5話 至高の王

「け、契約ってそもそもなんなの?」


「いいからすると言……」


 アシュタムの言葉が急に途切れる。

 蚊のような見た目の化け物が私に背を向けて、彼の口のあたりに糸を放ったのだ。

 契約……したほうがいいのかなでも魂を取られるとかだったらどうしよう。でも、なにもしなければどっちみち今死んじゃうんじゃ……。


「ひひひヒヒなんだかよくわからないけドボクのことをバカにしたナそっちの犬ころから食べるもんネ。おんなのこはやわらかくてあまくておいしいかラあとで大切にたべてあげるからネ」


 アシュタムに近寄りながら首をグルンと180度近く回転させた蚊男は、こっちを見るとゲヒヒと笑って見せ、また首を元に戻した。

 なにこれ意味わからない。話す犬、謎の繭、ホラー番組に出てきそうな昆虫と人間のハーフみたいな化け物……悪夢にしても色々盛り込みすぎでしょ……。

 私は今にも蚊男の針が刺さりそうなアシュタムを見て焦る。思考がまとまらない。

 アシュタムの首に蚊男の針が突き刺さろうとしたとき、口に巻き付いていた糸を無理矢理外したらしいアシュタムの鋭い牙が、蚊男の針の少し上の肉の部分に食い込む。

 蚊男の悲鳴と共に私の手足の拘束は確かに緩んだ。逃げられる。でも、どうしよう……。

 

「もういい!とにかくお前は逃げろ。力なきものを守るために傷つくのも王の役目だ」


 蚊男に噛み付いていたアシュタムが牙を離し放心状態の私にそう叫ぶ。

 その言葉で私は弾かれたように走り出す。視界の隅で、蚊男の放った糸が再びアシュタムを捉えるのが見えた。


「無能な魔術師の生意気な使い魔メ! ひひヒヒ特別に苦しませて殺してやル」


 走って逃げる私の背中にそんな蚊男の声が聞こえて、思わず立ち止る。

 王の役目……そういったけど、彼は今私の大切な飼い犬だ。それが例え彼が歪めて作った事実でも。

 正直怖い。でも、どうせ生きて帰っても私に価値なんてないし、毎日、死んでしまいたいって思ってたじゃない……。失敗しても、自分で死ぬ手間が省けるだけ。そう自分に言い聞かせると、回れ右をして走り出す。


「なぜ……戻ってきた」


 走って戻った先に広がっていたのは前足と後ろ脚を一本ずつちぎられ息も絶え絶えになっているアシュタムの姿だった。目を覆いたくなるけどそんなことをしてる場合じゃない。考えろ。どうすれば彼を助けられるのか。


「間抜けな主人がわざわざ食べられに戻ってくるとハ……今日はいい夜だなア」


 怒りで頭が沸騰しそうになるのを抑えながら、私はアシュタムからちぎったであろう足から血を啜っている蚊男を睨み付けた。


「アシュタム! 契約する! よくわからないけど、それであなたが助かるなら」


 私がそう言い終わるが早いか、アシュタムの体に拳大の赤い光の球体がどこからともなく集まっていく。

 赤い球体が放つ光に照らされたアシュタムの身体はちぎれた足が生えそろいっていた。そして、失った足を取り戻した彼の顔は怒りに満ちていた。


「な、なんダ」


 いきなり明るくなったことに驚いた蚊男がアシュタムがいた方を振り向く。

 アシュタムがいたはずの場所はどんどん赤い球体が集まっていって、あっという間に太陽みたいに轟々と音を立てそうなほど強く輝いている。

 私も何が起きたかわからなくて、その光の球を見ていると光の中心からゆっくりと背の高い男性の影が姿を現した。


 それは、夢で見た漆黒の二本の角を持つ褐色の肌のエキゾチックな顔立ちをした男性だった。

 真っ赤な光はいつの間にか赤いじゅうたんのように蚊男の足元を覆いつくし、私の元まで続いている。

 光から出てきた青年の、絹のように細くて美しい真っ黒の髪が歩くたびに揺れ、身に纏っているターコイズブルーのゆったりとした、どこかアジアの国の民族衣装を思わせる服もどこからともなく吹いてきた風に靡いてはためいている。

 彼の耳についた金色の細かい細工が施してある耳輪や、宝石がちりばめられた首飾りたちは、ぶつかり合い、シャンシャン…とまるでアシュタムが歩くことを祝う楽器のように上品な音を立てた。


 その堂々として悠然とした歩みはまさしく王という概念そのものだった。

 王様を見たことがない私でも一目見ただけで圧倒される雰囲気を纏ったその褐色の肌の男性は、動けずに思わず跪いた蚊男を通り過ぎ、そのまままっすぐ私の方まで歩いてくる。

 そして、私の目の前で立ち止まった男性は、私の肩の上に手を置くと、そのまま歩いてきた道の方向へ振り返った。


「この顕現に跪き畏れ敬え。その瞳に異界の王を写す不幸に恐れ戦け。我こそが魔を総べる王、魔法を極めしほむらの一族、紅鏡たいようの子であり偉大なる至高の王アシュタム」


 アシュタムと名乗った男性は低く威厳のある声でそう言いながら、跪いて動けない蚊男の方へ手をかざした。

 まさか、これがさっきまで犬だったアシュタム? と混乱する。でも、声は確かに犬の時と変わらない。


「貴様の愚かで浅ましい行為のお陰で我の契約は成立した。下等な悪霊風情が、高貴な身である我に触れたことは許しがたいが、元の姿を一時的にとは言え取り戻せた我は気分が良い。此度の罪は忘れてやるとしよう。ありがたく思え」


「ご慈悲をありが……」


 立ち上がりそういった蚊男の言葉を最後まで待たず、アシュタムの手からは人の頭ほどの大きさの炎の球が放たれる。


「せめてもの情けだ。一瞬で楽にしてやる」


 蚊男がどんな顔をしたのかまでは見れなかった。アシュタムの言葉と共にゴウっという音と熱風を感じて思わず目を閉じる。

 目を開いた時には、蚊男も、さっきまで廊下に張り巡らされていた黒みがかった紫の糸も繭も全部きれいさっぱり消えていた。

 私の肩を抱いていたアシュタムは、蚊男が消えたのを確認すると表情を和らげた。

 伏し目がちにすると、頬に影が落ちるほどの長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳で見られると緊張で生きが詰まりそうになる。

 なんとなくだけど、犬の時よりもやっぱりヒトの姿をしている方が表情がわかりやすい……気がする。


「本当にお前はわけのわからない女だな。契約をしろと言えば逃げ、逃げろと言えば帰ってくる」


 一瞬だけ呆れたように笑ったアシュタムはさっきまでの荘厳というか重々しいというか、変な重いオーラを纏っていない普通の男の人みたいな顔だった。

 それもすぐにまた凛とした表情に変わり、アシュタムは私に映画に出てくる貴族とか王子様がお姫様にするようなうやうやしいお辞儀をして言葉を続ける。


「だが、お前の決意でオレは救われた。心からの礼を言う。ありがとう」


 さっきまでとは全然違う、穏やかな表情と声色だった。


「不死の加護を受けているとはいえ、お前の行動はオレの命を救ったも同然だ。軽蔑すべき角なしの一族だからと言ってその恩を無碍にすればオレの名誉にかかわる」


 名誉とか、角なしの一族とかはよくわからないけど、とにかく私はお礼を言われたということだけわかる。

 なんだかさっきまでとはまた違う現実離れした雰囲気に気圧されてよくわからないまま首を縦に振る。


「契約をさせ、ただの道具として使ってやろうと思っていたが、そんなわけにはいかなくなった。一時のことであるが、恩人であるお前をオレと対等の主人として認めよう」


 そう微笑んで言ったかと思うと、アシュタムの角にある8つあった輪のうちの一つが金色の光の粉になってふっと消える。

 それと同時にアシュタムはまた真っ黒の大型犬に戻ったのを見て、緊張が緩んだのか私の意識は途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る