彼女の希望
逆! と言ったあと、ひと息置いてから彼女は説明してくれた。
そのとても真摯な瞳をしっかりと受け止めなければいけないと思った。
「私、陽平くんのうちでのバイト辞めたくない」
「え、でも……」
「最後まで聞いて!」
「ああ、ごめん」
予想外の言葉につい口を挟みそうになった。だけど珍しく彼女の強い言葉が返ってきて、俺は反省する。
「実は陽平くんのお父さんとお母さんに相談していたのだけど……大学卒業したら花関係の仕事に就こうと考えてる」
「……」
「花屋さんをやるのもいい。花の貿易会社で働くのもいい。とにかく花に関わる仕事に就きたい」
「うん」
「陽平くんのお父さんの紹介で、いくつか会社訪問もしてる」
「……知らなかった」
彼女が花関係の仕事に就きたいということも、父さんと就職関係の話をしていることも俺はまったく知らなかった。大好きな彼女のことを全く知らないんだなと、自分が嫌になっていた。
「お会いした人事の方からの感触も良くて、必ず採用試験に来てくださいってどこの会社からも言って貰えた」
明るく気が利く彼女なら、きっと人事の人にもウケはいいだろう。確か、日本語と英語の他にフランス語も上手に使えると大学の友達から聞いた覚えがあるし。
「そっかぁ、良かったね」
「だからお客さんの感覚とか小売り現場が勉強できるから、陽平くんのところでバイト続けたい」
なるほどな。
なのに俺とのことが噂になって、バイト続けづらいから困ってる……ということか。
だけど実家だから、俺が出て行くという選択は出来ない。
どうしようか……。
「えーと、俺の家でバイトしてると高木さんに迷惑がかかるだろうから、そうだなぁ、父さんのツテで別の花屋さんを紹介したら……」
「違う! 私じゃなく陽平くんに迷惑がかかってるんじゃないかと……それが嫌」
へ? 高木さんと噂になるとなんで俺が困るんだ?
「……俺、全然迷惑じゃないよ」
「ほんと?」
「まったく」
「だって……あの啓太の元カノと噂になっていて、面白おかしく好き勝手なこと言われていて……嫌じゃないの?」
菊沢啓太は相変わらずモテているようだ。だけど、今カノの鈴木絵里香が厳しく目を光らせているらしく、以前のようには啓太は遊べないみたいだ。ま、俺は高木梨奈にちょっかい出してこなければ、啓太の状況などどうでもいいこと。
「啓太とのことももう過ぎたことだし、俺にはどうでもいいことだな」
「え、でも……」
「何を気にしているのか判らないけれど、高木さんと噂になって嫌なんてことはまったくない。俺のほうこそ高木さんに迷惑かかってるんじゃと気になっていたくらいだよ」
「……そう……」
ムキになって話したおかげか、高木梨奈の顔色も普段通りまで回復したように見える。
ふと壁を見ると、時計は深夜一時を過ぎている。明日に備えて彼女を寝かせなきゃいけない時間だ。
俺はこのまま居ちゃいけない……彼女のために……俺の精神衛生のために……。
「元気も出たようだし、そろそろ帰るね。きちんと鍵をかけておけば大丈夫だ。もし何かあったら遠慮せずに電話してくれれば必ず来るからさ」
「もう電車ないよ?」
「はっはっは、これでも長距離選手だったからね。隣駅の我が家までならジョギングペースで走って帰るくらいできるよ」
「……無理に引き留めてごめんね?」
「今夜は謝ってばかりだねぇ。でも俺は頼られて嬉しかったし、高木さんに何も起きなくて良かった。もう謝らないでよ」
俺は立ち上がって玄関で靴を履く。
見送りのために玄関まで来てくれた彼女に、「おやすみ、ほんと何かあったらすぐ電話してよ? じゃあね」と言って玄関ドアを開ける。
「おやすみなさい。陽平くん、ありがとう」
そう言ってくれた彼女に笑顔で手を振りドアを閉めた。
カチャリと鍵がかかる音が聞こえ、俺は階段へ向かった。
必死に考えないようにしていたけれど、好きな女性の部屋で二人きりというのはやはり危険だった。
不安そうな表情をしていたときは、元気づけなきゃと明るい話題を振らなきゃと必死。だけど、彼女が元気になってきたと判ると、紅茶を入れ替えるために立ち上がったり、俺の横を通るときに漂う柔らかな香りに反応しそうになっていた。
あと、彼女が格好いいと俺を褒めてくれたときなど、思わず告白してしまいそうだった。
あれも危険だったな。怖くて弱っている時に告白するなんて情け無い気がする。誰かに頼りたい気分を利用するのは嫌だ。だけど思わず言いそうになっていた自分を思い出して自己嫌悪。
高木梨奈には嫌われていないと思う。だけど、好かれているかといえば判らない。もし俺が告って、彼女がバイトしづらくなったらと思うとそれも嫌だ。フラれるのも怖いけれど、彼女のやりたいことが見つかったというのに邪魔するようなことするのはもっと嫌だ。
今夜、告らないで良かったと思う。
でも危うく言いそうになった自己中な自分が気に入らない。
見上げるとさっきまで苛立つ対象だった月が見える。あの月に笑われても仕方のない男になってしまったようで、自分が情け無い。無駄に余っている情欲を、このまま家まで走って汗と一緒に流し出してしまいたい。
フゥー、ハッ、ハッ、ハッ……。
俺は無心になりたくて家路を走り出した。
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