第10話

時間と記憶について

 思い出は少ないほうがいい。別れを切り出す人にとっても、別れを伝えられる人にとっても……。楽しい思い出や、嬉しい思い出が必ずしも人を幸せにするとは限らないのだから。ましてや苦しく、つらい思い出など……。


 11月も終わりかけた秋深まる日、僕と恵ちゃんは、彼女の自宅近くにある大きな池のある公園に来ていた。この場所で僕らは初めてキスをしたんだ。あれからもう一年近くの時間が過ぎようとしている。いや20年の月日が流れたと言ったほうが良いのだろうか。ただ一つ確かなのは、この場所での出来事が、まるで昨日のことのように鮮明に僕の頭の中に焼き付いているということ。


 時間という概念と、記憶という概念は必ずしも相関関係にあるわけじゃない。記憶が鮮明だからと言って、その出来事が現在への近接性を示しているわけではないだろう。たとえ、どんなに時を経た過去でも鮮明に覚えている出来事は決して少なくないはずだ。時間と記憶は、バラバラという仕方で存在しているにも関わらず、それでも確かに密接にかかわっているという矛盾を孕んでいる。


 遠い過去と近い過去、この2つの時間軸に大切な記憶を二回分も持っているという事だけで、もう十分な気がした。


「瞬ちゃん、なんか……。ちょっといつもと違うね」


 僕の少し先を歩く恵ちゃんはそう言って立ちどまり、少しだけこちらを振り返った。秋の冷たい風が、彼女の前髪を優しく揺らしている。舞い上がった枯れ葉は音を立てて僕たちの間をすり抜けていく。そして、そんな情景に心が少しだけ渇く。


「大事な話があるんだ……」


「うん……。なんとなく分かるよ」


 彼女はまるで僕の心の中を見透かしているように、その大きな瞳に愁いを湛えていた。


 彼女はもう僕の心情を深く読み取っている。僕はそう直感した。僕らは昨年もそうしたように、池のほとりにある小さなベンチに腰掛けた。秋の日差しに揺れる水面は相変わらず穏やかだ。ただ、今日はボートに乗っている人影は見当たらない。


「恵ちゃん、俺たち別れよう……」


 端的な結論だけを伝えた僕の言葉に、彼女は動揺するでもなく、目の前に広がる池の水面を眺めながらしばらく黙っていた。なんとなく時が止まるとはこういう事なのではないか、そんな風に思えるぐらい、全てが静止しているように感じた。その間、僕は彼女の横顔を見ることさえできずにいたけれど、その頬には涙が流れていることは、彼女の息遣いからも容易に想像できた。


「瞬ちゃん、つらかったね、きっと……」


「えっ?」


「つらい思い、させちゃったね……」


「恵ちゃん……」


 いや、つらいのは、君のほうだろう……。


 僕は、君に降り積もる悲しいみや絶望を少しでも取り除きたいと、ただただ、そう願った。その帰結はやはり彼女に深い悲しみの感情をもたらしている。でもこれで良いはずなんだ……。


「今までありがとう。沢山の幸せを……ありがとう」


 彼女はそう言って、ゆっくりとベンチから立ち上がる。


「瞬ちゃん、最後に一つだけお願い」


 言葉が出ない。情けないくらいに思考が言語化を阻害している。今にも溢れそうな涙を懸命にこらえ、彼女を見つめることしかできない。なぜ、こんな僕をそこまで……。


「ほら、立ち上がって」


 僕は恵ちゃんに手を引かれ、そのままベンチから立ち上がる。


「キスしよう」


 恵ちゃんと過ごしたこの一年と少しの時間が、走馬灯のように僕の頭の中を駆け巡っていく。記憶のそれとはまた違った二人の時間ではあったけれど、それはかけがえのない時間であり、とても温かく、そして優しい時間だった。


 恵ちゃんのぬくもりがスッと消えていく。はたと気づけば、彼女は僕に背を向け、ゆっくりと公園の出口に向かって歩き始めていた。


「これで……良かったんだ」


 僕は彼女の背中を見つめながら両手のこぶしを握り締め、そう呟くことしかできなかった。


 とある哲学者は言った。残酷さというのは、非道さとか邪悪さとかではなく、どうしようもなさに近いと……。しかし、そういうものだと割り切れるほど、心が強くないのはむしろ僕の方だったかもしれない。


 駅のバスターミナルにつくと僕は電話ボックスに向かった。公園からここまで正直どう歩いてきたかあまり記憶にない。電話ボックスの狭い空間に入ると少しだけ落ち着いた。ぼくは軽くため息をつくと、10円玉硬貨をいくつか公衆電話に投入し、ポケベルに搭載されている電話帳を検索した。


「うん。事情はタムちゃんから聞いたよ。瞬ちゃんも、きっとつらかったね」


 受話器の向こうから僕の耳に届く、今ちゃんの声は落ち着いていた。


「この間は、急に帰ったりしてごめん。それで、うまく伝えられた?」

 

いつもの風景がまるで別の場所、そう異国の景色のように感じられる。恵ちゃんと一緒に歩くことのないこの街の時間はとても無機質なものだ。ただただ、この決断が正しかったと、僕はそう信じるより他ない。この選択が、彼女の希望に繋がっていくのだと……。


「ああ。伝えた……」


「うん。分かった。ヒラメのことは心配しないで。私が何とかする」


 今ちゃんの声も微かに震えていたのかもしれない。悲しみとはいったい何だろう。それは、涙を流させる何かなんだけど、なんとなく捉えどころがない。


――いや、人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのかもしれない。


 狭い電話ボックスのなか、通話の切れた受話器に向かって僕はそう呟いた。


 その日、夜遅くまで僕の目は冴えていた。寝付けそうにもない夜でもやがて闇は去り、朝がやってくる。自然は人の感情を考慮しない。自然は雄大で美しいが、時に残酷で無情なんだ。


 翌朝、寝ていないせいか僕の頭は一日中、思考が鈍っていた。とにかく学校まで行きついたものの授業の内容などまるで頭に入らない。


――この感覚、あの時とよく似ている。


 何か理由があるわけでもないのだけど、日々の生活がどうしようもなく苦しくなる時がある。


「瞬ちゃん、今日はカラオケでパーっと行こうぜ」


 タムちゃんや和彦はそんな僕を気遣ってくれた。ただ、僕自身、何かを楽しもうというような気力はわいてくるわけもなく、彼らと遊ぶ気分ではなかった。だから、なんとなく気分が優れないんだ、なんて言いわけしながら、家と学校を往復する日々が続いた。


 時が解決するなんて言うのだけれど、その時間軸はあまりにも幅がある。出来事の種類によっては、時だけでは何も解決しないのだと思い知った。


 放課後の教室で一人机に頬杖をつき、なんとなく窓の外を眺めていると、ほんの少しだけ心が落ち着いた。焦燥や後悔の念が薄まり、ちょっとだけ楽になる。あの日以来、僕はそんな時間を求めて続けていた。


 ぽっかり開いた大きな心の空洞に、灰色の空がよく馴染んでいく。この教室から見える景色に吸い込まれそうになると、ふと自分にはやはり何かが欠如しているのだなと思う。


「お前ら別れたんだってな。まあ、元気出せよ」


 岸本の声は、なんとなく感情が欠如したように感じる。教室で彼に話しかけられるのは珍しい。


――お前に何が分かるってんだ。


 僕はそんなふうに言いだしそうになってしまう自分を何とか抑え込む。だから口をついて出てきた返事は「ああ」なんていう、なんとも無関心な一言だけだった。


「まあ、今度うちに来いよ。レアなギアーとか、いろいろあるからさ」


 そういえば、岸本の家は地下に防音室があって、ギターをはじめ、ピアノやドラムセットまであるという話を聞いたことがあった。直接、彼から聞いた話ではないし、当然ながら彼の自宅に行ったこともなかったから嘘か本当かは知らない。レアなギターがどうした、とも思ったりもするわけだが、ただ、これは彼なりの気遣いなのかもしれない。僕は今まで、あまり岸本という人間を見ようとはしなかったが、自分がおもうほど、悪い奴ではないのかもしれない。


「ああ、いつか、お前んちでギターでも弾かせてくれ」


 その日の学校帰り、僕は自宅近くにある小高い丘に向かっていた。恵ちゃんにポケベルを見せてと言われ、それを断って喧嘩になったり、あるいはポケベルを見せて恥かしい思いをしたりと、この丘では時間軸にして二回ほど彼女との思い出がある。二回繰り返した時間の記憶は、いつしか互いに混じり合い、その境界線を失いつつある。


「時がたてばたつほど、出来事は曖昧になっていく……」


 本当は美しい思い出だったのか、それとも悲しい思い出だったのか……。混じり合う記憶の中の出来事。僕にとって、二つの記憶の中の恵ちゃんという二重化された存在が、ようやく一つの存在たらしめてくれる、そんな気もした。


 しばらく灰色の空に見とれていた僕は、ズボンの左ポケットに入れていたポケベルのバイブレーター作動音ではっと我に帰る。ポケベルを取り出し受信メッセージを確認すると、今ちゃんからのメッセージだった。彼女は、あれ以来、恵ちゃんの様子を事細かに教えてくれていた。


 僕のポケベルの受信ボックスには、恵ちゃんからのメッセージではなく、今ちゃんが送信してくれる彼女の状況を伝えるメッセージが並ぶ。「ヒラメはダイジョウブソウ」とか「ガツコウモヤスンデナイヨ」とか……。ただ、今受信したメッセージには彼女の状態ではなく「キョウノヨルデンワスル」とだけ書かれていた。

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