の空いた頁に書き留めておいた。
リイトも、そういえば、孤塔が水と関わりがあることや、生き物が寄り付かないことを不思議がっていたからだ。
ふと、頭上を見た。針葉樹のラシャノキは、高い場所にある樹冠が小さい。天へ向かって尖るように伸びた樹と樹の間には、薄青色の空が覗いていた。
(やっぱり変だ。豊かな森なのに、鳥がいない)
白昼夢の中を漂うようなカシホを呼び戻したのは、ギズの声。
「ぼうっとしてんな。始めるぞ」
「すみません」
いつのまにか二人は長銃を構えていて、頭上の、ちょうど泉の真上あたりに照準を定めている。
「わたしも――。弾は……」
慌てて弾倉に手をかけると、マオルーンはやれやれと笑った。
「まずは見学だって言われたろ? どうした。学者連中が去って気が抜けたか」
「まずは見てろ。下がれ」と言われるので、そろそろと後ずさりをする。泉から染み出した水が地面を濡らしていて、靴底が擦れるとねっとりと泥が捏ねられる。土を覆う落ち葉や枯れ枝を靴底が汚していくのを確かめながら、やはり不思議な気分になった。
(これが全部、幻だなんて)
イーシャルが言った通りなら、ここにある土も、落ち葉も、枯れ枝も、木の幹も、樹冠も、目に見えるものすべてが塔の壁と同じ物質だということになる。とてもそんな風には見えないのに。
「あのラシャノキの樹冠あたりにしよう」「わかった」と、ギズとマオルーンはやり取りを続けている。一度、マオルーンが振り返った。
「いいか、カシホ。上へ続く道はな、たいてい泉の真上に隠れてるんだ。だから、まずは可能性が高そうな場所に二割弾を当てて脅かして、正体を現したら、二割弾で向きを操縦して、針弾で固定する。しっかり見てろよ、優等生。俺を後悔させるな」
ギズとマオルーンが目と目で合図を交わす。すぐに、マオルーンの銃口から銃弾が飛び出していく。ダムと鈍い音が鳴り、マオルーンが狙ったあたりに濃いもやが現れる。ピカッと閃光が散ったようにも見えた。磁嵐が起きた。
「当たった」
ギズが歓声を上げるように言い、続けて発砲音が鳴る。
磁波はまるで、「自在に動く靄」だった。はじめは火花を纏う雪玉のようだったが、対磁弾を食らうと一気に膨らみ、泉をまるごと覆う大きさの
「右を撃つ。逃げ場を封じろ」
「了解、援護する。――下に逃げたぞ、今だ」
対磁弾が撃ち込まれると、靄は動きを止めて小さくなり、別の方角へと広がる。まるで透明な軟体動物を追いかけるようで、ギズとマオルーンは、その靄を低い場所に追い込もうとしていた。
下へ、右へ、左へ。すばしっこい小鳥を狩る狩人のように、二人の長銃が動き続ける。そして、ある時――。
「だいぶん弱った。針弾に変える」
ギズが長銃から弾倉を引き抜き、中の弾を別の弾に入れ替える。
「今のうちだ。縫いつけろ」
「了解。――いいねえ、マオルーン。いい場所だ。そのまま動かすな」
靄は、泉から少し右にずれたあたりのラシャノキの幹にいた。泉の上や真上へ逃げるように蠢いたが、二割弾に小突かれると動きを止める。
ギズの長銃の発砲音が変わった。磁波の動きを固定する、針弾だった。
銃声が響くごとに、靄がラシャノキの幹に貼り付けられていく。二人の後ろから様子を追いながら、奇妙なものを目にしていると感じてやまなかった。
(まるで狩猟者に狙われる獲物――生き物みたい。磁波って……ううん、磁波っていう呼び方はちょっと違う気がする。この靄っていったいなんだろう。それに、この孤塔は――)
しばらくして、ギズとマオルーンが縫い付けた靄が濁っていく。うねりを持つ液体のようだった質感がさらりと乾いたものに変わっていき、やがて、形が真円形に整っていく。中央に空洞ができた――そう感じ始めた頃には、泉のそばに円い穴ができていた。
向こう側には、黄色い大地が覗いている。黄色い砂で覆われた広大な荒地で、ぽつぽつと緑色の塊が見えていた。草だ。
「道が開いた。さて、次の水場はどこかな」
ぽっかりと空いた穴は、いまや、次の空間へ続く道になっている。カシホは、ようやく気づいた。
(靄を追い回してたのは、これが八階への入口になるからだ。高い場所に固定したら、わたしたちがそこまで登れないから――)
「さあ、行こう」と、ギズの足が円をくぐる。それについて、カシホも円の向こう側に身を滑らせた。
森のあった七階も広かったが、円状の枠をくぐった先はもっと広かった。高い木は一本たりともなく、はるか彼方まで平原が続いている。
「ここが、八階」
八階は、草原になっていた。
+ + +
はっと気がつくと、リイトは明るい場所にいた。
目の前にあるのは果てしなく広がる草原の風景で、青空には雲もなく、明るい。草原とはいえ、草の茂みはまばらで、緑豊かな場所というわけではなく、黄土の表面にはひび割れが目立つ場所もあった。
背の高い木はなく、山も丘もなかった。
遮るものがない場所では、風はよく育って強く吹く。
びゅうっとリイトの頬のそばをすりぬける風は、時折ごうっと唸った。見渡す限りの広大な草原――そのど真ん中に、ぽつんと立っていた。
リイトの目から、涙がこぼれた。
(僕は、まだ生きてる――生きてる……)
悲しくて悲しくて、仕方なかった。目の縁から零れ落ちた涙が、ぽろぽろと滴り続ける。頬の
こんなもの――と、奥歯を噛んだ。
もう要らないと願ったのに。
消えたいと願って、覚悟したのに。
強い風は、草原の砂を巻き上げていた。砂粒が当たって目が開けられないので、顔の前に腕を交差させなければ立っていられないほどだ。
風に歯向かいながらうっかり一歩を踏み出して、リイトは愕然とした。
(どこへ行くんだ。行く宛てなんかどこにもない。行きたいところだってない。もういいよ。消えたいんだよ。――カシホ)
呼んだのは、幼馴染の少女の名前だった。
リイトは、身体の力を抜いた。この風に逆らう理由などない。強い風に吹かれて、砂粒のように舞い上がれ。
どこへでも舞っていけ――もう何もしたくないんだ……と、目を閉じた。
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