バイト最終日
喫茶店スタンランプでの最後のバイトの日、二年半見慣れた空間を眺めていた。
落ち着いた色彩の家具で統一された店内に、最後に淹れたコーヒーの香りがほんのり漂う。やや落した照明の中、ここで経験したいろんな思い出が浮かんでくる。
最初はホールで接客し、メニューをしっかりと覚えるまではオーダー取りも緊張した。初めて受けたオーダーがブレンドコーヒーで、客のテーブルに置いた時嗅いだ香りに魅入られた。その時の客の顔など覚えていないけれど、あの時感じた魅惑的な衝撃は今でもはっきりと覚えている。
休憩時間にブレンドをお願いして飲んで、そのまろやかで落ち着く味にまた衝撃を受けた。
俺もいつかこんなコーヒーを淹れられるようになりたい。そう思っていた。
カウンターで働いていたバイトが辞め、その後釜に俺がつくかと店長から打診された。だけど、三年次の十二月からは家業の勉強に集中すると決めていたから、半年ほどでバイトは辞めなければならない。そのことを正直に話し、でも、美味しいコーヒーを淹れられるようになりたいという気持ちも伝えた。
店長は、息子の隆史さんの仕事を見ながら勉強することを笑って許してくれた。ありがたかった。俺が半年ほどで居なくなることを考えると、俺じゃなく別の人をカウンターの中に入れて勉強させたほうが二度手間にならなくていい。なのに、俺の希望を受け入れてくれた。
この店は気持ちの良いバイト先で、店長や隆史さんは厳しいときもあったけれど、おかげで仕事への心構えを学べた。
たかがバイトと言えばそうなのかもしれない。でも、俺にとってはそんなに簡単に割り切った言葉で片付けられる場所じゃない。
大学卒業後、俺は家業を継いで花屋を続けていく。仕事を続けていく上で、大事なことの一つをここで教えて貰ったように思う。
最後のコーヒーを淹れ終え、片付け掃除しながらちょっとした感傷に浸っていた。
その後着替えて、ずっと使ってきたエプロンを洗濯箱に入れる。店長と隆史さんに最後の挨拶をする。「大学の帰りに顔出してね」と店長から一言。
「はい」と返事して俺は店を出た。
すると、俺を高木梨奈と長沢優衣の二人が待っていて「お疲れ様」と言ってくれた。
嬉しかったし照れくさくて、頭を掻いて俯いた。泣きそうとかそういう湿った感情はなかった。
照れながらも、何故この二人が一緒に? と、俺はこの後どういう反応したらいいのか悩んだ。
長沢優衣が気持ちを俺に伝えてくれた日からまだ二週間ほどだけど、彼女の行動は俺を驚かせている。
まず、実家と同じ通りにある喫茶店でバイトを始めた。バイトが終わるとうちへ来て、俺に喫茶店での仕事について訊いてくるようになった。「そんなことバイト先で聞けばいいじゃないか」と言っても、「他の店の仕事も勉強になるでしょ?」と俺の抵抗など問題にしない。
うちの店の閉店時間を見計らったようにやってきて「駅まで送ってよ」と要求してくる。
「就活は大丈夫なのか?」と訊くと、「そっちも全力で頑張ってるから心配ない」と笑う。それだけでなく「心配してくれて嬉しい!」とまで付け加えてくるあたり、恋愛強者の戦闘力を思い知らされる。
「押して押して押しまくる」と言った長沢優衣の言葉は真実だった。
「なんで俺が……」と言っても、まったく意に介さない。高木梨奈がそばに居ても気にしていないかのようなストレートな姿勢に困るやら、でも、俺にはなかなかできないことで……羨ましいやら。
高木梨奈は、長沢優衣の態度を気にしているのか気にしていないのか判らない。父さん達に花やアレンジに関する質問して仕事に集中しているように俺には見える。花関係の仕事に就くと決めているようだから、それは当たり前でちっともおかしくはない。
だけど、もしかして少しは好意をもってくれているかもと、淡い期待を持っていた俺はそれなりに凹んでいる。
「ありがとう。でもバイトを辞めるだけなのに……照れくさい」
照れ笑いして、二人にペコッと軽く頭を下げた。
そろそろ十二月になる風は冷たく。モコモコに着込んでいて、二人とも可愛らしい。女の子らしい可愛らしさの高木梨奈と、ちょっとボーイッシュな長沢優衣。タイプは違うけれど、女性二人と歩くのは気恥ずかしさもあるけどやはり嬉しい。
だが、この三角関係……と言ってもいいと思う状況の三名で歩くのは、どうも気まずい。何か話さなきゃと考えても良い話が浮かばない。
それに長沢優衣が矢継ぎ早にバイトであった出来事を俺に話してきて、じっくり考える余裕を与えてくれない。
(俺は、どうしたらいい?)
悩んでいるうちに駅に着く。大学の最寄り駅からは、俺と高木梨奈は同じ方向で長沢優衣は逆になる。
ここで長沢優衣とは別れるから、やっと高木梨奈と話せるなと内心ホッとしていた。
やっぱり俺って情け無いなぁ。
「長沢さんって明るくて、積極的な人だね」
二人並んでホームで電車を待っていると、高木梨奈がボソっと言う。
これは素直に長沢を褒めているのか、それとも別の意図があって言っているのか、恋愛経験値の少ない俺には判らない。
「そうだなぁ。でも、どう相手したらいいのか……」
俺が高木梨奈のことを好きだというのは長沢優衣には伝えた。だから彼女の気持ちを受け取ることはできないことも彼女は知っている。にも関わらず、押してくる。
迷惑だと伝えるべきなんだろうか?
「気持ちに正直に動けば?」
向かい側のホームを見たまま俺を見ずに言う。
少し突き放したような物言いに聞こえた。これは俺のことなど自分で決めろという本音なのか、それとも少しは妬いてくれたりしてくれているのだろうか?
「ああ、うん、そうだよな。……あ、長沢さんとは店の前で偶然会ったの?」
「そうだよ」
一言だけの返事に、何かプレッシャーを感じた。
「……今日の格好は、とても可愛いね」
「ありがとう」
ボリュームあるやや薄めのブラウンのニットセーター、上着より濃い目のブラウンの……素材は判らないけれど長めで厚手のゆったりとしたスカート。そして最も濃いブラウンのショルダーバッグ。
ブラウン系で統一されたコーデの高木梨奈は小熊のような愛らしさで、ギュッと抱きしめたくなる。
だが、険があるとまでじゃないけれど、いつもより冷たい物言いのように聞こえて、いや、俺の勘違いかもしれないのだけど、次の会話はどうしたらいいの? 状態になる。
電車が来て一緒に乗った。
走り出しても窓の外を眺めているだけで何も言ってくれない。
そうこうしているうちに彼女が降りる駅に電車が着く。
「じゃあね」
やっと振り向いて帰りの挨拶をしてくれた。
でもこのままじゃいけない、何か行動しなくては……あ、俺は長沢優衣を少しは見習おうと思ったんだ。
「あの、遅いから家の前まで送るよ」
そう言って、俺は彼女の後を追って電車を降りた。
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