冬が近づいたある日


 菊沢啓太と駅でちょっとした言い争いしてから一ヶ月が過ぎ十月も末。冬も近づき、首元で感じる風は身体をブルッと震わせ、吐く息もたまにうっすらと白くなる。


 俺はと言えば、高木梨奈との関係に進展はなく、就職活動に忙しい大学の連中を横目に平々凡々と生活していた。実家を継ぐから就活しないで済んでいる俺だけど、最近は家の仕事を覚えたりして忙しい。まぁ、合否を気にせずに生活しているから、ヌルいと言われても仕方ないかもしれない。


 高木梨奈も就活しているようだ。だけど、他の同期と比べると深刻さは感じない。その理由は判らないけれど、気を張って毎日愚痴をこぼしているよりはいいと思っていた。下手に聞いて深刻な話を聞かされても、就活していない俺にはどう答えていいか判らない。

 気に障るようなことを無自覚に言ってしまうかもしれないのは嫌だ。


 ――もうじき十一月かぁ。今年も一人身で終わりそうだなぁ。


 高木梨奈に積極的にアプローチすることもなく、現状維持でいいから彼女に嫌われないようにとしか考えていない俺が、いまだ一人なのは当たり前。ため息ついていることさえ、優里から見たら「馬鹿じゃないの」と言われそうな状態だ。 


 高木梨奈に新たな彼氏ができていないだけ儲けもの。

 俺はそんな感じだった。


 大学の授業が終わりバイトへ向かう路上で、一年次と二年次に同じクラスだった長沢優衣ながさわゆいが背後から声をかけてきた。ちょっとボーイッシュで、賑やかで誰とでも仲良くなる才能を持つ同級生。アーチェリーサークルの仲間と一緒に居て、何人かは顔見知りだ。

 俺が振り向くと一人だけ駆け寄ってきた。


「渋木くん、これからバイト?」

「そうだよ」

「ふーん、いろいろ聞いてるよ~。高木さんとのこと」

「はぁ? 何それ」

「噂、噂だけどね」


 俺はムッとした顔をしているだろう。長沢優衣の軽い感じに実際ムッとしていたし。

 どんな噂か知らないけれど、高木梨奈に迷惑がかかるようなら何とかしなくてはいけない。


「どんな噂だよ」

「どうしようかなぁ……、そうだ、バイト休みの時食事奢ってよ。そしたら教えてあげる」


 俺のバイトが休みの時というと、高木梨奈がうちでバイトする日だ。

 バイト休みに奢れとわざわざ言うのだから、大学でとる昼食ではなく街で夕食をということだろう。となると、彼女がバイト終わったあとに車で送れない可能性が高くなる。


 高木梨奈と二人きりになれる……ささやかだけど大事な時間を潰してまで知る必要のある噂なのか?


「そこまでして知りたいわけじゃない」

「へぇ~やっぱりそうなんだぁ」


 思わせぶりな態度に俺はムッとした。顔色も少し変わっただろう。


「何がだよ」

「渋木くんがバイト休みの日は、高木さんとドライブしているらしいって……」


 俺が高木梨奈とドライブ?

 そりゃしたいけど、思い切り海岸線飛ばしたりしたいけれど、車だと数分の送迎をドライブと見られているとはね。


「そんなんじゃない。うちでバイトしてるから、遅くなったら駅まで送ってるだけだ。適当なこと言いふらすなよ」

「ふーん、大切にしてるのねぇ。じゃあ、私が渋木くんのお家でバイトしても帰りは送ってくれるの?」

「遅かったらな」

「そっかぁ。まぁ、そんなにムキにならないでさ。じゃあね」


 苛ついている俺に苦笑し、バイバイと手を振って、長沢優衣は仲間達のところへ戻っていく。

 他人の私生活なんかどうでもいいだろうに、うるさい奴だ。


 しかし、俺のことはどうでもいいけれど、高木梨奈に迷惑がかかるような噂じゃなければいいんだけれど。俺は漠然とした不安を感じていた。


 気になるけど、今日は俺の淹れたコーヒーを店長に試飲して貰う日。気持ちが揺さぶられて味に変化が出ては困る。

 店長に合格を出して貰うこと。これが今年の目標だから、どうしても上手く淹れたい。


 噂のことは、帰りまで忘れよう。


・・・・・

・・・


 閉店後、俺はコーヒーを淹れている。カウンターには店長だけが座り、俺のコーヒーを待っていた。サイフォンから温めたカップへコーヒーを注ぎ皿に置く。それを店長の前に置き、「どうぞ」と声をかけた。


 カップを手に取り、漂う香りを確認している。そして口元までカップを寄せて、一口コーヒーを口に含んだ。

 俺は店長の反応を緊張して見守っていた。

 カップを皿に置いた店長が俺をじっと見て言う。


「合格。あとはこの味をいつも出せるように気をつけて欲しいね」


 俺が淹れたブレンドをまた一口飲んで、喫茶店スタンドランプの高橋雄介店長がニッコリと笑った。


 よし! よし! よぉーし!


 少し照れてる俺だが、内心はガッツポーズして大騒ぎしたい気分だ。


 心のアルバムに、この一杯を飲み終えた店長の笑顔を残しておこう。満足げな表情がすげぇ嬉しい。

 これまでは店長の息子、隆史さんがコーヒーを淹れて、俺はジュース類や軽食担当していた。これで俺もコーヒーを担当できる。

 味にうるさい店長から認められるという目標を達成できたのは自信に繋がる。自分に自信を持てずにいた俺にとってとても大きなことなんだ。


「でも残念だ。渋木くんは十一月いっぱいで辞めちゃうからねぇ」

「すみません」


 喫茶店スタンドランプで一年次から働いてきた。最初はホールで、今年の春からカウンターで。馴染んだバイト先で、店長も親切にいろいろと教えてくれた。

 でも、そろそろ家の仕事を真剣に学ぼうと思っている。経理など事務的なことも覚えなければならない。これは高木梨奈がうちでバイトする前から店長に伝えていたこと。


 だから、辞める前に店長からコーヒーの味を認められたのは本当に嬉しい。これからコーヒーを淹れるたびに大学時代の俺の成果として思い出せる。客席に置かれたスタンドランプが特徴的で、コーヒーが美味しいこの店を俺はずっと忘れないだろう。


 嬉しさを胸にカウンターを片付け、俺は店を出た。

 浮かれ気分で電車に乗り自宅の最寄り駅で降りる。目に入るのは帰宅途中のサラリーマンが行き交う見慣れた光景。いつもは一人一人の様子なんか気にも留めない。

 けれど今夜は、誰も彼もがその日その日を頑張っているんだろうなぁなんて思えた。

 疲れた顔をしている人も、明るく同僚と話している人も、みんな頑張ってるんだって温かい気持ちで思えた。


 俺もいろんなことに頑張らなきゃなって自然に思えて、そんな自分が嬉しかった。


 ジャケットのポケットからブルブルブルブルと振動がある。スマホに電話が入ったようだ。画面を確認すると、記憶にはない電話番号が表示されている。


「はい、渋木です」

「陽平くん? 私、高木ですけど」


 え? 彼女は俺の電話番号を知らないはず。


 バイトの件などでの用があるときは自宅の固定電話へ連絡することになっている。俺の電話番号が高木梨奈に知られていてももちろん何も問題はない。お節介な優里が教えたのかもしれないし、多分そうだろう。

 ただ、何かあったのかと心配になった。


「どうかした? 何かあったの?」

「うん、部屋の外に知らない人がいて……怖くて……」


 思い切り心細そうな彼女の声に、サァッと血の気がひいた。


 どうする? 俺は彼女の家を知らない。


「警察に連絡は?」

「まだしていない」

「じゃあ、早速連絡するんだ」

「判った。あと……陽平くん、来てくれる?」


 大学の帰りに一緒になった際、隣駅で降りていた。あとは具体的な場所、再び改札をくぐりながら、電話で聞いた彼女の住所を地図で確認した。

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