逃げてしまった

 高木梨奈のバイト終わりの時間が近づき、彼女に飲んで貰おうと俺はサイフォンでコーヒーを淹れていた。ポコポコと沸く湯を見つめていると店の方が騒がしい。

 今夜は父さんと母さんはそれぞれ用で出かけていて、店には高木梨奈しかいないはず。

 何が起きているのかと覗きに行くと、客が大声を出していた。


「だからこれがいいんだ!」

「しかし、満開に咲いた花は商品じゃないんです。申し訳ありませんがお売りすることはできません。お金はいただけませんのでお持ちになって結構です」


 状況を察するに、陳列している商品から、満開になった花を高木梨奈は取り除いていたのだろう。

 彼女が廃棄するため片手に持った白いキバナコスモスを指さして中年の男性客が怒っていた。

 どうやら満開になってしまった花を買いたいというお客のようだ。


 満開になった花はすぐ散ってしまう。すぐ散ってしまう花を売ったら店の信用に関わる。

 本来は売れないし、うちでは無料でも渡さない。通常は事情を説明すると判ってくれるけど、どうしても欲しいというお客には無料で渡すことも稀にはある。


 高木梨奈も最初は売れないし、無料でも渡せないと説明しただろう。だけど、あまりにもうるさく欲しがる客だから、無料で持っていって構わないと言ったはず。

 彼女は父さん達から教えられた通りに接客している。


「馬鹿にするな! 金は払う」


 客は酔っ払っている様子で、理屈が通じていないようだ。いや、判っていても意地になってるんだな。

 俺は高木梨奈と客の間に入った。


「お客様、お店の信用の問題なんです。すぐ散ってしまう花をお売りすることはできません。もう商品じゃありませんからね。本来なら、無料でお渡しすることもできません。ですがどうしてもと仰るので、無料でお持ちになってくださって結構ですと申し上げているのです。もちろん包装の代金は頂きますが……」


 「奥へ入っていて、客とは俺が話しをつける」と高木梨奈に伝える。頷いた彼女が店の奥へ入っていくと、客が俺を睨んでまた大声を出す。


「おまえは何だ!」

「そんな大きな声で言わなくても聞こえますし、ちゃんと答えます。私は店主の息子です。両親は留守にしていますので、私がお話を伺います」


 俺は努めて冷静に対応したつもりだが、それが気に入らなかったようで、客は手にした鞄を振り回した。


「生意気なガキだな、気に入らねぇ!」


 酔って足下がふらついているのに振り回した鞄が俺の顔にドンッと当たった。革製の鞄の角が当たり、ちょっと痛かったけれど、我慢できないほどではない。

 それに酒を扱っていない商売でもこういう機会はある。過去に何度か目にしてきた父さんの対応を思い出し、俺はとにかく冷静でいようと心がけた。

 すると、当てるつもりはなかったようで、客も我に返ったようだった。


「あ、当てるつもりは……」

「はい、判っております。今夜はだいぶお酒が過ぎているようですから、今日はこれでお帰りになられては? 花がご入り用でしたら、また明日にでもお越し下さいませ。お待ちしております」


 この客も普段は大人しい人なんだろう。鞄を俺に当ててしまったと気付いてから急に静かになった。表情も我に返って驚いている様子。

 俺は深々と頭を下げて、客にニコリと笑顔を見せる。


「ああ、うん、すまなかった……」


 ペコリと頭を下げて、客は俺に背を向けて帰路についた。

 その様子を確認して俺は店内へ入る。


「大丈夫だった?」


 頬をさすりながら戻る俺を見て高木梨奈が心配そうに声をかけてきた。


「ああ、平気、平気。それより酔っ払いに絡まれて怖かったでしょ? 高木さんこそ大丈夫?」

「私は平気。スタンドランプでも酔っ払いの客に絡まれたことも何度かあって、少しは慣れているから……」

「そうかぁ、それならいいんだけど、客商売しているとこういうことあるからねぇ。さ、時間だし店を閉めちゃおう」


 俺は格納用冷蔵庫キーパーに、手近なところに置いてあるネリネの鉢植えを仕舞いだす。


「陽平くんはいいよぉ、私の仕事だし……」

「店に出てきたついでだよ。コーヒー淹れるから、早く仕舞って一緒に飲もう」


・・・・・

・・・


 彼女をライトバンの後部席に乗せて駅まで送り、改札を通るまで見守ってから帰路につく。彼女を送るときはいつも同じだ。今夜も、彼女が降り「おやすみ」の挨拶を聞いた後、背中を見送っていた。

 いつもならそのまままっすぐ改札に入っていくところなのだが、改札から出てきた男に呼び止められている。

 

 よくよく見ると、彼女に声をかけているのは啓太だった。

 まぁ、別れたと言っても知り合いだし、挨拶くらいするのはおかしくない。


 ……嫌だけど。


 とにかく、彼女が改札をくぐるまではと見守っていた。

 すると、啓太が高木梨奈の腕を掴んでいるのが見えた。何が起きたかと俺は車から降りてツカツカと近づく。何やら啓太は笑いながら話していて、彼女は手を引き離そうとしている。


 俺は駆け寄って「手を離しなよ。嫌がってるじゃないか」と啓太に注意した。


「あれ? 渋木じゃないか、どうしてここに?」


 見られて気まずかったのか、彼女の手を離して俺にいつもの爽やかな笑顔を向けた。


「俺の家もこの駅なんだよ」

「そうかぁ、ここに居るのは偶然じゃないように思うんだけど?」

「そんなこと啓太には関係ないだろ」

「そりゃそうだ。でも、俺が梨奈と話すのも君には関係ないんじゃないのかな?」

「彼女が嫌がっているように見えたから……」


 ふーんと言いながら啓太はニヤニヤと俺を見る。


「もしかして……梨奈のこと好きなんだ?」


 俺の斜め後ろに逃げている高木梨奈の前で、気持ちを見透かされたように言われて動揺した。


「……それも啓太には関係ないだろ」


 彼女に聞かれているから動揺を抑えきれている自信がない。

 だが、ここでは知らんふりの一手。


「そうでもないんだな。梨奈は俺と別れてからアパートも変えて、着拒されてるから連絡つけようがなくてさぁ。今更、よりを戻そうってわけじゃないけれど、気分は悪いじゃないか」

「啓太にはファンが多いんだから、連絡つけられない女性が一人くらい居たって気にすることないんじゃないのか?」

「まぁねぇ。それで陽平は俺の元彼女でいいの? お相手の顔を知っているのって嫌じゃない?」


 ちくしょう、なんって嫌な奴なんだ。

 頭にきて拳を握るのを止められない。啓太は元ラグビー部。陸上部だった俺より喧嘩は強そうだ。だけど、一発殴ってやらないと……。


「……喧嘩売ってるのか?」

「ああ、ごめん、ごめん。梨奈が君を頼っている様子が悔しかっただけさ。そう怒るなよ。もう梨奈には手を出さないからさ、約束するよ」


 俺が本気で怒っているのを察し、降参というように手をあげる。そして「ごめんね」と俺と高木梨奈に謝って背を見せ駅から出て行った。啓太が家路についたのを確認して振り返った。


「あ、あのぉ、余計なことしたかもしれない……ごめん」


 彼女と向き合って我に返る。

 感情にまかせて啓太と言い争いしたことを俺は少し後悔していた。俺の目には彼女が嫌がってるように見えたけど、彼女の意思を確認するのを忘れていた。


「ううん、今日は二度も助けて貰ったね」


 店でのことは将来の店主として当たり前のことだし、啓太とのことも俺が嫌だっただけだ。彼女を助けたなんてちっとも思っていない。上目遣いで微笑んでくれる彼女にお礼を言われるようなことではない。


「助けたなんて……、あ、もう遅いから帰った方がいいよ」


 俺の感情とは関係なく若いパトスがムクムクと湧き上がってきたので、彼女から目を逸らす。

 何か言いたそうな空気を彼女から感じる。


 まずい。

 まだ心の準備がきていない。

 彼女が聞きたいことは、啓太が言ったなんじゃないかと感じて、俺は逃げた。


 勘違いかもしれない、でも予想通りかもしれない。

 とにかく俺の気持ちはまだ告げられない。その準備がまだできていない。


「あ、車を動かさなきゃ、また明日ね」


 俺は彼女の顔も返事も確認することなく、車を置いてある駅のロータリーまで走る。

 ライトバンのそばで、パトカーからの「ここは駐車禁止ですよ……」とスピーカーから流れるのが聞こえて、苦手な短距離ダッシュした。

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