3話 紬とアシュタム

 マンションの前まで辿り着いた私はやっと足を止めて後ろを振り向いた。何も付いて来ていないことがわかって胸をなでおろす。

 それにしても教室にあった繭と眼はいったいなんだったんだろう。

 今にも破裂しそうなくらい心臓はドキドキしている。

 胸のあたりを抑えて咳き込みながら、エレベーターの8Fを押す。とりあえず、家に帰れば大丈夫…なはず。

 早歩きで部屋に向かってドアを開ける……と目の前に不機嫌そうな黒い犬が目に入ってきた。

 ああそうだ。イマジナリ―ペット……話す犬……。いや、イマジナリーではないかもしれないけど。

 夢じゃなかったのかーそうだよねーと少し肩を落とす私。

 溜息しか出ない。確かに変えてくれとは神様にお願いしたけどこういうことではない。

 信じてもいない神様に悪態をついたところで、待ち構えていたのであろう不機嫌そうな犬が不機嫌そうな声で話しかけてきた。


「……お前、学校でなにがあった」


「え? なにもないけど……」


 話してわかるようなことは……と心の中で付け加える。こういうことを聞かれたときになにか話しても馬鹿にされるか怒られることを私は嫌というほど知っている。

 お父さんもお母さんもそうだった。

 犬も同じとは限らないけど、でも私はいつもの癖で全部を隠す。

 両親あのひとたちならそれで終わるのに、犬はそうじゃないらしい。

 クンクンと鼻を鳴らし、私の体を一周して私の前にわざわざ座りなおした。


「朝見た時より顔色も悪い。呼吸も心音も乱れている。なにより、嫌な匂いがする。何があったか言え」


  私の顔を凝視して、もう一度話した犬の声は、不機嫌そうな声ではなく、静かな、諭すような声色だった。

 言葉だけ見たら冷たいような言い方でも、彼の声や言い方は「そう」と無関心に済まされる時よりも心がギュッと重くならない不思議な感じがする。

 私はしどろもどろになりながら大きな紫の繭のこと、それがクラスメイトに繋がっていたこと、そこから目玉が覗いていて自分が睨まれたことを話した。

 話した後、もっと早く言えと怒られるかな……。怒鳴られることを予想してつい身体がこわばる。

 でも、目の前の黒い犬は私を怒鳴ったりしなかった。

 犬なので表情を読むのは苦手だけど、朝よりも帰った直後よりもなんだか雰囲気がやわらかいというか…そんな感じで目の前にいる犬は今から怒鳴る様子も私を貶す気配もしない。機嫌がいいのかその証拠に黒くて長い毛に覆われた尾もゆっくりと左右に揺れている。


「角なしの女、よく話してくれたな。名を名乗れ。オレの問いに隠し事もせず正直に答えたお前には名を覚えるだけの価値がある」


「え……明崎あけざき…。明崎 紬あけざき つむぎ……」


 高圧的で言葉だけ聞くと本当に何様だと思ってしまいそうだけど、その声には優しさというか、頼もしさというか、なんだか全てを委ねてしまいそうな雰囲気があって、気が付いたら思わず名前を素直に犬に伝えていた。

 なんとなく満足そうな顔をしたかと思うと目を細めたその犬の視線を、私はなんだか優しく感じて案外、悪い犬ではないのかもしれないと思ってしまった。なんかやたら偉そうだけど…でも怒鳴ったりバカにしてこないのはうれしいというかホッとする。


「よし、紬。オレをその繭のところに連れて行け。なるべく邪魔の入らない時間……そうだな…夜にしろ」


 前言撤回。


「無理だよ。お母さんがなんていうか……」


「オレの散歩ということにすればいい。なに、少しくらいの記憶ならまた捻じ曲げればいい」


 記憶を……捻じ曲げる?

 怖いこと言わなかったこの犬?


「お前以外の記憶を多少改竄かいざんするくらい犬の身になっていても簡単なことだ。 ちなみに、オレはお前の親がお前の誕生日に買ってきた犬ということになっている」


 視界がぐるぐるする。私がもらったことのないはずの犬……。だからお母さんは特になにも言わなかったんだ。

 でも、それなら……それなら私の記憶もいじってほしかった。私だけおかしいのは嫌だった。

 私の記憶が変なせいで、両親あのひとたちにまた迷惑をかけたり怒られることは嫌だった。


「あの、犬……さん?」


「アシュタムだ。お前はオレの飼い主ということになっている。角なしだが特別に我が名を呼び捨てにすることを許そう」


 機嫌が良さそうに尻尾をゆったりと振っていたアシュタムは私の顔を見て首をかしげた。

 変に思われてもいい。嫌な汗が出る。胃がキリキリと悲鳴をあげる。だから言わずにはいられない。親と違うことは怖かった。だからそれを少しでもなくせるならそうしたい。

 だから私は勇気を振り絞ってアシュタムに頼むことにした。


「私の記憶も変えて、両親あのひとたちと同じ記憶を持たせてほしい……」


「……何故お前が記憶を改竄されたいのかはわからないが、お前に記憶操作はできない。お前の記憶や感情に介入することは禁じられている。オレとしてもお前の感情や記憶を操作できたほうが楽ではあるのだがな」


 そんな……と思わず膝をつく。

 アシュタムは深く絶望をする私をただ見ていた。彼の眼に私がどう映るのかまで考える余裕はない。


「紬、何を絶望しているのかはわからぬが、オレと契約を果たし、オレがすべての力を取り戻したあかつきにはお前の願いをなんでも一つ叶えてやろう」


 そんな彼の言葉に答えるだけの気力がなかった私は、ふらふらと壁に手を付きながら部屋へと向かう。

 少し怒った唸り声をあげたアシュタムが何か言っていた気がするけど、何も耳に入らなかった。

 学校でのあの目玉から睨まれたせいなのか、一瞬してしまった期待が絶望に変わったからか、変な話す犬がいつの間にか私の家にいたからか、その全部のせいかわからないけど、とにかく疲れて眠くて仕方なくて、私は制服のままベッドに俯せになるとそのまま微睡まどろみに身を任せる。


 ……ああ……またお母さん制服に皺が出来るって……怒られちゃうな。でも、もう限界。

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