本屋の女
僕は大学一年。ようやくキャンパスの雰囲気や配置にも慣れて来たところだ。
今日は講義がないので、久しぶりに神田の本屋街に行ってみた。
地下鉄の駅を出て、古本屋が並んでいる先まで行くと、目当ての本屋だ。
実は本が目当てではない。
そこで働いている女性が目当てだ。
まだ二十代なのだろうけど、清楚で、気品があって、他のお客との会話を聞いていると、知的な印象も受ける。
もう何度も足を運んでいるが、話した事はない。
彼女は大概乱れた本を並べ直したり、違うところに戻された本を元の場所に戻したりしていて、レジにはあまりいない。
本を探すフリをして、彼女を探したりするのだが、そういう時に限って、彼女は難しい本が並んでいる書棚を整理していたりする。
さすがに気が引けて、その書棚には近づけない。
それでも、時々目が合ったりする。
すると彼女は、ニコッと微笑んで、会釈する。
僕はぎこちなくそれに会釈を返し、逃げるように移動してしまう。
変な奴だと思われているだろうなあ。
ほとんど何も買わずに店を出ているしなあ。
そう思ったので、今日はある講義で某教授が言っていた哲学書を買う事にした。
哲学書のコーナーに行くと、彼女がいた。
しかも、僕が探している本の前に。
近づき辛くて、遠くから見ていた。
しばらくして、彼女はその場から移動した。
僕はまるでその隙を突くように動き、目当ての哲学書を取った。
「わ」
高い。想像していたより値段が上だ。持ち合わせがない。
「そちらをお買い求めですか?」
いきなり彼女に後ろから声をかけられて、僕は、
「わわ!」
と驚き、本を平積みの上に落としてしまった。
「ごめんなさい、ビックリしました?」
彼女は申し訳なさそうに僕を見ていた。
「いえ、大丈夫です」
僕は慌てて本を元に戻し、頭を下げた。
「それ、お高いですよね」
彼女が言った。僕は書棚を見たままで、
「ええ」
と溜息混じりに答えた。
「この先の古本屋さんに、それとは装丁が違いますけど、同じ内容の本がありますよ」
「え?」
僕は驚いて彼女を見た。他所の店の事を教えるなんて、この人、どういうつもりだろう?
「その本は何十年も前に書かれたものですから。古くても差し支えなければ、そうなさいませんか?」
彼女はニコニコして続けた。僕はその笑顔が眩しくて、
「あ、ありがとうご、ございます」
とたどたどしい口調で礼を言った。
「どういたしまして。貴方はいつもごらんになった本をきちんと元の場所に戻して下さるので、そのお礼です」
そんな事、見てくれていたんだ。何だか、この人の事がもっと好きになった。
「それと、私は」
彼女に左手の薬指に光る指輪を見せられた。
「は、はあ」
それも見破られていたのか……。でも、指輪には全然気づかなかった。
「恋の相手にはなれませんが、相談になら乗れます」
「はあ」
それは余計なお世話だ。貴女が既婚者であるなら、もうこの本屋には来ないし。
「あちらの書棚の前にいる女性、いつも貴方を探していらっしゃる方です。お話してみませんか?」
彼女が右手で示した先にいたのは、同じ大学の同じ英語クラスの女子だった。
「ああ」
その子は僕が見たのに気づき、本で顔を隠した。
探してばかりで、探されている事に気づいていなかったのか。
僕は、
「よろしくお願いします」
とその少しお節介な本屋の美女に頭を下げた。
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