早朝の危機

 早朝四時ころに、俺は父さんにたたき起される。これから花卉かき市場へ花を仕入れに行くのでたまには付き合えと言われた。高木梨奈を黙って泊めてくれたのには感謝していたから、まだ眠かったけれど布団から出て顔を洗い着替える。

 ライトバンの助手席に乗り、車で三十分ほどの市場へ向かい、父さんが仲卸の店で注文した花を俺は車へ運んだ。

 一通り仲卸を回り終えると、市場にある食堂で朝食をとると父さんが言う。


「家に戻ってからでもいいじゃないか」

「いいから付き合え」


 口数の少ない父さんには幼い頃から逆らった覚えがない。怖いわけじゃないけれど、強面だから細身のくせに威圧感がある父さんの言うことは素直に聞いてきた……と思う。

 俺は盛り蕎麦、父さんはカレーのチケットを自販機で購入し、カウンターで注文し、品物を持って空いている席に座った。


 食べ終えて食器を片付けようとすると、父さんが口を開いた。俺を見据えて、やや低い声で言う。


「陽平。おまえを信用しているから、あの娘さんの事情は聞かない。ただ一つだけ言っておくが、あの娘さんの事情に立ち入るなら責任をもて。責任もてないなら立ち入るな。よく考えるんだぞ」

「……判ったよ」


 それきりいつものように無言になって、何事もなかったかのように空いた食器を持って席を立った。俺もその後に続く。


 これが言いたかったのか。まぁそうだよな。夜遅くにずぶ濡れの女の子連れて帰宅したんだ。いくら放任主義の父さん達でも一言くらい言いたいことはあるさ。


 市場から家に戻ると、母さんが店の前を掃除していた。母さんと目を合わせた父さんが頷いていた。たぶん俺に忠告するよう二人で話しあっていたのだろう。


「朝食は用意してあるから、あのが起きたらレンジで温めて食べなさい」

「ありがとう、母さん。俺は父さんと市場で済ませてきたけど、彼女が起きたらそうする」


 今日は授業も午後からで、バイトも夕方からだから、俺は午前中家の手伝いでもして過ごしていればいい。だから彼女をわざわざ起こすつもりはない。優里の予定は知らないから、あとで確認してみよう。濡れた衣服は洗濯し乾燥させてくれていると思うけど、俺が確かめるわけにはいかないからなぁ。

 ……下着もあるだろうし……。


 そういや下着も借りたのかな……などとつい不埒な疑問が湧いた。だけどそんなことは本人にも妹にも聞けない。

 余計なこと考えず、とにかく父さん達を手伝おう。


・・・・・

・・・


 店内の掃除を終え、居間でブーケ用のリボンを作っていたところへ、優里と高木梨奈が二階から降りてきた。

 昨夜着ていた服に着替え、うっすらと化粧も終えた彼女は、いつも通りの明るくて少し幼さを感じるような愛らしい笑顔で朝の挨拶した。 


「おはよう。……昨夜は迷惑をかけてごめんね」

「だいぶ前に起きて、いろいろ話して仲良しになったよ。安心してよ、お兄ちゃん」


 高木梨奈の腕に抱きつき、ニヤリと優里が意味ありげに笑う。


 クッ、ゆりの手に落ちてしまったか……。


 仕方ないけれど、不覚にも優里ニヨニヨの世話になってしまった。背中に冷たい汗が流れているのが判る。俺の身体が、これから起きるだろう俺イジリを予測して反応しているようだ。

 警戒ランプが脳内で赤く激しく回っているけれども優里には感謝している。


 俺には手の出せない領域……身の回りの世話をしてくれたようだし、どうやら話し相手もしてくれたようだ。俺に対してはイジリ気質が前面に出る妹だけど、賢いし口は堅いから高木梨奈のことでは信用できる。


 とにかくここは年長者として余裕ある態度を見せなければならない……高木梨奈に!


「ああ、優里にはとても感謝しているさ。……あ……ありがとうにゃ」


 か、噛んだ! 


 優里に礼するときにありがとうという言葉など、高校以降使ったことはない。センキュー、メルシー、ダンケ、グラッチェ、グラシアス、などと、ちょっとふざけて礼を返してきた。だって優里は、中学くらいから積極的に俺をイジるようになって、俺の中では敵性家族という認識だったんだ。

 だからありがとうと言うと何か負けたような気になって、何と戦っているのか判らないけれど、とにかく他国言語で感謝を伝えていたんだ。

 だもんで、優里に感謝をするかと思うと緊張していたのかもしれない。


 そしてそんな俺の状況を優里はやはり察している。この敵性読心術者め……。

 目を細めニヤリの度合いを強めて笑い、悔しいことに慰めてきやがった。


「慣れないことはするもんじゃないよ。とにかく梨奈さんのことは任せてよ。携番交換したし、LINEも登録しあったしね」


 え? 俺とは携番もLINEもまだなのに?

 驚いて目が大きく開いた俺を観察し、イヒヒと言いそうな勝者の笑みを優里は浮かべている。


「そ、そうか、うん、良かった。あ、そうだ。母さんが朝食用意してくれたから、レンジで温めて食べてってさ」

「うん、了解」


 そう言って優里は台所へ向かう。

 テーブルの上でワイヤー入りリボンをハサミで切っている俺に近づき、高木梨奈が訊いてきた。


「陽平くんは何をしているの?」

「ああ、ブーケ用のリボンを作っていたんだ。邪魔になるから片付けるね」


 朝食をとる時に、リボンが散らばっていると邪魔だろうからと、俺は紙袋にしまい込む。


「ふーん、授業以外だと、カウンターで飲み物入れてるか、コーヒーの練習している陽平くんしか見たことないから新鮮だね」


 将来は家業継ぐのだからと、リボンやラッピングだけでなくアレンジフラワーのアレンジし直しとかも手伝わされることもある。だから客に見られても何とも思わない作業。

 だけど高木梨奈に見られていると思うと照れくさいというか恥ずかしい。だって男が、色やデザイン様々のリボンを作っている様子なんて、格好いいもののように思えないからさ。いつもは仕事だからいいじゃんと思っているけど、今はなんか恥ずかしい。


 それに、肩のそばまで近づいてる彼女の髪から良い香りがして……といっても、優里も使っているシャンプーか何かの香りなんだけどさ……どうも落ち着かない。


 なんか啓太に腹が立ってきた。

 きっといつも近くでクンクンしていたのだろうと思うと、とにかく無性に苛ついてきた。髪からだけでなく肌の香りとかも嗅いでいたのだと思うと、テーブルをつい叩きそうになるほど苛ついてしまった。


「面白そうだねぇ」


 耳元の彼女の声でハッとして落ちつけ落ちつけと言い聞かせる。


「そう? だったらうちでバイトでもするかい? ……なんてね」


 つい言ってしまったけれど、啓太のアパートからそう離れていない我が家でバイトなんかするわけないよな。


「それいい! 梨奈さん、うちでバイトしなよ~」


 温め直した魚の煮付けや、味噌汁をお盆に載せて優里が戻ってきて、嬉しそうに言う。俺でさえ高木さんと呼んでるのに昨日会ったばかりの優里が梨奈さんと呼んでるのがちっと悔しい。

 ずるい! 俺も名前で呼びたい!


 しかし、さっきから悔しがってばかりだな俺。


 本当なら、俺と妹が家の手伝いをもっとすべきなんだ。でも、大学卒業したらずっとやることだし、花に関係のない仕事を覚えたくて俺は喫茶店で、出来のいい優里は家庭教師のバイトしている。父さん達も学生の間はそれでいいと言ってくれたので甘えている。

 父さんと母さんも、バイト雇おうかと話しているから彼女が働いてくれると言ったら喜ぶだろう。

 彼女と働けて会える機会が増える俺は言うまでもなく、すげぇ嬉しい。これからはバイト先で会えなくなるみたいで寂しかったからなぁ。


 あ、つい喜んでしまったけれど、でも……でもだよ?

 それって俺には刺激強すぎないか?

 それに、彼女のことが好きだとか、無駄に格好つける奴だとバレる可能性も高くなるわけで……。


 身近にいるようになって嫌われちゃったりなんかしたら、俺凹むわぁ……。

 いや、我が家のバイトも辞めちゃうかもしれない。それも切ない。


 彼女は別れると言ったけれど、まだ啓太との別れが決まったわけじゃない。

 女心と秋の空って言うもんな。

 啓太と……啓太以外とでもだけど、誰かと付き合っている高木梨奈がうちでバイトするとなったらしんどくて泣ける。マジで家出したくなる。


「あー、ま、まぁ、いろいろ慎重に考えて決めてよ」


 高木梨奈がうちでバイトするのは危険デンジャラス! なんて言えない俺は、リボンをしまった紙袋を持って店へ逃げた。

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