駆けた夜に

 駅から歩いて十五分ほどのところに高木梨奈が住むアパートがある。

 画面に映る地図で住所を確認したあと俺は走った。商店街を抜け住宅街に入ると、スマホの画面と周囲を確認して走った。


 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……。


 夜空に浮かぶ半月よりだいぶ丸みを帯びた月が、白よりやや黄色い。そんな月が何故か苛立たしい。半月なのか満月なのかはっきりしろよと言いたい気分だった。こんな気分になったのは初めてで、どうしてそんな気持ちになっているのか俺には判らない。

 でもとにかく苛立たしい。


 クソッ! 革靴じゃなくランニングシューズならもっと速く走れるのに……。


 アスファルトを噛む靴底が滑っているような気がする。もともとそんなに速く走れるわけじゃない。高校時代と違って速く走るためのトレーニングもしていない。

 それでも三年間長距離の訓練していたし、その後もしばしばランニングしてきたのだから、もう少し速く走れるはず。

 

 俺は不安だった。

 彼女に何かあったらどうしていいかと苛々していた。

 人の姿もまばらな暗い街並みを見ていると、ドンドン嫌な気持ちが膨らんでいく。


 あの角を曲がった先に彼女の部屋がある。急げ……。


 目印にと確認した歯科医院の看板が見える。その角を曲がれば、彼女のアパートがあるはずだ。

 そろそろ百メートルを切っている。ここでスパートしたところで、数秒も速く到着するわけじゃない。だけど、そうせずにはいられなかった。


 彼女のアパート前に着いた。胸も少し苦しいし息がだいぶ荒いけれど、とにかく三階まで行かなければと階段を急いで上った。


 ハッ、ハッ、ハッ、アァッ、ハッ……。

 俺の足音と息づかいが、まだ強く速く鼓動している心音とともに、耳障りだった。

 彼女の無事な顔と声以外、何も見たくないし聞きたくもない。


 三階に着くと、廊下の端に人影が三つ見える。廊下の明かりで見える二人は格好から警察官のようで、俺はホッとして立ち止まった。

 両膝に手をついて、一旦、呼吸を落ち着けようと努める。


 ハァー、フゥッ……。


 多少、落ち着いたところで、警察官が立つところまで近づいていった。

 警察官二人は若い男性の腕を掴んで立たせている。そしてまだ息の荒い俺を見つけて声をかけてきた。


「あなたは?」

「あ、高木さんの友達で……渋木と言います。……連絡を貰ったので……」


 汗だくな俺はきっと怪しく見えたのだろう。


「本当ですか? 彼はあなたのお知り合いですか?」


 扉の陰に居るだろう彼女に訊いている。彼女の顔が扉から見えた。不安そうな表情が、俺を見つけて少し和らいだように見えた。


「はい。私が連絡して来て貰ったんです」


 そうですかと答えて、警察官二名は男を掴んだまま俺の横を通り過ぎる。その際、俺は掴まれている男の顔をチラッと見た。

 大学で見かけたことがあるような、いや、人違いのような……とにかくはっきりとは知らない男だ。少なくとも啓太ではないのは間違いない。


 走っている間に、もしかして啓太がと一瞬頭をよぎったのだが、あいつは彼女には手を出さないという約束を守っているようだ。よく考えてみると、啓太には無茶なことする理由がない。一瞬でも疑って悪かったなと反省していた。


「陽平くん、ありがとう」


 部屋から出て高木梨奈が、まだ少し不安そうな表情で言葉をかけてきた。


「俺なら大丈夫。それより、もう部屋に入ったほうがいい。高木さんが無事なの確認できて安心したから俺も帰る」

「あ、今夜は一緒に居てくれない? 一人じゃまだ怖くて……」


 ……。

 俺の理性が試されるのか? 

 怖くて不安そうな彼女に対して、欲望まみれの不埒なことを考えるほど俺はケダモノではない。

 だがしかし、惚れている女性と一晩何もなく過ごすというのは、二十一歳の健康な男子にとって結構な試練ではないだろうか?

 そんな経験がないから、自分がどうなるかさっぱり予想できない。


 とは言っても、目の前で不安そうな彼女を置いて帰ることもできそうにない。このまま帰ったら、心配で眠れそうにもない。


「じゃあ、落ち着くまでは居るよ」


 ごめんねと言って、俺を促す彼女に従って部屋へ入った。


・・・・・

・・・


 彼女の部屋は、可愛らしい彼女のイメージと違って落ち着いた雰囲気の……淡い茶系インテリアで統一されていた。優里の部屋は白が基調で、それもお洒落だなとは思うけれど、彼女の部屋の雰囲気の方が気持ちが和らぐ。

 フローリングの床に、濃いめと薄めの茶系縞模様の小さなカーペットが敷かれ、天板がガラスのテーブルが置かれている。


 俺は胡座あぐらを組んでテーブルの玄関側へ座り、部屋の中をジロジロ見ないよう、少し開いたカーテンから見える外を見るようにした。


「ちょっと待ってね。紅茶を淹れてくる」

「ああ、うん、ありがとう」


 彼女の部屋着は濃紺のニットでモコッとして可愛いし温かそうだ。淡いグレーのゆったりとしたロングパンツも……、ダメだ、意識していなければ彼女を目で追ってしまう。


 外だ、外。外を見とけよ、俺。


 隣の家の屋根の上に、先ほどは苛つく対象でしかなかった月が見えている。今はまったく苛つかない。同じモノを見ていても、気持ちの状態で印象って変わるよなぁなどとどうでもいいことを考えていた。


「陽平くんはコーヒーの方が好きかもしれないけれど、うちには置いてないんだ」


 コトリとテーブルの上に置かれたティーカップから、紅茶の甘い香りがする。俺の正面に座った高木梨奈は、ペコリと頭を下げた。


 いやいや、高木梨奈が淹れてくれるなら、大嫌いな青汁だって喜んで飲む。


「無理を言ってごめんね?」

「いや、俺のことなら気にしないで」

「でも……」

「本当に気にしないでいいんだ。頼られてるのに何もしないのは嫌だから」


 いけません。

 しんみりした雰囲気は、俺のナイーブな片思いハートを刺激するのでよくありません。

 それに明るい空気にして彼女の不安を紛らわせないといけない。

 話題を変えないと……。恋愛総合経験値が激しく低い脳をフル回転させた。


「そうだ。俺の淹れたコーヒーがやっと店長に合格貰えたんだ」

「ほんと?」


 俺が店長に認められるよう努力してきたことを知る彼女は、目を線のように細めて笑顔になった。


「ああ、やっとだよ。半年近くもかかってさぁ、俺ってセンスないから時間かかっちゃった」


 お湯の温度や珈琲豆の状態などに気をつけてきた。センスのある人なら一~二ヶ月で美味しいコーヒーを淹れるだろう。でも俺はなかなか上達しなくて半年もかかってしまった。

 でも、とにかく嬉しかったから彼女に報告したんだ。


「陽平くんのコーヒーは最初から美味しかったけどなぁ」

「あはは、そう言ってくれるのは高木さんだけだよ。優里なんてさぁ、酸味が強いとか苦みが強いとか、わかったようなこと言って褒めてくれたことなんかないんだよ?」


 少しだけどいつもの明るい彼女の表情に戻ってきた。俺はそれが嬉しくて高校時代の失敗談や、優里にいつもイジられていることなどを話した。

 正直、格好悪いことばかり話していいのか? と思っていたけれど、今は、彼女の笑顔が最優先だろうと次々と話した。

 彼女は笑ってくれて、紅茶のおかわりを淹れてくれる様子も、俺が来た時より穏やかになった気がした。


「……俺って格好いいとこないよねぇ」


 頭を掻きながら俺がそう言うと、


「ううん、陽平くんは格好いいよ」


 あれ? 俺、褒められるようなこと話したか?


 ジッと見つめてくる高木梨奈の瞳をつい見返してしまった。


「おだてても、これ以上の黒歴史話さないよ」

「そうじゃない。私は本当に格好いいと思ってる」


 褒められ慣れていない人間というのは、ちょっとしたことで舞い上がったり、懐疑的になったりするもんだ。

 証言者ソースは俺。

 ましてや、惚れてる女性から褒められたりなんかした日には、その度合いは数倍レベルにまで上がる。


 俺はキョドった!

 テーブルの上に置いた手を握ったり開いたりし、彼女にどういう反応を返せばいいのか判らなくなってしまった。


「あぁ~、あ、ありがとござます」


 ござますって何だよ!!


 ほら、格好悪いだろ?

 こんな感じでいつも決まらない。それが俺だ。


 恥ずかしくて高木梨奈の顔を見られない。


「陽平くんは、私達のこと噂されているの知ってる?」


 え? 長沢優衣が言ってたことかな?


 真剣というか、少し真面目な表情に変わった彼女を見て、舞い上がり膨らんでいた俺の気持ちがダウンサイズされ冷静さを取り戻す。


「えっと、俺がバイト休みの日は、高木さんとドライブしているとか……そんな話かな?」

「そう、他にも……啓太と別れた私に言い寄っているとか……言われているみたい」


 そっかぁ、高木さんに迷惑をかけてしまっていたんだな。

 うちのバイトも辞めたいんだろうな。でも、あのゲリラ雷雨の日のことを、優しくて真面目な彼女は恩に感じて我慢して続けているんだろう。

 

 ああ、自分の幸せに浸っていて、そんなことも気付いていなかったなんて……。


「そっか、ごめんね。高木さんに迷惑かけているみたいだ。俺も家族も悲しいけれど、うちのバイト辞めても……」

「そうじゃない。違う。逆!」


 え? 逆?

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