陽平くんの薔薇
湯煙
雨宿り
二年前の夏、大学の友達と楽しそうに笑う彼女を見ていたら、ツクンと胸の奥で何かが鳴った。
この切なくて苦しい気持ちは恋に違いない。そう思った。
彼女にこの気持ちを伝えたい。
もっと一緒に過ごして俺のことを知って欲しかったし、彼女のこともたくさん知りたい。
今日も楽しそうに会話している彼女を見かけたとき、やっぱりそう思っていた。これまでの二年と同じように。
◇ ◇ ◇
バイトからの帰宅途中、急に降り出した大雨。断続的に雷が落ち、背中に寒気を感じるほど轟音が時折響く。稲妻が光るたび建物の陰まで明るく見える。
折りたたみ傘を鞄に忍ばせておかなかったから、駅からここまで歩く間に頭から靴先までビッショリと濡れてしまった。今朝観たTVの気象予報で、局地的に豪雨の可能性がって言っていたのに甘く考えていたのをとても後悔している。
もうパンツまでビシャビシャだ、参ったなぁ。ゲリラ豪雨だろうから三十分から一時間も経てば、雨も小降りになるだろうけど、どうしようか。
「
うん、気象庁に笑われそうだ。
……後悔するたびに俺は馬鹿だな思う。だけどまったく直らない。
こんな俺を妹が呆れるのも当然だ。
風が弱いのが救い。これで風まで強ければ横殴りの雨となり、もう早々と店仕舞いしシャッターが降りたタバコ屋の軒先では雨をしのげなかっただろう。この辺りでいつもなら遠くに見えるビルの灯りも、黒く厚い雲のせいか、それとも壁のように降る雨のせいかまったく見えない。
無理をしてでも帰るか? いや、雨はともかくこの雷だけでも止んでくれないと……。
ヘアスタイル? 何それ美味しいの? と言いたくなるレベルまでずぶ濡れになってしまったんだし、これ以上濡れたところで状態が悪くなることもない。それより早く帰って風呂入って着替えた方がいいに決まっている。
だけど、一瞬真昼になったかのように光り、打ち上げ花火が咲くところを真下で観ているかのような爆音が鳴っている中歩き続けるのはやっぱり怖い。
あと十五分も歩けば帰宅できる。でも、雷が遠くに去るまでここで待とうと俺は決めた。
雷ごときにビビりやがってと言われても知らん。怖いものは怖い。
「あれ、陽平くんじゃない? 傘、忘れたの?」
聞き覚えのある声が聞こえた。
……ごめん。聞き覚えがあるなどとすかしたこと言ったけれど、そうじゃない。片言でも、恋愛アニメの大人しいヒロインを演じる声優のような可愛らしい声が聞こえたら、ビクッと速攻で反応するほどよく知っている声だ。
一年次から二年、ずっと惚れている女性の声を聞き分けられないはずがない。
声のする方に顔を向けると、白いストライプが入ったダークブルーの傘の陰から
サラッとしたセミロングの、やや緩やかなウェーブのかかっているブラウンの髪が、雷が光るときだけ傘の陰からチラッと見える。飛沫のせいか濡れているように見えるピンクっぽい唇にドキッとする。
誰が何と言おうと、俺にとって世界で一番魅力的な女性の姿に、雷にビビっていた気持ちがどこかへ消えていった。
「ああ、うん、天気予報でゲリラ豪雨があるかもと言っていたのは知っていたんだけどなぁ」
「油断大敵だぞ? 仕方ないなぁ。これから啓太のところへ行くから一緒に行こうよ。傘を借りればいいでしょ?」
落ち着いた雰囲気の大きな瞳で微笑み、足早に近づいてきた彼女は、軒下に入って傘を閉じる。張りだしたビニールの屋根に当たる雨音は大きいはずなのに、彼女の声だけが耳に届く。
「ありがとう、でもいいよ、ここで雷が弱くなるのを待っているから」
「……いいから一緒に来てよ……雷、あまり得意じゃないんだから」
素直についていかない俺に、やや声を落して高木梨奈は恥ずかしそうに言う。強くアスファルトを叩く雨音にまぎれて聞き取りづらかった。だが、彼女の声だけは俺の耳が聞き逃さない。
……か弱さを感じさせる声が愛らしくて、心臓の鼓動が更に強くなっている。
雨の匂いに彼女がつけている柑橘系香水の香りが混じっている。相合い傘で彼女から漂う香りをすぐ隣から感じたら、絶対に肩を抱きたくなる。
でも、我慢しなくちゃいけないからきっと辛いだろうなぁ。
彼女と一緒に行くと、啓太に借りを作りたくないだけでなく、俺の脆弱な理性にストレスを与える苦行までも加わる。雷が収まるまで待っているのも退屈だけど、やはりここで分かれた方が今夜は心安らかに眠れそうだ。
だけど、雷を怖がっている彼女に一人で行けと言うことも出来そうにない。
俺の肩の辺りにある彼女の顔を見下ろすと、その表情はお願いと言っている。雷は怖いけれど、惚れた女に頼まれては仕方ない。
なけなしの勇気はこういうときに絞り出すもんだ。
「はぁ……しょうがないなぁ、一緒に行くよ。啓太の家は近いの?」
「ほんと? ありがとう! ここからなら三~四分」
啓太が同じ駅だというのは知っていた。だけど我が家と徒歩十数分程度のところとは知らなかった。
しかし、俺の気も知らない彼女のパァッと明るくなった笑顔が、可愛いやら困るやら。こんなに間近で彼女のこの愛らしい笑顔を観られたのはすげぇ嬉しい。脳内メモリに保存しとこう。
だけど、あと三~四分の距離なら俺は要らないんじゃないの? と思わないでもない。
「そのくらいなら一人で行けるんじゃない?」
「うん。陽平くんと会わなかったら一人で行けた……と思う。でも一緒に行ってくれそうな陽平くんに会ってしまったら……ちょっと安心したのか、一人がとても怖く感じて……ごめんね」
俯いて、髪に隠れて彼女の表情は見えないけれど、きっと伏し目がちに恥ずかしそうにしているんだろうな。
……見てぇなぁ。
うん、彼女に頼られてるのは素直に嬉しい。だが、ここで照れ顔の俺を知られるのも何か悔しい。
表情筋に力を込め、口元が緩まないよう気をつける。
「いいさ。じゃ、送るよ」
俺の顔を見上げて微笑み、もう一度ありがとうと口にして彼女は傘を広げた。
ヤバイ! やっぱ可愛い。
クリッとした目を細くした笑顔がとにかくいい。この笑顔を見るたび、性格の良さが彼女にオーラを与えているといつも思う。
この笑顔も脳内メモリに残しておこう。出会ってからこれまでのも併せると相当の数があるはずだけど、良いモノはたくさんあっていい。
傘は俺が持った方がいいのかなとちょっと思った。だけど、傘を差している方が彼女は濡れないんじゃないか? と考えて口にするのをやめた。
でも実際に歩き出すと、俺に雨がかからないように彼女は傘を差す。
「女の子が雨に多く濡れるようなことしたら、俺が格好悪いだろ?」
そう言って傘の柄を持つ。雨に濡れて少し冷たい彼女の手に触れてドキッとした。
この程度はセクハラじゃないよね? とドキドキしつつ彼女から傘を受け取る。
「啓太のところで着替えるから大丈夫なのに……」
二人は付き合って半年ほどと聞いている。一人暮らしの菊沢啓太と多くの時間を過ごしているのだから、彼女の着替えが啓太のところに有ってもおかしくない。そんなことは判っている。でも彼女の口から当たり前のような口調で聞きたくはなかった。
ちょっと気持ちが沈んだけど、肝の小ささを誤魔化し慣れてそろそろ十年になる俺に隙はない……はず……。
彼女に雨がかからないよう傘をずらし……。
「もうこんなに濡れてしまったんだし、俺のほうこそ大丈夫。高木さんが雨に濡れて風邪でもひかせたら啓太に怒られるから」
彼氏持ちにアピールしても仕方ないんだけど。でも彼女の前では少しでも格好つけたい。
なんてこと思っているけれど、チョンと肩が触れるたび、大きく鳴ってる心臓の動きを悟られないか心配しながら歩いている。
……自分の若さが憎い。
そうだ! 今日ネットで観た
あれ、ちっと怖いから、ドキッてるこの気持ちも少しは落ち着くことだろう。
「フフフ……ありがとうね」
そう! この一言と笑顔が見られるならいくらでも雨に濡れてやる!
こんな格好いいこと思った俺だが、柑橘系の香りとシャツ越しにほのかに伝わる体温にドキドキが暴走しつつあった。その蠱惑的な魅力と戦うために、六本の触手で餌に襲いかかるクリオネを想像して肩を並べて歩いていたのは彼女に言えない。
俺、ホント格好悪い男だよなぁ。
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